「興奮剤」 香村夢二

 平日の午後三時とあって車内は空いていた。俺は窓の外の景色が流れていくのを見つめながら、どんよりとした気持ちで電車に揺られていた。何もかもがたまらなく苛立たしかった。
 それは、わずかな蓄えが切れて自分で自分のクソを食う羽目になるのが時間の問題であるにも関わらず、どうすることもできずにいることに起因していた。俺は二ヶ月ほど前に製粉工場での仕事を業績の悪化を理由に解雇されて以来、倉庫番や、コンビニの店員といったくだらないハンパ仕事にすらありつけずにいた。十代のガキどもには山ほどバイトがあるというのに、三十代を目前に控えた俺にはそんなものすら満足になかった。
 おまけに長年慰めとしてきたバンドも、数ヶ月前から活動を休止していた。それはライブの度に数万円単位の赤字が生じることと、誰からも評価されないことに起因していた。一応、来てくれる客は数名いたが、それらは皆、バンド関係の連中で、それも好きで来ているというより、付き合いで来ているというのが本当の理由だった。むろんバンドは楽しかったし、自分のバンドには世界中のどのガレージバンドとも渡り合えるという絶対の自信があったが、それ以上に疲れていた。いずれにせよ俺の生活は全くうまくいっておらず、俺は奈落の底の二歩手前くらいの場所にいた。
 一秒でも早く死が訪れるのを願いながら、視線を流すと向かいに座っている若い大学生風の女の子と目が合った。その女の子はいかにも前途洋々といった感じで何やら本を読んでいたが、俺の身なりがおもしろいのか、さっきからちらちらと俺の方を見ていた。その日の俺は、はき古しの雪駄に、着古した黒いティーシャツといういでたちで、髭もあたっておらず、いつも以上に見栄えがしなかった。
 しばらくして車内に紋切り型のアナウンスが響いた。その女の子は席を立つと笑顔を浮かべながら俺の前にやってきた。
「あの、『黒い太陽』のボーカルさんですよね?」
「はい・・・・」
 俺は一瞬返事をためらった。控えめに言ってもかなり驚いた。
「そうです・・・・」
「あの、サインしてもらえませんか?」
「えっ?」
「ダメですか?」
「いや、いいですよ。俺なんかでよければ」
 女の子は手にしていた本を開くとペンを俺に差し出した。俺は周りの人間の好奇の視線を四方八方から感じながらよくわからないまま本にサインした。自分の身に起きていることが信じがたかった。こういうことを言われるのは初めてだった。
 サインを終えて本とペンを返すと女の子はうれしそうに礼を言った。俺はその様子を見つめながら久しぶりにまともな人間として認めてもらえたような気持ちを覚えた。いつどこで俺のことを知ったのかはわからなかったが、うれしいことに変わりはなかった。すごくうれしいことに。
 間もなくして中途半端な大きさの駅に着いた。その子は「次のライブを楽しみにしてます」と言うと電車を降りて改札へと歩いて行った。俺は体中に新しい力がみなぎっていくのを感じながらその様子を見つめた。この数ヶ月間ずっと失っていた自信と気力がもどってくるのを感じながら。さっきまでの気持ちはいつの間にか、どこかに消えていた。
 女の子の姿はすぐに見えなくなった。俺は間もなくして鳴り始めたベルを聞きながら心の中で、今しがた受け取ったすてきな贈り物の礼を言った。
「極上の興奮剤を大量に血管にぶち込んでくれてありがとうな」と。
 俺はさっきまでとはちがう、輝きのある眼で向かいの窓ガラスに写る自分を見つめると「あの子のためにもしゃんとしろよ!」と自分に言い聞かせた。

10年10月1日

「不思議な贈りもの」 加藤 行

 平日の午後三時とあって車内は空いていた。俺は窓の外の景色が流れていくのを見つめながら、どんよりとした気持ちで電車に揺られていた。何もかもがたまらなく苛立たしかった。
 それは、わずかな蓄えが切れて自分で自分のクソを食う羽目になるのが時間の問題であるにも関わらず、どうすることもできずにいることに起因していた。俺は二ヶ月ほど前に製粉工場での仕事を業績の悪化を理由に解雇されて以来、倉庫番や、コンビニの店員といったくだらないハンパ仕事にすらありつけずにいた。十代のガキどもには山ほどバイトがあるというのに、三十代を目前に控えた俺にはそんなものすら満足になかった。
 おまけに長年慰めとしてきたバンドも、数ヶ月前から活動を休止していた。それはライブの度に数万円単位の赤字が生じることと、誰からも評価されないことに起因していた。一応、来てくれる客は数名いたが、それらは皆、バンド関係の連中で、それも好きで来ているというより、付き合いで来ているというのが本当の理由だった。むろんバンドは楽しかったし、自分のバンドには世界中のどのガレージバンドとも渡り合えるという絶対の自信があったが、それ以上に疲れていた。いずれにせよ俺の生活は全くうまくいっておらず、俺は奈落の底の二歩手前くらいの場所にいた。
 一秒でも早く死が訪れるのを願いながら、視線を流すと向かいに座っている若い大学生風の女の子と目が合った。その女の子はいかにも前途洋々といった感じで何やら本を読んでいたが、俺の身なりがおもしろいのか、さっきからちらちらと俺の方を見ていた。その日の俺は、はき古しの雪駄に、着古した黒いティーシャツといういでたちで、髭もあたっておらず、いつも以上に見栄えがしなかった。
 しばらくして車内に紋切り型のアナウンスが響いた。その女の子は席を立つと笑顔を浮かべながら俺の前にやってきた。
「あの、『黒い太陽』のボーカルさんですよね?」
「はい・・・・」
 俺は一瞬返事をためらった。控えめに言ってもかなり驚いた。
「そうです・・・・」
「あの、サインしてもらえませんか?」
「えっ?」
「ダメですか?」
「いや、いいですよ。俺なんかでよければ」
 女の子は手にしていた本を開くとペンを俺に差し出した。俺は周りの人間の好奇の視線を四方八方から感じながらよくわからないまま本にサインした。自分の身に起きていることが信じがたかった。こういうことを言われるのは初めてだった。
 サインを終えて本とペンを返すと女の子はうれしそうに礼を言った。俺はその様子を見つめながら久しぶりにまともな人間として認めてもらえたような気持ちを覚えた。いつどこで俺のことを知ったのかはわからなかったが、うれしいことに変わりはなかった。すごくうれしいことに。
 間もなくして中途半端な大きさの駅に着いた。その子は「次のライブを楽しみにしてます」と言うと電車を降りて改札へと歩いて行った。俺は体中に新しい力がみなぎっていくのを感じながらその様子を見つめた。この数ヶ月間ずっと失っていた自信と気力がもどってくるのを感じながら。さっきまでの気持ちはいつの間にか、どこかに消えていた。
 女の子の姿はすぐに見えなくなった。俺は間もなくして鳴り始めたベルを聞きながら心の中で、今しがた受け取ったすてきな贈り物の礼を言った。
「極上の興奮剤を大量に血管にぶち込んでくれてありがとうな」と。
 俺はさっきまでとはちがう、輝きのある眼で向かいの窓ガラスに写る自分を見つめると「あの子のためにもしゃんとしろよ!」と自分に言い聞かせた。

10/10/1