旅日記「はるかな海より~ピースボートのボランティア(3)」

三月一日
 午前二時、アルゼンチンのブエノスアイレス入港。
 一時間しか睡眠とっていないけど、張り切って今日も一日をスタート! 

 朝はカラフルで可愛いボカ地区に行き、アルゼンチン人のアーティストたちが開く露店で絵やアートを購入。色づかいがとてもポップで、見ているだけでうれしくなる。

 タンゴダンサーたちが広場で踊り、こんなにカジュアルにタンゴを見られるアルゼンチンは最高! っと思いつつ、ボカ地区を後にする。


 そして、やって来たのはアンティークのマーケット、サンテルモ。暑いし、ものすごい多くの観光客で、二十分くらいでげっそり・・・。

 ここにはコロニアルな建物が建っていて、その中にたくさんのアンティークストアが入っている。ブエノスアイレスの昔にタイムスリップしたかのよう。

 お昼にアルゼンチンワイン片手に、アサード(羊の焼き肉)とエンパナーダという、アルゼンチンの代表的な食べ物のミートパイを食べた。肉ばっかり。あっさりとして美味しいのだが、肉にはそろそろ飽きてきた。

(エンパナーダ)
 そして、ショッピングの王道、フロリダ通りで最後の買い物をする。ここはブエノスアイレス一、お店が並んでいる所。なんと、クリスチャン・ディオールが激安で売っているではないか! アルゼンチンにディオールの工場があるらしく、商品が流れてくるのだとか。ネクタイが千円とか四千円とか。半ば本物? と疑いつつも買ってしまった。

 くたくたに疲れて、船が停泊している港までタクシーで戻ろうと、CC三人で乗り場に向かった。だが、その港は運転手にあまり知られた場所ではないらしく、バスターミナルに連れて行かれた。
 はっきりと「ここじゃない!」って言ったんだけど、やはり英語は通じず・・・。結局、六台のタクシー運転手に聞いてやっと港にたどり着いたら、メーターが作動しておらず、たった五分くらいの道のりなのに通常の三倍ほどのお金を請求された。
 旅慣れた友達と私は、そんなの「ありえない!」と腹を立て、通常の金額ぐらいを渡して、さっさとタクシーを後にした。あー、疲れた。タクシーに乗る時は、メーターがきちんと動いているか確認しないと痛い目に会う。

 母の携帯にメール。「ブエノスアイレスで本場のアルゼンチンタンゴを二回も見たよ! きれいな所だね。ここなら住めるわ。タンゴのCDも買ったし、明日タンゴシューズも買おうと思ってる。アンティークか何か、欲しい物ある?」

二日
 高橋歩さんの二回目の講座。夜八時半からだから遅くなった。自由人っていうけれど、商才のある人は何をしても成功するものなんだな。やっぱり前向きに生きていかなきゃ。
「船旅が終わって日本に帰るからとネガティブになるのではなく、パワーをそのまま次のステップに持っていかなきゃ」と話していた。
 はい、私もこれからが楽しみだ! 前を向いて生活します。

 高橋さんは二十歳のとき、仲間とアメリカンバーを開店し、二年間で四店舗に広げる。自伝の「毎日が冒険」がベストセラーに。二十六歳で結婚し、妻と二人で世界一周の旅に出て、約二年間で世界十数カ国を放浪し帰国。
 その後、沖縄へ移住し、自給自足のネイチャービレッジを主宰。〇八年十一月より家族四人で無期限の世界一周に出掛けている、という人だ。

三日
 今日は、これから向かう南極についての講座を聞きに行った。アメリカ人の極地探検家、スーザン・エイディさんが水先案内人として乗船し、これから私たちに南極について様々な事を教えてくれる。彼女は南極コンサルタントとして自分の会社を持っている。
 今回はスーザンさんのほかに、氷河スペシャリストのアイスパイロットという、ロシア人のパーベルキャプテンも乗船している。


(娘の好物です)
 このピースボート、今回で六十四回目のクルーズだが、南極に行くのはこれが二回目だとか。南極に行くには申請が大変で、アイスパイロットや南極スペシャリストが必ず乗船しないと許可が下りないらしい。今回行ける私たちは、本当に本当にラッキー!
 それにしてもスーザンさんの講座、生物用語や化学用語があまりにも多く、彼女の担当になったCCたちは大変だなーっと思ったけど、見事に訳していた。やはり、講座前のミーティングでの用語確認や、内容を把握するための事前学習がモノを言うのだな。

 母の携帯にメール。「今、アルゼンチンの沿岸航路を下ってる。これから南極に向かって進むよ」

四日
 なにを思ったか、チリの「パタゴニア地域」についての講座を聞いている最中、急に髪の毛を切りたくなったので船のサロンでバッサリ切ってもらった。人生初のショートヘア。「どこで切ったの?」と聞かれれば、「南極近く」と答えるつもり。
 そして今晩は、日本人とメキシコ人のハーフで、通訳として乗っている実君がDJをやるというので、バーに繰り出す。
 実君がベトナムで買った、蛇とサソリが漬けてある酒を飲んで一気に酔ってしまった。

*ウン? 講座の最中に髪を切った!? 終わってからにしてほしかったわ。〈母のつぶやき〉

五日
 人生最悪の船酔いと二日酔いを一度に体験し、ものすごく辛い一日だった。気持ち悪い上に、船の縦揺れが激しく、寝たくても眠れない・・・。
 縦揺れは飛行機が降下している時に味わう、フワッとした感じ。船の中だとそれが永遠に続くよう。死ぬー。

六日
 世界最南端の都市、アルゼンチンのウシュアイアに到着。


(フエゴ島)
 ここはとても小さな町で、繁華街は徒歩圏内。ウシュアイアのある「フエゴ島」は歴史的にも非常に面白く、なんと進化論で有名なダーウィンも訪れた所。ビーグル水道をはじめとし、マゼラン海峡など大航海時代に発見された航路が今に至っている。
 ビーグル水道は、ダーウィンが一八三一年から一八三六年にかけて行った「ビーグル号」による地球一周航海のときの経路で、この水道の名前はビーグル号に由来している。
 今日はツアーのKコース、「ビーグル水道と博物館観光」に通訳として行くことになった。船を出ると目の前にアンデス山脈が連なっている。山頂付近は雪に覆われており、今までの寄港地とはがらりと違った表情を見せてくれた。アンデス山脈はスケールがすごく大きい!

 訪問先は「世界の果て博物館」と「プレディシオ」(元監獄)と「船舶博物館」。
 博物館では、先住民のことやウシュアイアの歴史を知ることができた。ウシュアイアで初めて建てられた監獄に行ってみたが、共同シャワールームはアウシュビッツのキャンプを彷彿とさせる不気味さが・・・。

 それから、カタマラン(双胴船)に乗って「アシカ島」、「海鳥の島」、「灯台の島」をクルーズした。アシカ島には夥しいアシカの群れが。ものすごく臭い。海鳥の島にはたくさんの海鵜が生息する。とにかく大自然を満喫した一日だった。

(後ろにペンギンの群れが・・・)
 近年、ウシュアイアは南極ツアーの拠点として重要さが増しているという。

*ウシュアイアからの絵ハガキ (フエゴ島の写真に「世界の果て」とのスペイン語の文字がある)
「DEAR パパ・ママ
 Ola! Comoestas? (元気? )私は今、ウシュアイアに来ています。世界最南端の都市の景色はとってもきれいだよ!
 大西洋と太平洋が果てしなく広がり、眼前に雪に覆われた雄大なアンデス山脈を見ることができ、アシカやアザラシやペンギン、その他の野生動物がたくさんいるよ。町は小さくかわいい感じ。

 今日までのラテンアメリカでの私の体験は素晴らしいことばかり。アルゼンチンに留学すればよかった。なぜなら、私はその国の雰囲気がとても気に入ったし、タンゴが大好きだから。
 これから南極に向けて出発するけど、南極やそこに生息する動物についての勉強が始まります。でもね、ホーン岬と南極大陸との間のドレーク海峡を渡るのは恐怖だよ。世界で最も荒れる海域の一つで『魔の南緯六十度』って呼ばれているんだ。どうか、命がありますように! ともかく、もうちょっとで私の新しい生活が始まります。早く会いたいよ。 Love 美佳」

七日
 南極に向けクルージング。今日は一日だらだらDay。特にすることもない。ドレーク海峡を通過し、南極収束線を通過する。脅されていたほど揺れはしなかったけど、確かに横揺れが激しかった。
 南極収束線とは南緯五十度から六十度付近の海に引かれた線のこと。この線は蛇行しながら南極大陸をぐるっと一周していて、ここのところで北の暖かい亜熱帯表層水と低温の南極表層水が接し、収束線を境に海水の表面水温が急に下がる。
 水温が変わるので塩分濃度も急激に変化し、収束線の北と南では生物層が大きく変わる。この線は山脈に匹敵するほどの生物障壁なのだ。
アホウドリが船を追いかける。

*母は「南極収束線」という言葉を知りませんでした。環境用語だそうです。

八日
 南極一日目。気温二度、曇り。キングジョージ島やディセプション島の横をゆっくり通過する。
 アドミラルティ―湾付近が風速四十メートルの強風のため、ブランスフィールド海峡で四十五分間待機。風速四十メートルを越えると人間は吹き飛ばされることがあるという。
 ブランスフィールド海峡と南シェットランド諸島とに向かう途中でザトウクジラを発見。
 アドミラルティ―湾では、水先案内人である極地探検家スーザンさんの、ひいおじいさんの名前のついたラング氷河周辺を遊覧。
初めてみる氷河は、青かった! 南極は真っ白な世界だと思っていたけど、意外にカラフル。様々な色の氷河がある。特に氷河の割れ目(クレバスと呼ばれている部分)は深い青色だ。

 アザラシの群れがピョコピョコ泳いで行き、でっかいアホウドリが風に乗って飛んでいる。なんと南極のアホウドリは体長三・五メートルにもなるらしい。南極の強い風あってこそ、生息できる鳥。すごくおおっ~きい!
(南極の虹)

(南極の月)

九日
 南極二日目。マイナス二度、曇り時々晴れ。クローカー海峡にて氷山とザトウクジラを発見。
 ゲルラッシュ海峡を南西に進み、パラダイス湾へ。
 ジェンツーペンギンの群れが、ピョンピョン泳いで行く。ザトウクジラが餌を食べるために海面に顔を突き出したところ、はたまたシャチの大群に出くわす。
 自然の雄大さを目の当たりにした。それにしても、風が冷たい。長い間デッキに出ていると、凍傷にでもなったかのように足が冷たく痛い。
 左舷側にレメア島、右舷側にブライド島。遠く近くにたくさんの氷山、壮大な景色を見る。
 テンダーボートがオンザロック用の氷を取りに行く。そして、船の中では氷山の氷を使ったウイスキーのオンザロックが振る舞われた。感動―!

*娘の帽子とマフラーは、母が編んだものですが、南極へ一緒に行くとは思ってもいませんでした。

十日
 南極三日目。マイナス三度、曇り時々晴れ。南極半島、そして氷河を見ながらの朝食三回目。あっという間に食事が冷える。つい先日まで半袖だったのに、いつの間にやらダウンジャケットの完全防備。
 本日はゲルラッシュ海峡を南西に進んだ先の、アンバーズ島やメルキョール島の氷河を満喫。
 昼食中、急に吹雪が! 南極の吹雪をデッキで楽しみ、皆おおはしゃぎ。船に雪がどんどん積もっていく。雪はとてもきれいで、一つ一つ違った結晶の形を私たちに見せてくれる。
 そして、フランダース湾に到着し、南極遊覧クルーズの最南端に来たことになる。相変わらずたくさんのジェンツーペンギンが船の横を泳いで行く。
 自然の、動物の支配する世界。そこへ人間が「おじゃまします」と、入って行く感じがした。すごい数のペンギンの群れが飛び跳ねる。氷山が流れて行く。アシカ、アザラシ、シャチ、クジラ、アホウドリ・・・、が悠々と生きている。


 スーザン・エイディさんは極地探検家であり、博物学者。北極地域や南極地域の広範囲な知識と経験を持ち、この三十年間、自然保護区および野生動物や魚類に情熱を捧げてきた。
 彼女は特に海への強い情熱を持ち、カリブ海、南太平洋、中央アメリカ、アマゾンでの航海でガイドを務めてきた人。

十一日
 南極が終わり、今日は一日船内にこもっていた。
 朝八時半から麻雀の練習に出かけた。乗客の麻雀愛好家のおじさんたちが丁寧に教えてくれるのだが、名称の復習とかだけで結局、一回も打つことができなかった・・・。つまらない。
 キャビンのテレビで放映されている映画をみるか、本を読むか、寝るかの一日だった。

十二日
 南極からチリのプンタアレナスに向かう途中、ビーグル水道とマゼラン海峡を通過した。ビーグル水道では見事な氷河をいくつか見ることができ、氷河が溶けて滝になっている光景は圧巻だった。

十三日
 プンタアレナスに到着。
 今日は「パタゴニアの牧場訪問」というツアーに通訳として行くことになった。予想以上に寒い。太陽が出ると暑いと言われたが、一応ダウンジャケットを着てきた。けれど、強風のため超寒い。
 私たちの船が停泊する予定の場所が、前の貨物船の出港が遅れたため、入港も一時間遅れに。ツアー開始時間ももちろん遅れることになった。
 そして朝十時、観光バスにて港を出発。フェリー乗り場へは約一時間二十分の道のりだ。ガイドさんはチリ人。スペイン語なまりの激しい人で、彼の英語に慣れるのに時間がかかった。

 まずは、「パタゴニア地域」の説明から。アンデス山脈を境に、西側は湿度も高く、年間の降水量も多い。しかし、東側はとても乾燥した強風地帯だ。ここに住んでいる人たちは傘というものを持たないらしい。
 なんと地上の水分の蒸発が、雨が降り注ぐ量より多いため、そして強風のため、雨に濡れてもすぐ乾いてしまうからだという。

(牧場で仲良しになった犬)

(アルパカもいました)

(大きなラムステーキ! テーブルもいいですね~)

十四日
 イースター島に向けクルージング。
 母の携帯にメール。「ママ、住民票の転出届けを市役所でしてください。昨日はチリのパタゴニア地域の牧場で一日過ごしたよ。ラム食べまくりにワイン飲みまくり。楽しかった。日記ちゃんと送ります」

*娘はピースボートに出発する前に住居を決め、契約を済ませておりました。東京の新しい住所に変更を、という依頼をしてきたのです。
はるかな南の海で、間もなく始まる新しい生活に思いを馳せているのでした。

十五日
 母の携帯にメール。「チリと南アフリカで『地ワイン』買っておいたよ。美味しいかわからないけど。それから東京に来るとき、家に置いてあるスーツとコンタクト持ってきてね」

十六日

 イースター島に向けクルージングを続ける。

十七、十八、十九日
 太平洋をクルージング。

二十日
 午前七時、イースター島 沖錨泊
 母の携帯にメール。「モアイ像はすごかった!」写真添付。

 イースター島はチリ領の太平洋上に位置する火山島で「モアイ像」で有名。大きさは小豆島くらい。周りに島らしい島が存在しない絶海の孤島という感じだけれど、島の暮らしは意外に近代的だ。
 島全体には、約千体ものモアイ像があり、最大のものは高さ七、八メートル、重さ八十トンもある。帽子をかぶったモアイもいた。

 その建造目的は謎だが、祭祀目的で建てられたという節が有力だった。しかし、近年の調査ではモアイの台座から人骨が発見されたので、墓碑であったという節が有力になりつつある。

 母に二度目の携帯メール。「今日、午後六時にイースター島を出て次の寄港地タヒチに向かうよ。それから、ダンスシューズやバレエのレオタードやシューズも持ってきてね」

 午後六時、イースター島 沖発

二十一日
 イースター島からタヒチへの水先案内人は、鎌田實さんと池田香代子さん。

 長野県諏訪中央病院名誉委員長で作家でもある鎌田先生は、諏訪中央病院で地域医療に携わり、一貫して「住民とともに作る医療」を提案し実践。
 一九九一年に日本チェルノブイリ連帯基金を設立し、被爆した子供たちへの救護活動を開始。十五年間に八十回の医師団を派遣し、約六億円の医薬品を汚染地帯の病院に届け、二〇〇四年からは、白血病などが増加しているイラクへの医療支援も開始。

 福祉や介護、健康に生きるコツなど生活に密着したお話を聞かせていただき、とても意義深い時間だった。先生と個人的にお話もできたし、ツーショットの写真もある。先生の本を自分用に買った。
 先生が、あのお顔でにこやかに、「いいかげんがいいよ」と言ってくださったのが、強く印象に残っている。それは、いろいろな意味の込められた深い言葉だと思うけど、「それでいいよ、そのままでいいよ」と、私を大きな心の中に包んでくださった感じがした。

 先生の本の一部を書く。
「日本では『がんばって』最後の汗の一滴まで絞らないと認められない。そんな社会だから幸福感を感じにくい。
 今を楽しんで生きるとか、いい人間関係があるとか、もっと大切なことは、『いいかげん』の中に隠れていたのだ」

二十二日
 池田香代子さんは、作家、翻訳家、世界平和アピール七人委員会のメンバーである。
 地球上の差別や格差、多様性についてわかりやすく伝え、ベストセラーになった「世界がもし百人の村だったら」の再話を手がける。その印税で「100人村基金」を設立し、基金を必要としている世界中の人たちに支援活動を行っている。
 また、パキスタンのアフガン難民キャンプの中の女子小学校を資金援助する「アルイルム女学院を見守る会」や、日本国内での難民申請者の支援にも関わっている。

 本の通りのわかりやすい語り口で環境、平和、人権についてお話いただいた。
 母へのおみやげに「世界がもし100人の村だったら」の完結編を買い求めた。池田さんのサインはもちろん、母の名前も記入してくださり、日付とハートマークも! それも美しい毛筆で。きっと母が喜ぶだろうな。

二十三日
 百六十万部のミリオンセラーの一部を書いてみる。
『世界には68億の人がいますが、それを100人に縮めると
51人は、都市に
49人は、農村や砂漠や草原に
すんでいます
都市の面積は
世界の陸地の3%です
都市に住む51人のうち
40人は貧しい国の人で
11人は豊かな国の人です
100人のうち
26人は電気が使えません
18人は
きれいで安全な水が飲めません
1年の暮らしにかけるお金が
100万円以上のもっとも豊かな人は
16人です
1万円以下のもっともまずしい人は、20年前
20人でしたが、いまは
15人に減りました
でも、3万円以下の人は
72人います』
すごく分かりやすい。私たちが目をそらせてはいけない、現在の世界の真実が凝縮されている。

二十四、二十五、二十六日
 タヒチめざしてクルージング。

二十七日
 午前九時、タヒチ入港。
 ゴーギャンの愛した南海の楽園タヒチ。透き通った海に白い砂浜にコテージ。青い空に緑濃い南国の植物。美しい風景が広がっている。

 現地の人との交流。農園でタロイモを植え、パパイアを収穫する。鎌田先生も池田さんも参加され、高校も訪れた。生徒が作ってくれた料理をいただき、タヒチアンダンスをみせてもらう。楽しいひとときだった。

 水先案内人、ガブリエル・テティアラヒさんの話を聞く。
 ガブリエルさんは、フランスの支配下にあるタヒチで、先住民族マヒオのアイデンティティ復権とフランス領ポリネシアからの独立を目指して活動するNGO「ヒティタウ」の創設者であり代表。
 フランスによる核実験を止めた抗議活動では国際的なリーダーであり、現在はフランスに依存しないマヒオの経済的自立を求めて、若いリーダーを育成し、伝統手法による有機栽培のバニラやタロイモ作りを積極的に実践している。

 いろいろな不公平があるらしい。例えば、フランス人がタヒチに移住した場合、選挙権が与えられるが、その逆にタヒチの人がフランスに移住したときは与えられないという。

 澄みきった美しい海で泳いだ。

 入社式に出席するために明日、空路ハワイ経由で日本への帰途に就く。その準備もあって、ピースボート最後の夜は落ち着かない。
 南半球の星空は本当にきれいだった。空いっぱいに散りばめられた星が、水平線のその向こうに消えていく。流れ星がいくつも流れていった。まるで夢の世界にいるよう。

 これで娘の旅日記は終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 彼女は短期間に灼熱の太陽と、凍てつく寒さの両方を経験したのですね。そして、旅の疲れを癒すまもなく、社会人としての一歩を踏み出したのですが、元気に過ごしていることを喜んでおります。
 今回、日記を公開するに際し、この旅行についてちょっと聞いてみました。携帯電話での会話です。
・夢のような気がする。本当に行ったんだ!
・学生から社会人への切り替えをこういう形でできたことが、とても良かった。心おきなく実社会に入っていけた。
・同じ価値観を持つ、理解しあえる一生の友人に巡り会えた。
・旅癖がついてしまった。
 というようなことを言っていました。
 娘が恐れることなく未知の世界に入っていき、世界の現実に触れ、目を見開き、耳を傾け、心を寄せて全身で感じた幾多の体験は、彼女の人生に光を放つ思い出として、永遠に刻まれることでしょう。世界を観る目が、それまでとは違うものになったに違いありません。
 ルームメートのお二人は、娘より少し先輩のお姉さん方で、いろいろ教えてもらったり助けてもらったり。妹のように可愛がっていただきました。また、乗客のご夫婦の部屋へお招きいただいての、楽しいお茶の時間もありました。
 それから、舞台のパフォーマンスでは「品行方正で成績優秀な女生徒」という、おいしい役を演じたのだそうです。

 旅癖について母の本音を言うならば、「ちょっと困る」が正直なところ。でも、そういう血が娘の中に流れているようですから・・・。
 昨年は、七月に私とマレーシアのペナン島を旅しました。帰りの夜間飛行の機内で、娘は毛布を頭からすっぽりかぶって両手で視野を遮り、窓に額を押し当てるようにして夜空に目を凝らしていました。数ヵ月前のパノラミックな「船からの星空」をたぐり寄せていたのですね。私も真似てみました。
 年末には、中国の他の地域に住んでいる友人と上海で待ち合わせ、そこで一週間ほど「プチセレブ生活」をしたのだそうです。お正月は家に滞在しましたけれど・・・。
 仕事でも海外へ出かける機会がありますので、よく考えて自分らしい人生を歩んでほしい、と願っています。

 四月末に岐阜県可児市在住の方から娘宛に封書が届きました。許可を得て開けてみると、ピースボートに乗船された方からのもので写真が同封されており、「東京の住所がわかりませんので岐阜へ送ります」とのことでした。
 南米のウシュアイアやイースター島で撮ってくださったもので、娘と並んでおられるその男性は七十歳くらいにお見受けしました。
 このごろはデジタルカメラばかりで、写真を見る機会もすっかり減ってしまいましたが、その写真を通して娘の仕事ぶりや楽しそうな様子を知ることができ、とても嬉しく思いました。

 世界中で多くの人に出会い、お世話になり、それらの人々と楽しさや喜びを分かちあったであろう、この旅。彼女の人生航路に荒波がたったとき、船酔いはするかもしれないけれど、それを乗り越える真の強さを身に付けることができたのではないでしょうか。そう思って母は安心しています。
 父は、また機会があれば積極的に出かけてReal worldを見て欲しい、などと言っています。

 ようやくエピローグまで辿り着きました。遅ればせながら、お約束が果たせましたことを嬉しく思っております。
(完)

10年3月15日

小説「日本語ダイレクト」

三月一日
 午前二時、アルゼンチンのブエノスアイレス入港。
 一時間しか睡眠とっていないけど、張り切って今日も一日をスタート! 

 朝はカラフルで可愛いボカ地区に行き、アルゼンチン人のアーティストたちが開く露店で絵やアートを購入。色づかいがとてもポップで、見ているだけでうれしくなる。

 タンゴダンサーたちが広場で踊り、こんなにカジュアルにタンゴを見られるアルゼンチンは最高! っと思いつつ、ボカ地区を後にする。


 そして、やって来たのはアンティークのマーケット、サンテルモ。暑いし、ものすごい多くの観光客で、二十分くらいでげっそり・・・。

 ここにはコロニアルな建物が建っていて、その中にたくさんのアンティークストアが入っている。ブエノスアイレスの昔にタイムスリップしたかのよう。

 お昼にアルゼンチンワイン片手に、アサード(羊の焼き肉)とエンパナーダという、アルゼンチンの代表的な食べ物のミートパイを食べた。肉ばっかり。あっさりとして美味しいのだが、肉にはそろそろ飽きてきた。

(エンパナーダ)
 そして、ショッピングの王道、フロリダ通りで最後の買い物をする。ここはブエノスアイレス一、お店が並んでいる所。なんと、クリスチャン・ディオールが激安で売っているではないか! アルゼンチンにディオールの工場があるらしく、商品が流れてくるのだとか。ネクタイが千円とか四千円とか。半ば本物? と疑いつつも買ってしまった。

 くたくたに疲れて、船が停泊している港までタクシーで戻ろうと、CC三人で乗り場に向かった。だが、その港は運転手にあまり知られた場所ではないらしく、バスターミナルに連れて行かれた。
 はっきりと「ここじゃない!」って言ったんだけど、やはり英語は通じず・・・。結局、六台のタクシー運転手に聞いてやっと港にたどり着いたら、メーターが作動しておらず、たった五分くらいの道のりなのに通常の三倍ほどのお金を請求された。
 旅慣れた友達と私は、そんなの「ありえない!」と腹を立て、通常の金額ぐらいを渡して、さっさとタクシーを後にした。あー、疲れた。タクシーに乗る時は、メーターがきちんと動いているか確認しないと痛い目に会う。

 母の携帯にメール。「ブエノスアイレスで本場のアルゼンチンタンゴを二回も見たよ! きれいな所だね。ここなら住めるわ。タンゴのCDも買ったし、明日タンゴシューズも買おうと思ってる。アンティークか何か、欲しい物ある?」

二日
 高橋歩さんの二回目の講座。夜八時半からだから遅くなった。自由人っていうけれど、商才のある人は何をしても成功するものなんだな。やっぱり前向きに生きていかなきゃ。
「船旅が終わって日本に帰るからとネガティブになるのではなく、パワーをそのまま次のステップに持っていかなきゃ」と話していた。
 はい、私もこれからが楽しみだ! 前を向いて生活します。

 高橋さんは二十歳のとき、仲間とアメリカンバーを開店し、二年間で四店舗に広げる。自伝の「毎日が冒険」がベストセラーに。二十六歳で結婚し、妻と二人で世界一周の旅に出て、約二年間で世界十数カ国を放浪し帰国。
 その後、沖縄へ移住し、自給自足のネイチャービレッジを主宰。〇八年十一月より家族四人で無期限の世界一周に出掛けている、という人だ。

三日
 今日は、これから向かう南極についての講座を聞きに行った。アメリカ人の極地探検家、スーザン・エイディさんが水先案内人として乗船し、これから私たちに南極について様々な事を教えてくれる。彼女は南極コンサルタントとして自分の会社を持っている。
 今回はスーザンさんのほかに、氷河スペシャリストのアイスパイロットという、ロシア人のパーベルキャプテンも乗船している。


(娘の好物です)
 このピースボート、今回で六十四回目のクルーズだが、南極に行くのはこれが二回目だとか。南極に行くには申請が大変で、アイスパイロットや南極スペシャリストが必ず乗船しないと許可が下りないらしい。今回行ける私たちは、本当に本当にラッキー!
 それにしてもスーザンさんの講座、生物用語や化学用語があまりにも多く、彼女の担当になったCCたちは大変だなーっと思ったけど、見事に訳していた。やはり、講座前のミーティングでの用語確認や、内容を把握するための事前学習がモノを言うのだな。

 母の携帯にメール。「今、アルゼンチンの沿岸航路を下ってる。これから南極に向かって進むよ」

四日
 なにを思ったか、チリの「パタゴニア地域」についての講座を聞いている最中、急に髪の毛を切りたくなったので船のサロンでバッサリ切ってもらった。人生初のショートヘア。「どこで切ったの?」と聞かれれば、「南極近く」と答えるつもり。
 そして今晩は、日本人とメキシコ人のハーフで、通訳として乗っている実君がDJをやるというので、バーに繰り出す。
 実君がベトナムで買った、蛇とサソリが漬けてある酒を飲んで一気に酔ってしまった。

*ウン? 講座の最中に髪を切った!? 終わってからにしてほしかったわ。〈母のつぶやき〉

五日
 人生最悪の船酔いと二日酔いを一度に体験し、ものすごく辛い一日だった。気持ち悪い上に、船の縦揺れが激しく、寝たくても眠れない・・・。
 縦揺れは飛行機が降下している時に味わう、フワッとした感じ。船の中だとそれが永遠に続くよう。死ぬー。

六日
 世界最南端の都市、アルゼンチンのウシュアイアに到着。


(フエゴ島)
 ここはとても小さな町で、繁華街は徒歩圏内。ウシュアイアのある「フエゴ島」は歴史的にも非常に面白く、なんと進化論で有名なダーウィンも訪れた所。ビーグル水道をはじめとし、マゼラン海峡など大航海時代に発見された航路が今に至っている。
 ビーグル水道は、ダーウィンが一八三一年から一八三六年にかけて行った「ビーグル号」による地球一周航海のときの経路で、この水道の名前はビーグル号に由来している。
 今日はツアーのKコース、「ビーグル水道と博物館観光」に通訳として行くことになった。船を出ると目の前にアンデス山脈が連なっている。山頂付近は雪に覆われており、今までの寄港地とはがらりと違った表情を見せてくれた。アンデス山脈はスケールがすごく大きい!

 訪問先は「世界の果て博物館」と「プレディシオ」(元監獄)と「船舶博物館」。
 博物館では、先住民のことやウシュアイアの歴史を知ることができた。ウシュアイアで初めて建てられた監獄に行ってみたが、共同シャワールームはアウシュビッツのキャンプを彷彿とさせる不気味さが・・・。

 それから、カタマラン(双胴船)に乗って「アシカ島」、「海鳥の島」、「灯台の島」をクルーズした。アシカ島には夥しいアシカの群れが。ものすごく臭い。海鳥の島にはたくさんの海鵜が生息する。とにかく大自然を満喫した一日だった。

(後ろにペンギンの群れが・・・)
 近年、ウシュアイアは南極ツアーの拠点として重要さが増しているという。

*ウシュアイアからの絵ハガキ (フエゴ島の写真に「世界の果て」とのスペイン語の文字がある)
「DEAR パパ・ママ
 Ola! Comoestas? (元気? )私は今、ウシュアイアに来ています。世界最南端の都市の景色はとってもきれいだよ!
 大西洋と太平洋が果てしなく広がり、眼前に雪に覆われた雄大なアンデス山脈を見ることができ、アシカやアザラシやペンギン、その他の野生動物がたくさんいるよ。町は小さくかわいい感じ。

 今日までのラテンアメリカでの私の体験は素晴らしいことばかり。アルゼンチンに留学すればよかった。なぜなら、私はその国の雰囲気がとても気に入ったし、タンゴが大好きだから。
 これから南極に向けて出発するけど、南極やそこに生息する動物についての勉強が始まります。でもね、ホーン岬と南極大陸との間のドレーク海峡を渡るのは恐怖だよ。世界で最も荒れる海域の一つで『魔の南緯六十度』って呼ばれているんだ。どうか、命がありますように! ともかく、もうちょっとで私の新しい生活が始まります。早く会いたいよ。 Love 美佳」

七日
 南極に向けクルージング。今日は一日だらだらDay。特にすることもない。ドレーク海峡を通過し、南極収束線を通過する。脅されていたほど揺れはしなかったけど、確かに横揺れが激しかった。
 南極収束線とは南緯五十度から六十度付近の海に引かれた線のこと。この線は蛇行しながら南極大陸をぐるっと一周していて、ここのところで北の暖かい亜熱帯表層水と低温の南極表層水が接し、収束線を境に海水の表面水温が急に下がる。
 水温が変わるので塩分濃度も急激に変化し、収束線の北と南では生物層が大きく変わる。この線は山脈に匹敵するほどの生物障壁なのだ。
アホウドリが船を追いかける。

*母は「南極収束線」という言葉を知りませんでした。環境用語だそうです。

八日
 南極一日目。気温二度、曇り。キングジョージ島やディセプション島の横をゆっくり通過する。
 アドミラルティ―湾付近が風速四十メートルの強風のため、ブランスフィールド海峡で四十五分間待機。風速四十メートルを越えると人間は吹き飛ばされることがあるという。
 ブランスフィールド海峡と南シェットランド諸島とに向かう途中でザトウクジラを発見。
 アドミラルティ―湾では、水先案内人である極地探検家スーザンさんの、ひいおじいさんの名前のついたラング氷河周辺を遊覧。
初めてみる氷河は、青かった! 南極は真っ白な世界だと思っていたけど、意外にカラフル。様々な色の氷河がある。特に氷河の割れ目(クレバスと呼ばれている部分)は深い青色だ。

 アザラシの群れがピョコピョコ泳いで行き、でっかいアホウドリが風に乗って飛んでいる。なんと南極のアホウドリは体長三・五メートルにもなるらしい。南極の強い風あってこそ、生息できる鳥。すごくおおっ~きい!
(南極の虹)

(南極の月)

九日
 南極二日目。マイナス二度、曇り時々晴れ。クローカー海峡にて氷山とザトウクジラを発見。
 ゲルラッシュ海峡を南西に進み、パラダイス湾へ。
 ジェンツーペンギンの群れが、ピョンピョン泳いで行く。ザトウクジラが餌を食べるために海面に顔を突き出したところ、はたまたシャチの大群に出くわす。
 自然の雄大さを目の当たりにした。それにしても、風が冷たい。長い間デッキに出ていると、凍傷にでもなったかのように足が冷たく痛い。
 左舷側にレメア島、右舷側にブライド島。遠く近くにたくさんの氷山、壮大な景色を見る。
 テンダーボートがオンザロック用の氷を取りに行く。そして、船の中では氷山の氷を使ったウイスキーのオンザロックが振る舞われた。感動―!

*娘の帽子とマフラーは、母が編んだものですが、南極へ一緒に行くとは思ってもいませんでした。

十日
 南極三日目。マイナス三度、曇り時々晴れ。南極半島、そして氷河を見ながらの朝食三回目。あっという間に食事が冷える。つい先日まで半袖だったのに、いつの間にやらダウンジャケットの完全防備。
 本日はゲルラッシュ海峡を南西に進んだ先の、アンバーズ島やメルキョール島の氷河を満喫。
 昼食中、急に吹雪が! 南極の吹雪をデッキで楽しみ、皆おおはしゃぎ。船に雪がどんどん積もっていく。雪はとてもきれいで、一つ一つ違った結晶の形を私たちに見せてくれる。
 そして、フランダース湾に到着し、南極遊覧クルーズの最南端に来たことになる。相変わらずたくさんのジェンツーペンギンが船の横を泳いで行く。
 自然の、動物の支配する世界。そこへ人間が「おじゃまします」と、入って行く感じがした。すごい数のペンギンの群れが飛び跳ねる。氷山が流れて行く。アシカ、アザラシ、シャチ、クジラ、アホウドリ・・・、が悠々と生きている。


 スーザン・エイディさんは極地探検家であり、博物学者。北極地域や南極地域の広範囲な知識と経験を持ち、この三十年間、自然保護区および野生動物や魚類に情熱を捧げてきた。
 彼女は特に海への強い情熱を持ち、カリブ海、南太平洋、中央アメリカ、アマゾンでの航海でガイドを務めてきた人。

十一日
 南極が終わり、今日は一日船内にこもっていた。
 朝八時半から麻雀の練習に出かけた。乗客の麻雀愛好家のおじさんたちが丁寧に教えてくれるのだが、名称の復習とかだけで結局、一回も打つことができなかった・・・。つまらない。
 キャビンのテレビで放映されている映画をみるか、本を読むか、寝るかの一日だった。

十二日
 南極からチリのプンタアレナスに向かう途中、ビーグル水道とマゼラン海峡を通過した。ビーグル水道では見事な氷河をいくつか見ることができ、氷河が溶けて滝になっている光景は圧巻だった。

十三日
 プンタアレナスに到着。
 今日は「パタゴニアの牧場訪問」というツアーに通訳として行くことになった。予想以上に寒い。太陽が出ると暑いと言われたが、一応ダウンジャケットを着てきた。けれど、強風のため超寒い。
 私たちの船が停泊する予定の場所が、前の貨物船の出港が遅れたため、入港も一時間遅れに。ツアー開始時間ももちろん遅れることになった。
 そして朝十時、観光バスにて港を出発。フェリー乗り場へは約一時間二十分の道のりだ。ガイドさんはチリ人。スペイン語なまりの激しい人で、彼の英語に慣れるのに時間がかかった。

 まずは、「パタゴニア地域」の説明から。アンデス山脈を境に、西側は湿度も高く、年間の降水量も多い。しかし、東側はとても乾燥した強風地帯だ。ここに住んでいる人たちは傘というものを持たないらしい。
 なんと地上の水分の蒸発が、雨が降り注ぐ量より多いため、そして強風のため、雨に濡れてもすぐ乾いてしまうからだという。

(牧場で仲良しになった犬)

(アルパカもいました)

(大きなラムステーキ! テーブルもいいですね~)

十四日
 イースター島に向けクルージング。
 母の携帯にメール。「ママ、住民票の転出届けを市役所でしてください。昨日はチリのパタゴニア地域の牧場で一日過ごしたよ。ラム食べまくりにワイン飲みまくり。楽しかった。日記ちゃんと送ります」

*娘はピースボートに出発する前に住居を決め、契約を済ませておりました。東京の新しい住所に変更を、という依頼をしてきたのです。
はるかな南の海で、間もなく始まる新しい生活に思いを馳せているのでした。

十五日
 母の携帯にメール。「チリと南アフリカで『地ワイン』買っておいたよ。美味しいかわからないけど。それから東京に来るとき、家に置いてあるスーツとコンタクト持ってきてね」

十六日

 イースター島に向けクルージングを続ける。

十七、十八、十九日
 太平洋をクルージング。

二十日
 午前七時、イースター島 沖錨泊
 母の携帯にメール。「モアイ像はすごかった!」写真添付。

 イースター島はチリ領の太平洋上に位置する火山島で「モアイ像」で有名。大きさは小豆島くらい。周りに島らしい島が存在しない絶海の孤島という感じだけれど、島の暮らしは意外に近代的だ。
 島全体には、約千体ものモアイ像があり、最大のものは高さ七、八メートル、重さ八十トンもある。帽子をかぶったモアイもいた。

 その建造目的は謎だが、祭祀目的で建てられたという節が有力だった。しかし、近年の調査ではモアイの台座から人骨が発見されたので、墓碑であったという節が有力になりつつある。

 母に二度目の携帯メール。「今日、午後六時にイースター島を出て次の寄港地タヒチに向かうよ。それから、ダンスシューズやバレエのレオタードやシューズも持ってきてね」

 午後六時、イースター島 沖発

二十一日
 イースター島からタヒチへの水先案内人は、鎌田實さんと池田香代子さん。

 長野県諏訪中央病院名誉委員長で作家でもある鎌田先生は、諏訪中央病院で地域医療に携わり、一貫して「住民とともに作る医療」を提案し実践。
 一九九一年に日本チェルノブイリ連帯基金を設立し、被爆した子供たちへの救護活動を開始。十五年間に八十回の医師団を派遣し、約六億円の医薬品を汚染地帯の病院に届け、二〇〇四年からは、白血病などが増加しているイラクへの医療支援も開始。

 福祉や介護、健康に生きるコツなど生活に密着したお話を聞かせていただき、とても意義深い時間だった。先生と個人的にお話もできたし、ツーショットの写真もある。先生の本を自分用に買った。
 先生が、あのお顔でにこやかに、「いいかげんがいいよ」と言ってくださったのが、強く印象に残っている。それは、いろいろな意味の込められた深い言葉だと思うけど、「それでいいよ、そのままでいいよ」と、私を大きな心の中に包んでくださった感じがした。

 先生の本の一部を書く。
「日本では『がんばって』最後の汗の一滴まで絞らないと認められない。そんな社会だから幸福感を感じにくい。
 今を楽しんで生きるとか、いい人間関係があるとか、もっと大切なことは、『いいかげん』の中に隠れていたのだ」

二十二日
 池田香代子さんは、作家、翻訳家、世界平和アピール七人委員会のメンバーである。
 地球上の差別や格差、多様性についてわかりやすく伝え、ベストセラーになった「世界がもし百人の村だったら」の再話を手がける。その印税で「100人村基金」を設立し、基金を必要としている世界中の人たちに支援活動を行っている。
 また、パキスタンのアフガン難民キャンプの中の女子小学校を資金援助する「アルイルム女学院を見守る会」や、日本国内での難民申請者の支援にも関わっている。

 本の通りのわかりやすい語り口で環境、平和、人権についてお話いただいた。
 母へのおみやげに「世界がもし100人の村だったら」の完結編を買い求めた。池田さんのサインはもちろん、母の名前も記入してくださり、日付とハートマークも! それも美しい毛筆で。きっと母が喜ぶだろうな。

二十三日
 百六十万部のミリオンセラーの一部を書いてみる。
『世界には68億の人がいますが、それを100人に縮めると
51人は、都市に
49人は、農村や砂漠や草原に
すんでいます
都市の面積は
世界の陸地の3%です
都市に住む51人のうち
40人は貧しい国の人で
11人は豊かな国の人です
100人のうち
26人は電気が使えません
18人は
きれいで安全な水が飲めません
1年の暮らしにかけるお金が
100万円以上のもっとも豊かな人は
16人です
1万円以下のもっともまずしい人は、20年前
20人でしたが、いまは
15人に減りました
でも、3万円以下の人は
72人います』
すごく分かりやすい。私たちが目をそらせてはいけない、現在の世界の真実が凝縮されている。

二十四、二十五、二十六日
 タヒチめざしてクルージング。

二十七日
 午前九時、タヒチ入港。
 ゴーギャンの愛した南海の楽園タヒチ。透き通った海に白い砂浜にコテージ。青い空に緑濃い南国の植物。美しい風景が広がっている。

 現地の人との交流。農園でタロイモを植え、パパイアを収穫する。鎌田先生も池田さんも参加され、高校も訪れた。生徒が作ってくれた料理をいただき、タヒチアンダンスをみせてもらう。楽しいひとときだった。

 水先案内人、ガブリエル・テティアラヒさんの話を聞く。
 ガブリエルさんは、フランスの支配下にあるタヒチで、先住民族マヒオのアイデンティティ復権とフランス領ポリネシアからの独立を目指して活動するNGO「ヒティタウ」の創設者であり代表。
 フランスによる核実験を止めた抗議活動では国際的なリーダーであり、現在はフランスに依存しないマヒオの経済的自立を求めて、若いリーダーを育成し、伝統手法による有機栽培のバニラやタロイモ作りを積極的に実践している。

 いろいろな不公平があるらしい。例えば、フランス人がタヒチに移住した場合、選挙権が与えられるが、その逆にタヒチの人がフランスに移住したときは与えられないという。

 澄みきった美しい海で泳いだ。

 入社式に出席するために明日、空路ハワイ経由で日本への帰途に就く。その準備もあって、ピースボート最後の夜は落ち着かない。
 南半球の星空は本当にきれいだった。空いっぱいに散りばめられた星が、水平線のその向こうに消えていく。流れ星がいくつも流れていった。まるで夢の世界にいるよう。

 これで娘の旅日記は終わりです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
 彼女は短期間に灼熱の太陽と、凍てつく寒さの両方を経験したのですね。そして、旅の疲れを癒すまもなく、社会人としての一歩を踏み出したのですが、元気に過ごしていることを喜んでおります。
 今回、日記を公開するに際し、この旅行についてちょっと聞いてみました。携帯電話での会話です。
・夢のような気がする。本当に行ったんだ!
・学生から社会人への切り替えをこういう形でできたことが、とても良かった。心おきなく実社会に入っていけた。
・同じ価値観を持つ、理解しあえる一生の友人に巡り会えた。
・旅癖がついてしまった。
 というようなことを言っていました。
 娘が恐れることなく未知の世界に入っていき、世界の現実に触れ、目を見開き、耳を傾け、心を寄せて全身で感じた幾多の体験は、彼女の人生に光を放つ思い出として、永遠に刻まれることでしょう。世界を観る目が、それまでとは違うものになったに違いありません。
 ルームメートのお二人は、娘より少し先輩のお姉さん方で、いろいろ教えてもらったり助けてもらったり。妹のように可愛がっていただきました。また、乗客のご夫婦の部屋へお招きいただいての、楽しいお茶の時間もありました。
 それから、舞台のパフォーマンスでは「品行方正で成績優秀な女生徒」という、おいしい役を演じたのだそうです。

 旅癖について母の本音を言うならば、「ちょっと困る」が正直なところ。でも、そういう血が娘の中に流れているようですから・・・。
 昨年は、七月に私とマレーシアのペナン島を旅しました。帰りの夜間飛行の機内で、娘は毛布を頭からすっぽりかぶって両手で視野を遮り、窓に額を押し当てるようにして夜空に目を凝らしていました。数ヵ月前のパノラミックな「船からの星空」をたぐり寄せていたのですね。私も真似てみました。
 年末には、中国の他の地域に住んでいる友人と上海で待ち合わせ、そこで一週間ほど「プチセレブ生活」をしたのだそうです。お正月は家に滞在しましたけれど・・・。
 仕事でも海外へ出かける機会がありますので、よく考えて自分らしい人生を歩んでほしい、と願っています。

 四月末に岐阜県可児市在住の方から娘宛に封書が届きました。許可を得て開けてみると、ピースボートに乗船された方からのもので写真が同封されており、「東京の住所がわかりませんので岐阜へ送ります」とのことでした。
 南米のウシュアイアやイースター島で撮ってくださったもので、娘と並んでおられるその男性は七十歳くらいにお見受けしました。
 このごろはデジタルカメラばかりで、写真を見る機会もすっかり減ってしまいましたが、その写真を通して娘の仕事ぶりや楽しそうな様子を知ることができ、とても嬉しく思いました。

 世界中で多くの人に出会い、お世話になり、それらの人々と楽しさや喜びを分かちあったであろう、この旅。彼女の人生航路に荒波がたったとき、船酔いはするかもしれないけれど、それを乗り越える真の強さを身に付けることができたのではないでしょうか。そう思って母は安心しています。
 父は、また機会があれば積極的に出かけてReal worldを見て欲しい、などと言っています。

 ようやくエピローグまで辿り着きました。遅ればせながら、お約束が果たせましたことを嬉しく思っております。
(完)

08/4/26