掌編小説「城下町風景」

「おい、平次、逃げるんじゃない。待つんだ―――」
 提灯が軒を連ねた商店街で、四角い顔の刑事が人ごみを掻き分けながら、大声を張り上げていた。
 黒ジャンパーの小柄な平次の後ろ姿は、とっくの前に見失っていた。刑事は腰に掛けたタオルで額の汗を拭うと立ち止まり、ふぅーと溜息を突いた。
「また逃げられたか………。奴の逃げ足にはいつも呆れ
返るな」
 陽射しの強い昼下がりであった。大盛況な商店街通りは、休日の常連客たちで溢れ大賑わいだった。
あちこちのスピーカーからは大音量で民謡が流れている。
 四角い顔の刑事は、陽炎の昇る人波の遠くに眼を走らせてから、チッと舌打ちをして言った。
「まったく『イタチの平次』だな。今度こそは奴の首根っこを押さえこんでギャフンと言わせてやるぞ」
 
「また、一丁あがり、と来たもんだ。―――近頃の連中は財布のしまい所が甘くなったねえ………」
 眼鏡橋の欄干に腰をかけて、イタチの平次は今、掏ったばかりの財布から札束を抜き出すとジャンパーのポケットに押し込み、空財布は川に放り投げた。
 そして、素早く辺りを見渡すと、次のカモを狙い始めた。
 ひょいと見上げると、すぐ近くの土産物屋の店先を、ハンドバック片手に派手なワンピースの若い女が頼りなげに歩いている。そのハンドバックの口から茶色の財布が覗いていた。
「こいつは参ったねえ。――財布がコンニチワって呼んでるよ」
 イタチの平次はへへーと笑うと、いつもの調子で、女の傍らをすり抜けざまに、見事な芸当で、すっと左手に財布が納まるいつもの手口だった。
「これで昼から五人目か。さてご開帳と………、おやっ」
 大きなガマ口から、1通の封筒が出て来た。表書きに『遺書』と書かれている。平次は思わず眼を丸くした。側では子供たちがキャーキャーと騒々しく走りまわっている。イライラした平次は、
「うるせぇー、静かにしろー」
 と一喝した。
 そして急いで封を開くと中を一読した。
「ほおっ、サラ金地獄で男に逃げられ、これから飛び降り自殺ってかよ。こいつはたまらねえ。このままじゃあ、俺も生きた心地がしねえ。―――おい、ちょいと待ちな」
 例の女は、ちょうど商店街の外れの、古ぼけたテナントビルの非常階段を、よろよろと上っていく最中だった。
「おーい!姉さんよー、待った、待った、早まるなー!」
 平次は大声で叫びながら女の後を追い駆けて行った。
 ようやく、朽ち果てたビルの屋上まで辿り着くと、女は屋上の錆びた手摺りにもたれて、澄ました様子で煙草を吹かしていた。平次は声を落として言った。
「―――あんた、死ぬつもりだな」
 すると女はくるりと背中を向けて、冷たい口調で答えた。
「そんなの、あたしの勝手でしょ――」
「それに、何であんたが、あたしのことを」
 一瞬、ドキッとし、正体を見破られたかと疑いながらも平静を装いながら、スリの平次は言葉を続けた。
「あんたの勝手じゃないんだよ」
 と、平次は女に、にじり寄って説得しだした。
「あんたに死なれると俺も困るんだ」
 女はゆっくりとした動作で手摺りを越えようとしていたが、ふと足を止めて、振り返り言った。
「何であんたが、困るってんだよ―――」
 ややこしい事になったなと平次は戸惑いながら、
「誰だって困るんだよ。勝手に死なれちゃね。縁あって、皆この世に生きてるのさ。それが人情ってものだろう。死ぬ度胸があるんだったら、とことんこの世で勝負してみなよ。お前さんはまだ若い、結構じゃないか………元気も時間もあるだろう。そう簡単に人生捨てるんじゃないよ。困ったことがあれば、お役所にでも相談してみな――前向いて頑張っていりゃ何とかなっていくさ。俺もさ、人様に説教するような柄でもないが……お前さんの財布がさ、泣けるじゃないか―――」。
 いつの間にか、女は手摺りにしがみついて大声で泣いていた。
「何で…あんたが、あたしの事を、それに財布ってあんた、いったい何者よ―――」
 
 やがて騒ぎを聞きつけた人達が駆け寄ると、女を抱き上げて介抱した。それを確かめると、イタチの平次は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「―――平次、お手柄だな」
 見上げると、平次のそばに四角い顔の刑事がいた。刑事は平次の片手に握られた財布と遺書を睨みつけていた。
「こいつはしまった―――」
 慌てて平次は立ち上がると、ぺロッと舌を出して、屋上から非常階段へと逃げて行く。その後を必死に刑事が追い駆けて行く。
「こらっ、平次、待たんかっ―――」
「へへっ、旦那、今日はご勘弁を」
「そうもいかん。逮捕だ、逮捕―――」
 それに合わせて商店街からの民謡曲が楽しげに鳴り響いていた………。

                    了

11年7月31日

ウェブ作品集

加藤 行

 

「おい、平次、逃げるんじゃない。待つんだ―――」
 提灯が軒を連ねた商店街で、四角い顔の刑事が人ごみを掻き分けながら、大声を張り上げていた。
 黒ジャンパーの小柄な平次の後ろ姿は、とっくの前に見失っていた。刑事は腰に掛けたタオルで額の汗を拭うと立ち止まり、ふぅーと溜息を突いた。
「また逃げられたか………。奴の逃げ足にはいつも呆れ
返るな」
 陽射しの強い昼下がりであった。大盛況な商店街通りは、休日の常連客たちで溢れ大賑わいだった。
あちこちのスピーカーからは大音量で民謡が流れている。
 四角い顔の刑事は、陽炎の昇る人波の遠くに眼を走らせてから、チッと舌打ちをして言った。
「まったく『イタチの平次』だな。今度こそは奴の首根っこを押さえこんでギャフンと言わせてやるぞ」
 
「また、一丁あがり、と来たもんだ。―――近頃の連中は財布のしまい所が甘くなったねえ………」
 眼鏡橋の欄干に腰をかけて、イタチの平次は今、掏ったばかりの財布から札束を抜き出すとジャンパーのポケットに押し込み、空財布は川に放り投げた。
 そして、素早く辺りを見渡すと、次のカモを狙い始めた。
 ひょいと見上げると、すぐ近くの土産物屋の店先を、ハンドバック片手に派手なワンピースの若い女が頼りなげに歩いている。そのハンドバックの口から茶色の財布が覗いていた。
「こいつは参ったねえ。――財布がコンニチワって呼んでるよ」
 イタチの平次はへへーと笑うと、いつもの調子で、女の傍らをすり抜けざまに、見事な芸当で、すっと左手に財布が納まるいつもの手口だった。
「これで昼から五人目か。さてご開帳と………、おやっ」
 大きなガマ口から、1通の封筒が出て来た。表書きに『遺書』と書かれている。平次は思わず眼を丸くした。側では子供たちがキャーキャーと騒々しく走りまわっている。イライラした平次は、
「うるせぇー、静かにしろー」
 と一喝した。
 そして急いで封を開くと中を一読した。
「ほおっ、サラ金地獄で男に逃げられ、これから飛び降り自殺ってかよ。こいつはたまらねえ。このままじゃあ、俺も生きた心地がしねえ。―――おい、ちょいと待ちな」
 例の女は、ちょうど商店街の外れの、古ぼけたテナントビルの非常階段を、よろよろと上っていく最中だった。
「おーい!姉さんよー、待った、待った、早まるなー!」
 平次は大声で叫びながら女の後を追い駆けて行った。
 ようやく、朽ち果てたビルの屋上まで辿り着くと、女は屋上の錆びた手摺りにもたれて、澄ました様子で煙草を吹かしていた。平次は声を落として言った。
「―――あんた、死ぬつもりだな」
 すると女はくるりと背中を向けて、冷たい口調で答えた。
「そんなの、あたしの勝手でしょ――」
「それに、何であんたが、あたしのことを」
 一瞬、ドキッとし、正体を見破られたかと疑いながらも平静を装いながら、スリの平次は言葉を続けた。
「あんたの勝手じゃないんだよ」
 と、平次は女に、にじり寄って説得しだした。
「あんたに死なれると俺も困るんだ」
 女はゆっくりとした動作で手摺りを越えようとしていたが、ふと足を止めて、振り返り言った。
「何であんたが、困るってんだよ―――」
 ややこしい事になったなと平次は戸惑いながら、
「誰だって困るんだよ。勝手に死なれちゃね。縁あって、皆この世に生きてるのさ。それが人情ってものだろう。死ぬ度胸があるんだったら、とことんこの世で勝負してみなよ。お前さんはまだ若い、結構じゃないか………元気も時間もあるだろう。そう簡単に人生捨てるんじゃないよ。困ったことがあれば、お役所にでも相談してみな――前向いて頑張っていりゃ何とかなっていくさ。俺もさ、人様に説教するような柄でもないが……お前さんの財布がさ、泣けるじゃないか―――」。
 いつの間にか、女は手摺りにしがみついて大声で泣いていた。
「何で…あんたが、あたしの事を、それに財布ってあんた、いったい何者よ―――」
 
 やがて騒ぎを聞きつけた人達が駆け寄ると、女を抱き上げて介抱した。それを確かめると、イタチの平次は全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「―――平次、お手柄だな」
 見上げると、平次のそばに四角い顔の刑事がいた。刑事は平次の片手に握られた財布と遺書を睨みつけていた。
「こいつはしまった―――」
 慌てて平次は立ち上がると、ぺロッと舌を出して、屋上から非常階段へと逃げて行く。その後を必死に刑事が追い駆けて行く。
「こらっ、平次、待たんかっ―――」
「へへっ、旦那、今日はご勘弁を」
「そうもいかん。逮捕だ、逮捕―――」
 それに合わせて商店街からの民謡曲が楽しげに鳴り響いていた………。

                    了

09/12/13