掌編小説「黄色い帽子」

 あの少年は、今いったいどこにいるのかしら。一人きりになると、敏子の心に、少年との思い出がしみじみと思い起こされる。
 彼女の手に残された小さな黄色い帽子。それが少年のすべてを物語っていた。黄色い帽子に秘められた不思議な懐かしい記憶が鮮明に甦ってくるのだった。まだあどけなく、親しみのある少年の笑顔が彼女の心に深い印象を刻み込んでいた。
 街に秋風が吹く頃に少年と出会い。それからもう一年以上も過ぎ去ろうとしていた。

 公立図書館の司書として働いている敏子は、その日の午後、閲覧室に返却されていた山積みの書物の整理に追われていた。ようやくその作業が一段落して、彼女が「貸し出し」のカウンターに着いて、管理用のコンピューターのモニターに眼を通しているところへ、その少年が現われた。
「これ、貸し出しをお願いします」
 ややエネルギーダウン気味に、敏子がパソコンから眼を上げると、カウンターの前で小さな少年が、一冊の書物を両手にして、こちらを見上げている。青いTシャツに白い半ズボン、ニコニコした笑顔の上に黄色い野球帽が乗っかっている。
 初めて会う男の子だった。彼の純粋で潤んだ瞳が印象的だった。何気なく、敏子は少年の手にした書物の題名に眼がいく。ハードカバーの大型本で、スチーブンスン作の「宝島」だった。
「この冒険物語、前から読んでみたかったんだ。僕、本を読むのは得意だから、ニ、三日もあれば読み終えちゃうと思う」
 敏子は精一杯の笑顔を浮かべて、「そうなんだ。でも返却までには二週間あるからそんなに急ぐ必要ないわよ」と少年に言う。
 すると少年は、真剣な顔つきで敏子を覗き込んで、
「お姉さんは読書するの?――だって、ここにはたくさん本があるんだもの」
「ええ、お姉さんも子供の頃はよく読んだわ。確か、最初に読んだのがルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』だったかしら。でも細かい内容はもう忘れちゃったわ。機会があれば、また読んでみるわね。そうそう、図書館の貸し出しカードは持ってるかしら?」
 あわてたように少年は、ズボンのポケットをゴソゴソ探してカードを敏子に手渡した。カードの氏名欄には「前原純太」と記載されている。
 敏子はニッコリして、
「純太君っていうんだね。この本、読んだらお姉さんに感想を聞かせてちょうだい。楽しみにしてるから」
「うん、わかった」
 そう言うと、本とカードを受け取って、少年は嬉しそうに急いで去って行った。その小さな後ろ姿を見守りながら、敏子は彼と自分との、過ぎ去った日々を重ね合わせて、しばらくボンヤリしていた。

 少年が再び図書館にやって来たのはそれから一週間後だった。事務室の控え室で昼食を食べ終え、少し眠気のさした敏子が受付のカウンターにもどると、そこで純太君が寂しそうに二冊の本を抱えて彼女を待っていた。
 敏子の顔をみて、安心したように笑顔で少年が言った。
「この『宝島』、とっても面白かったよ。主人公のジムと海賊たちの対決に、僕ワクワクしたよ。だってどんどん話しが変わっていくのでドキドキしながら、あっという間に読んじゃった。お姉さん、どうもありがとう」
「いいえ、すごく面白そうね。お姉さんも読んでみようかな」
 そして少年を覗き込むと心配して尋ねた。
「純太君、この近所に住んでるの? 本も楽しいけどね。学校のお勉強もしてるのかな、パパとママに叱られない、大丈夫?」
 すると少年の顔がフッと寂し気に暗くなった。
 少年が言った。
「僕、二年前に父さんが交通事故で死んで、それからお母さんと一緒に暮らしているんだ。僕、一人っ子だけど、本を読むの好きだから寂しくないし平気なんだ」
「そう純太君は、強いんだ…お姉さんイヤな事、訊いてごめんなさいね。――ああ、そうそう」
 そう言うと、敏子は急に思い出して、事務机の引き出しから、あるものを取り出して、少年に差し出した。
 それは、紅い和紙で出来た、四葉のクローバーをアレンジしたシオリだった。
 敏子がこっそりと言った。
「このシオリ、純太君にプレゼントしようと思って、お姉さんが手作りでがんばったのよ。よかったら読書する時にでも使ってちょうだいね」
 少年は感激して満面の笑顔を浮かべた。彼は黄色い野球帽を脱ぐと、ペコリと頭を下げて、それを受け取った。そして言った。
「お姉さん、僕、これ、大切にします。えーっと、この本は返して、この本の貸し出し、お願いします」
 新しい本の題名は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』だった。
 
 少年と敏子の、最後の出会いとなったのがそれから三日後のことだった。閲覧室はテーブルに着いて耽読する人たちの姿もまばらだった。壁掛け時計の時刻はすでに午後の四時を回っていた。
 受付のカウンターで、山積みの書物を前にして、敏子はうんざりした気分に油断して大きなあくびを漏らしていた。
「お姉さん、こんにちは」
「ああ、純太君。うっかりしていてごめんなさいね」
 少年は相変わらず、大きな本を抱えて笑顔をみせている。敏子は少年から本を受け取ると、山積みにしてある本の上に載せた。
 しばらく沈黙が続いたあとで、少年が少し困ったような素振りで言った。
「ええっと、残念だけど、実は僕、もうすぐ、お姉さんとお別れなんだ。遠いところに移ることになったの。でも、今まで楽しい本がいっぱい読めて、それにお姉さんとも、たくさんお話できて、僕、しあわせだよ。本当にありがとう」
 敏子はしばらく黙っていたが、言葉をかみしめるように言った。
「お引越しするのね。――でも、お姉さん、純太君のこと、いつまでも忘れないわ。純太君も元気にがんばってね」
「うん、ありがとう。それじゃあ……」
 そう言って、少年はその場から逃げるように去り、閲覧室の奥にある小さな書庫の中へと消えていった。びっくりした敏子はあわてて立ち上がると、少年のうしろ姿に声をかけた。
「純太君、そっちは行き止まりよ!」
 急いで敏子は少年のあとを追って書庫のなかへと駈け込んだ。照明のスイッチを入れる。明るくなった書庫には何列かの書棚が整然と並んでいる。しかし、どこにも少年の姿はなかった。
「あらっ……」
 ふと、敏子は足もとの床に眼を止めた。そこに、黄色い野球帽と一冊の書物が落ちていた。
「これ、純太君の帽子ね」
 そして、一緒に落ちていた書物を拾い上げると、その表紙を見た。
『前世を覚えている子供たち』
 ページの中ほどに敏子がプレゼントした紅いシオリが挟まれている。敏子はそのページを開くと読みはじめた。

『――この子供の場合、前世の記憶は、先の例に述べたような具体的な事柄に関しては、残念なことに不明瞭な点が数多く上げられるが、少年がはじめて自分の前世について母親に告げたのは小学一年生のころだという。少年の告白によれば、昭和四十年代に生まれ、貧困な家庭環境のなか、わずか五歳で重篤な感染症に侵されてこの世を去ったという。おぼろげな記憶によれば、大好きな絵本を親に買ってもらい、病床に就いても大事に繰り返し読んでいたらしい。そして非常に残念なことに、この前世を知る少年(イニシャル J・M)もまた小学四年生のときに、自宅近くの図書館からの帰り道で交通事故により他界している……』

 敏子は、両手で黄色い野球帽を握りしめ、その場に立ちすくんで、しばらく呆然としていた。
「……『僕はここから遠いところへ移る』ってそういうことだったのね。生きていた頃の純太君は本当に本が大好きだったのね」
 敏子は、シオリをそのままにして、その本をそっと書棚に戻した。
『あどけない笑顔の純太君は、何処かへ消えた。懐かしくて不思議な純太君、ずっと忘れないよ。お姉さんは黄色い帽子をいつまでも大切に持っているからね……』
 思わず、敏子は声にして叫んでいた。
「純太君、いつかどこかで、また会おうね、きっとよ!」
 少年の姿はどこにもなかった。

          了       

11年8月20日

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加藤 行

 

 あの少年は、今いったいどこにいるのかしら。一人きりになると、敏子の心に、少年との思い出がしみじみと思い起こされる。
 彼女の手に残された小さな黄色い帽子。それが少年のすべてを物語っていた。黄色い帽子に秘められた不思議な懐かしい記憶が鮮明に甦ってくるのだった。まだあどけなく、親しみのある少年の笑顔が彼女の心に深い印象を刻み込んでいた。
 街に秋風が吹く頃に少年と出会い。それからもう一年以上も過ぎ去ろうとしていた。

 公立図書館の司書として働いている敏子は、その日の午後、閲覧室に返却されていた山積みの書物の整理に追われていた。ようやくその作業が一段落して、彼女が「貸し出し」のカウンターに着いて、管理用のコンピューターのモニターに眼を通しているところへ、その少年が現われた。
「これ、貸し出しをお願いします」
 ややエネルギーダウン気味に、敏子がパソコンから眼を上げると、カウンターの前で小さな少年が、一冊の書物を両手にして、こちらを見上げている。青いTシャツに白い半ズボン、ニコニコした笑顔の上に黄色い野球帽が乗っかっている。
 初めて会う男の子だった。彼の純粋で潤んだ瞳が印象的だった。何気なく、敏子は少年の手にした書物の題名に眼がいく。ハードカバーの大型本で、スチーブンスン作の「宝島」だった。
「この冒険物語、前から読んでみたかったんだ。僕、本を読むのは得意だから、ニ、三日もあれば読み終えちゃうと思う」
 敏子は精一杯の笑顔を浮かべて、「そうなんだ。でも返却までには二週間あるからそんなに急ぐ必要ないわよ」と少年に言う。
 すると少年は、真剣な顔つきで敏子を覗き込んで、
「お姉さんは読書するの?――だって、ここにはたくさん本があるんだもの」
「ええ、お姉さんも子供の頃はよく読んだわ。確か、最初に読んだのがルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』だったかしら。でも細かい内容はもう忘れちゃったわ。機会があれば、また読んでみるわね。そうそう、図書館の貸し出しカードは持ってるかしら?」
 あわてたように少年は、ズボンのポケットをゴソゴソ探してカードを敏子に手渡した。カードの氏名欄には「前原純太」と記載されている。
 敏子はニッコリして、
「純太君っていうんだね。この本、読んだらお姉さんに感想を聞かせてちょうだい。楽しみにしてるから」
「うん、わかった」
 そう言うと、本とカードを受け取って、少年は嬉しそうに急いで去って行った。その小さな後ろ姿を見守りながら、敏子は彼と自分との、過ぎ去った日々を重ね合わせて、しばらくボンヤリしていた。

 少年が再び図書館にやって来たのはそれから一週間後だった。事務室の控え室で昼食を食べ終え、少し眠気のさした敏子が受付のカウンターにもどると、そこで純太君が寂しそうに二冊の本を抱えて彼女を待っていた。
 敏子の顔をみて、安心したように笑顔で少年が言った。
「この『宝島』、とっても面白かったよ。主人公のジムと海賊たちの対決に、僕ワクワクしたよ。だってどんどん話しが変わっていくのでドキドキしながら、あっという間に読んじゃった。お姉さん、どうもありがとう」
「いいえ、すごく面白そうね。お姉さんも読んでみようかな」
 そして少年を覗き込むと心配して尋ねた。
「純太君、この近所に住んでるの? 本も楽しいけどね。学校のお勉強もしてるのかな、パパとママに叱られない、大丈夫?」
 すると少年の顔がフッと寂し気に暗くなった。
 少年が言った。
「僕、二年前に父さんが交通事故で死んで、それからお母さんと一緒に暮らしているんだ。僕、一人っ子だけど、本を読むの好きだから寂しくないし平気なんだ」
「そう純太君は、強いんだ…お姉さんイヤな事、訊いてごめんなさいね。――ああ、そうそう」
 そう言うと、敏子は急に思い出して、事務机の引き出しから、あるものを取り出して、少年に差し出した。
 それは、紅い和紙で出来た、四葉のクローバーをアレンジしたシオリだった。
 敏子がこっそりと言った。
「このシオリ、純太君にプレゼントしようと思って、お姉さんが手作りでがんばったのよ。よかったら読書する時にでも使ってちょうだいね」
 少年は感激して満面の笑顔を浮かべた。彼は黄色い野球帽を脱ぐと、ペコリと頭を下げて、それを受け取った。そして言った。
「お姉さん、僕、これ、大切にします。えーっと、この本は返して、この本の貸し出し、お願いします」
 新しい本の題名は、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』だった。
 
 少年と敏子の、最後の出会いとなったのがそれから三日後のことだった。閲覧室はテーブルに着いて耽読する人たちの姿もまばらだった。壁掛け時計の時刻はすでに午後の四時を回っていた。
 受付のカウンターで、山積みの書物を前にして、敏子はうんざりした気分に油断して大きなあくびを漏らしていた。
「お姉さん、こんにちは」
「ああ、純太君。うっかりしていてごめんなさいね」
 少年は相変わらず、大きな本を抱えて笑顔をみせている。敏子は少年から本を受け取ると、山積みにしてある本の上に載せた。
 しばらく沈黙が続いたあとで、少年が少し困ったような素振りで言った。
「ええっと、残念だけど、実は僕、もうすぐ、お姉さんとお別れなんだ。遠いところに移ることになったの。でも、今まで楽しい本がいっぱい読めて、それにお姉さんとも、たくさんお話できて、僕、しあわせだよ。本当にありがとう」
 敏子はしばらく黙っていたが、言葉をかみしめるように言った。
「お引越しするのね。――でも、お姉さん、純太君のこと、いつまでも忘れないわ。純太君も元気にがんばってね」
「うん、ありがとう。それじゃあ……」
 そう言って、少年はその場から逃げるように去り、閲覧室の奥にある小さな書庫の中へと消えていった。びっくりした敏子はあわてて立ち上がると、少年のうしろ姿に声をかけた。
「純太君、そっちは行き止まりよ!」
 急いで敏子は少年のあとを追って書庫のなかへと駈け込んだ。照明のスイッチを入れる。明るくなった書庫には何列かの書棚が整然と並んでいる。しかし、どこにも少年の姿はなかった。
「あらっ……」
 ふと、敏子は足もとの床に眼を止めた。そこに、黄色い野球帽と一冊の書物が落ちていた。
「これ、純太君の帽子ね」
 そして、一緒に落ちていた書物を拾い上げると、その表紙を見た。
『前世を覚えている子供たち』
 ページの中ほどに敏子がプレゼントした紅いシオリが挟まれている。敏子はそのページを開くと読みはじめた。

『――この子供の場合、前世の記憶は、先の例に述べたような具体的な事柄に関しては、残念なことに不明瞭な点が数多く上げられるが、少年がはじめて自分の前世について母親に告げたのは小学一年生のころだという。少年の告白によれば、昭和四十年代に生まれ、貧困な家庭環境のなか、わずか五歳で重篤な感染症に侵されてこの世を去ったという。おぼろげな記憶によれば、大好きな絵本を親に買ってもらい、病床に就いても大事に繰り返し読んでいたらしい。そして非常に残念なことに、この前世を知る少年(イニシャル J・M)もまた小学四年生のときに、自宅近くの図書館からの帰り道で交通事故により他界している……』

 敏子は、両手で黄色い野球帽を握りしめ、その場に立ちすくんで、しばらく呆然としていた。
「……『僕はここから遠いところへ移る』ってそういうことだったのね。生きていた頃の純太君は本当に本が大好きだったのね」
 敏子は、シオリをそのままにして、その本をそっと書棚に戻した。
『あどけない笑顔の純太君は、何処かへ消えた。懐かしくて不思議な純太君、ずっと忘れないよ。お姉さんは黄色い帽子をいつまでも大切に持っているからね……』
 思わず、敏子は声にして叫んでいた。
「純太君、いつかどこかで、また会おうね、きっとよ!」
 少年の姿はどこにもなかった。

          了       

09/12/13