短編小説「視線」

 ジッパーが開いたままの黒い通学用ショルダーバッグの中から、筆記用具と一緒に数冊の専門書と、擦り切れた講義ノートが1冊覗いていた。それは彼の所属する研究室で行われた午後のセミナーに用意して来たものだった。
 ガタンと電車の中が揺れた。恭平はややよろめいたが、その通学カバンを掛け直してまた吊り革にしがみついた。
『………結局、今日の発表会も準備不足でまた失敗に終わったか』
 恭平の脳裏に、セミナーで朗読した論文の内容を聞いていた教授の苦笑いをする面影が何度も浮かび上がって、思わず彼はチェッと舌打ちをした。
『どうせ明日は大学も休講日だ。気分転換に家でゆっくりテレビでも見て過ごそうか…』
 車内に車掌のアナウンスが流れ、しばらくして電車は駅に停止した。午後五時半過ぎの車内は、通勤帰宅客で溢れてすし詰め状態。
 その勢いに押される様に扉は開き、人々は雪崩のようにホームへと押し流されて行った。
 数人の乗客を残し、急にガランとした車内は圧迫から逃れた静寂感に満たされた。
 ホッとして恭平は広くなった座席に腰を下ろした。
「ハクション!…」
 どこかで、小さなくしゃみがした。
 反射的に恭平がチラッと眼を向けると、車両の一番奥の座席に座った若い女性が、ハンカチを片手に口元を押さえながら、恭平に視線を向けている。ピンクのコートにボーイッシュな髪形が、なかなかセンス良くきまっている。
『あの雰囲気、誰だっけ、タレントに似ているよな?…スタイルもモデルを思わせる様な……』
 その女性はハンカチをバッグにしまっても、なお恭平にひたすら視線を送っている。遠目で見る、赤のルージュを引いた小さな唇、耳元で揺れる赤いチェリーイヤリング……可愛くて印象的だった。
『俺に気があるんだな、よーし、ここはひとつ、男を決めて――』
 恭平は大きく咳払いをして、前髪をパラリと掻き上げてみせた。
  すると直ぐに反応が返ってきた。その女性からは一瞬驚きにも似た態度が見てとれた。
『これは調子いいぞ。さあさ、もうひと押しだ――』
 恭平はもう一度、前髪をなびかせて、今度はニッコリと爽やかな笑顔を投げかけた。
 するとどうだろう。彼女の方も軽く首を傾げて、笑顔を返して来たではないか。
『ヤッホー! 何とチャンス到来だ。あとは気の利いた言葉でもかけるとするか――』
 しかしその時、残念にも電車は恭平の降りる駅に到着していた。
『なんだ、なんだ――これは、ナンパ失敗!?……』
 恭平はひとり寂しくホームに降り立ち、コートの襟を立てて、強い北風が吹きつける改札口へと向かった。
 すると恭平の背後遠くから、女性の声がした。
「――ねえ、ちょっと待って」
 振り向くと、あの女性がこちらに駆け寄って来るところだった。
『こ、これはどうした事だ!!…まるで映画のラブシーンさながら、恋人との再会ではないか…』
 恭平は、ヒーロー演じる恋人気取りで、斜に構えてポーズを決め、高鳴る鼓動を抑えながら彼女を待った。
 親しみのあるフル―ツコロンの香りが漂よった。
 あれっ! と思いつつ、息を弾ませた彼女が傍にいるのを気づいた恭平は、照れくささで顔を下向き加減にして言葉を詰まらせながら、「お、お嬢さん、よょ、よかったら僕と一緒に、お話でも……」と、熱い眼差しで彼女の顔を覗き込んだ。その瞬間、彼はよろめき後退りした。
「―――お、お前」
 それは妹の冨子だった。
「お嬢さんって、一体何の話してんのよ。お兄ちゃん」 
  冨子は急にニタニタ顔になって、「そういえばさっき、お兄ちゃん、えらく格好つけていたよね。可笑しくて吹き出すのを我慢してたんだから」と言う。
 恭平はムッと怒った顔で、「この事、帰って親に言ったら、お前、ボコボコにしてやるからな」と応酬する。
「へっへっへっ、じゃあ代わりにフル―ツパフェおごってよ」
「ちゃっかりしているよな、まったく」
 やがて兄妹の後ろ姿は人波の中へ小さく消えていった……。                                         (了)

11年1月25日

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加藤 行

 

 ジッパーが開いたままの黒い通学用ショルダーバッグの中から、筆記用具と一緒に数冊の専門書と、擦り切れた講義ノートが1冊覗いていた。それは彼の所属する研究室で行われた午後のセミナーに用意して来たものだった。
 ガタンと電車の中が揺れた。恭平はややよろめいたが、その通学カバンを掛け直してまた吊り革にしがみついた。
『………結局、今日の発表会も準備不足でまた失敗に終わったか』
 恭平の脳裏に、セミナーで朗読した論文の内容を聞いていた教授の苦笑いをする面影が何度も浮かび上がって、思わず彼はチェッと舌打ちをした。
『どうせ明日は大学も休講日だ。気分転換に家でゆっくりテレビでも見て過ごそうか…』
 車内に車掌のアナウンスが流れ、しばらくして電車は駅に停止した。午後五時半過ぎの車内は、通勤帰宅客で溢れてすし詰め状態。
 その勢いに押される様に扉は開き、人々は雪崩のようにホームへと押し流されて行った。
 数人の乗客を残し、急にガランとした車内は圧迫から逃れた静寂感に満たされた。
 ホッとして恭平は広くなった座席に腰を下ろした。
「ハクション!…」
 どこかで、小さなくしゃみがした。
 反射的に恭平がチラッと眼を向けると、車両の一番奥の座席に座った若い女性が、ハンカチを片手に口元を押さえながら、恭平に視線を向けている。ピンクのコートにボーイッシュな髪形が、なかなかセンス良くきまっている。
『あの雰囲気、誰だっけ、タレントに似ているよな?…スタイルもモデルを思わせる様な……』
 その女性はハンカチをバッグにしまっても、なお恭平にひたすら視線を送っている。遠目で見る、赤のルージュを引いた小さな唇、耳元で揺れる赤いチェリーイヤリング……可愛くて印象的だった。
『俺に気があるんだな、よーし、ここはひとつ、男を決めて――』
 恭平は大きく咳払いをして、前髪をパラリと掻き上げてみせた。
  すると直ぐに反応が返ってきた。その女性からは一瞬驚きにも似た態度が見てとれた。
『これは調子いいぞ。さあさ、もうひと押しだ――』
 恭平はもう一度、前髪をなびかせて、今度はニッコリと爽やかな笑顔を投げかけた。
 するとどうだろう。彼女の方も軽く首を傾げて、笑顔を返して来たではないか。
『ヤッホー! 何とチャンス到来だ。あとは気の利いた言葉でもかけるとするか――』
 しかしその時、残念にも電車は恭平の降りる駅に到着していた。
『なんだ、なんだ――これは、ナンパ失敗!?……』
 恭平はひとり寂しくホームに降り立ち、コートの襟を立てて、強い北風が吹きつける改札口へと向かった。
 すると恭平の背後遠くから、女性の声がした。
「――ねえ、ちょっと待って」
 振り向くと、あの女性がこちらに駆け寄って来るところだった。
『こ、これはどうした事だ!!…まるで映画のラブシーンさながら、恋人との再会ではないか…』
 恭平は、ヒーロー演じる恋人気取りで、斜に構えてポーズを決め、高鳴る鼓動を抑えながら彼女を待った。
 親しみのあるフル―ツコロンの香りが漂よった。
 あれっ! と思いつつ、息を弾ませた彼女が傍にいるのを気づいた恭平は、照れくささで顔を下向き加減にして言葉を詰まらせながら、「お、お嬢さん、よょ、よかったら僕と一緒に、お話でも……」と、熱い眼差しで彼女の顔を覗き込んだ。その瞬間、彼はよろめき後退りした。
「―――お、お前」
 それは妹の冨子だった。
「お嬢さんって、一体何の話してんのよ。お兄ちゃん」 
  冨子は急にニタニタ顔になって、「そういえばさっき、お兄ちゃん、えらく格好つけていたよね。可笑しくて吹き出すのを我慢してたんだから」と言う。
 恭平はムッと怒った顔で、「この事、帰って親に言ったら、お前、ボコボコにしてやるからな」と応酬する。
「へっへっへっ、じゃあ代わりにフル―ツパフェおごってよ」
「ちゃっかりしているよな、まったく」
 やがて兄妹の後ろ姿は人波の中へ小さく消えていった……。                                         (了)

09/12/13