短編小説「出会い」

 クラシック演奏会の余韻を残し、ホールを出た恭介はパンフレットを片手に、赤いカーペットが敷き詰められたロビーを清々しい気分に浸りながら歩いていた。
 ふと窓外を見上げると、真っ赤な夕焼けが心に沁み入るように、美しい風景を映し出していた。
 「何と贅沢な気分だ・・・」
 恭介は、満足気に笑みを浮かべた。
 しばらくして、ロビーを振り向くと、キラキラとまぶしい照明が目に飛び込んで来た。
 少し、一休みしょうかと恭介は売店でコーヒーをもらい、辺りを見渡した。
 すると傍に二人掛けのソファがあり、そこに一人の若い女性が座っていた。
 その女性はパンフレットを膝に置きうつむいていた。茶色のロングカールのヘアスタイルにおしゃれなメガネをかけて、ほのかに香るローズのオーデコロンが魅惑的だった。
 知的に洗練された雰囲気が都会派の女性を連想させた。ピンクのワンピースも気品があって彼女によく似合っていた。
 恭介の視線に気づいて、彼女は顔を上げた。恭介がニッコリ笑って声をかけた。
 「素敵なコンサートでしたね。クラシックはお好きなのですか」
 女性は軽く微笑んで言った。
 「・・・ええ、まあ」
 女の返事が、どことなくぎこちなくて違和感があった。それが恭介には何か釈然としない印象を与えた。
 恭介は軽く頭を下げて言った。
 「お邪魔でなかったら、隣に座っても構いませんか」
 女はひとつ溜息を吐いてうなづいた。
 恭介は隣に座ると、やや躊躇した後で、思い切って女に尋ねた。
 「失礼ですが、あなたは何かお困りの様子に見えますが・・・もし、よろしければ僕が事情をお聞きしても構いませんが」
 すると女が、遠くを見つめるように言った。
 「ありがとうございます。・・・私、お話しするにも先程から何だか喉が渇いて」
 「少し待っていて下さい。すぐ戻ります」
 恭介はそう言って売店のカウンターに行き、しばらくするとレモンソーダーのグラスを持って来て女に手渡した。
 「よろしければお飲みください。お口に合えば良いのですが」
 女は軽く微笑んで言った。
 「あなたってお優しい方ですのね。・・・ひよっとして白馬に乗った王子様かしら」
 そして女は、嬉しそうにレモンソーダーを口にした。
 そして言った。
 「これ、何だと思います」
 女はバッグから小さな紙包みを取り出した。恭介は、それを手にして首を傾げた。彼には何とも返答が出来なかった。
 女が言った。
 「青酸カリ。私、死ぬことを考えているの」
 突然の異様な言動に、崖っぷちに立たされた思いで恭介は言葉を失なった。そして、しばらく沈黙が続いた。
 その時、二人の前を大勢のオーケストラの演奏者が、楽器を抱えてロビーを通り過ぎて行った。
 恭介が口を開いた。
 「でも、何んでそんな事を・・・」
 「夫が原因よ。私、結婚して五年になるわ。三歳になる子供もいてね。でも、まともな家族の生活には恵まれなくて、寂しい毎日を送っている有様なの」
 「と言うと?」
 「私の夫は完璧な会社人間。・・・仕事に打ち込むのは決して悪くない。でも彼は仕事以外のこと、私や子供に全くと言っていいくらい無関心。たまの休日も家族三人で楽しんだ事もなかったわ」
 「本当の男って、そんなものじゃないんですか」
 「いいえ、私は将来に希望が持てないのです。悲しいけど夫には、家族なんか必要なかったのよ。私は毎日のように悩み、思い詰めて・・・夫にあなたの様な優しさがあったならね」
 思わず恭介は苦笑いを押し殺した。
 女が言葉を続けた。
 「私は、家族に恵まれずに育ちました。だから温かな家庭に憧れがあったの・・・でも、現実は惨めで寂しくて絶望感ばかり。そして私は、死ぬ事を考え始めたわ。子供を抱いて海まで行った事もあったわ・・・でも子供を道連れにする事は出来なかった。それなら、私だけでもと・・・」
 恭介に言葉は出なかった。
 女は、レモンソーダーのグラスを恭介に返すと、ソファーから立ち上がって言った。
 「でも、あなたに打ち明けて何だか心が軽くなったわ。もう一度、考えてみるわ。そうそう、その毒薬は・・・」
 「これは僕が預かっておくよ。君の気が変わらないように」
 恭介が振り向くと、もうそこに女の姿はなかった。彼は紙包みを丸めて捨てると、しばらくの間、コーヒーを飲みながら物思いに耽っていた・・・・・。

 着替えを済ませると、恭介は居間のソファーに身を沈めた。台所から妻の幸枝が顔を出して言った。
 「早かったわね。コンサートはどうだったの、あなた」
 「ああ、いい思い出になったよ。それより健一はどうしてる?」
 「二階でお絵かきの真っ最中じゃない。来年は幼稚園だしね」
 恭介がソファから立つと笑顔で言った。
 「・・・様子でも見てくるか。最近、一緒に遊んだ事もないしな」
 「あら、あなたが健一の面倒を見るなんて驚きね。どうかしたの」
 「何でもないよ。そうだ、あさっては有給休暇をとって、三人でドライブに行こうか」
 「へえー、仕事人間のあなたがねえ」
 そう言うと幸枝は台所へ姿を消した。

 大きなバッグの中にはロングカールのかつらと洒落たメガネにローズのオーデコロン、そしてピンクのワンピースが入っていた。
「美容師の恵子に頼んだメイクも完璧だったし、バックの小道具も、もう用済みね」
 そう言って幸枝はバッグを戸棚の奥にしまい込んだ。そしてニッコリ微笑んで言った。
 「でも、あの人からレモンソーダーをご馳走になったのは何年ぶりかしら」
 二階から親子の楽しげな笑い声が聞こえていた。  

            完

10年6月12日

ウェブ作品集

加藤 行

 

 クラシック演奏会の余韻を残し、ホールを出た恭介はパンフレットを片手に、赤いカーペットが敷き詰められたロビーを清々しい気分に浸りながら歩いていた。
 ふと窓外を見上げると、真っ赤な夕焼けが心に沁み入るように、美しい風景を映し出していた。
 「何と贅沢な気分だ・・・」
 恭介は、満足気に笑みを浮かべた。
 しばらくして、ロビーを振り向くと、キラキラとまぶしい照明が目に飛び込んで来た。
 少し、一休みしょうかと恭介は売店でコーヒーをもらい、辺りを見渡した。
 すると傍に二人掛けのソファがあり、そこに一人の若い女性が座っていた。
 その女性はパンフレットを膝に置きうつむいていた。茶色のロングカールのヘアスタイルにおしゃれなメガネをかけて、ほのかに香るローズのオーデコロンが魅惑的だった。
 知的に洗練された雰囲気が都会派の女性を連想させた。ピンクのワンピースも気品があって彼女によく似合っていた。
 恭介の視線に気づいて、彼女は顔を上げた。恭介がニッコリ笑って声をかけた。
 「素敵なコンサートでしたね。クラシックはお好きなのですか」
 女性は軽く微笑んで言った。
 「・・・ええ、まあ」
 女の返事が、どことなくぎこちなくて違和感があった。それが恭介には何か釈然としない印象を与えた。
 恭介は軽く頭を下げて言った。
 「お邪魔でなかったら、隣に座っても構いませんか」
 女はひとつ溜息を吐いてうなづいた。
 恭介は隣に座ると、やや躊躇した後で、思い切って女に尋ねた。
 「失礼ですが、あなたは何かお困りの様子に見えますが・・・もし、よろしければ僕が事情をお聞きしても構いませんが」
 すると女が、遠くを見つめるように言った。
 「ありがとうございます。・・・私、お話しするにも先程から何だか喉が渇いて」
 「少し待っていて下さい。すぐ戻ります」
 恭介はそう言って売店のカウンターに行き、しばらくするとレモンソーダーのグラスを持って来て女に手渡した。
 「よろしければお飲みください。お口に合えば良いのですが」
 女は軽く微笑んで言った。
 「あなたってお優しい方ですのね。・・・ひよっとして白馬に乗った王子様かしら」
 そして女は、嬉しそうにレモンソーダーを口にした。
 そして言った。
 「これ、何だと思います」
 女はバッグから小さな紙包みを取り出した。恭介は、それを手にして首を傾げた。彼には何とも返答が出来なかった。
 女が言った。
 「青酸カリ。私、死ぬことを考えているの」
 突然の異様な言動に、崖っぷちに立たされた思いで恭介は言葉を失なった。そして、しばらく沈黙が続いた。
 その時、二人の前を大勢のオーケストラの演奏者が、楽器を抱えてロビーを通り過ぎて行った。
 恭介が口を開いた。
 「でも、何んでそんな事を・・・」
 「夫が原因よ。私、結婚して五年になるわ。三歳になる子供もいてね。でも、まともな家族の生活には恵まれなくて、寂しい毎日を送っている有様なの」
 「と言うと?」
 「私の夫は完璧な会社人間。・・・仕事に打ち込むのは決して悪くない。でも彼は仕事以外のこと、私や子供に全くと言っていいくらい無関心。たまの休日も家族三人で楽しんだ事もなかったわ」
 「本当の男って、そんなものじゃないんですか」
 「いいえ、私は将来に希望が持てないのです。悲しいけど夫には、家族なんか必要なかったのよ。私は毎日のように悩み、思い詰めて・・・夫にあなたの様な優しさがあったならね」
 思わず恭介は苦笑いを押し殺した。
 女が言葉を続けた。
 「私は、家族に恵まれずに育ちました。だから温かな家庭に憧れがあったの・・・でも、現実は惨めで寂しくて絶望感ばかり。そして私は、死ぬ事を考え始めたわ。子供を抱いて海まで行った事もあったわ・・・でも子供を道連れにする事は出来なかった。それなら、私だけでもと・・・」
 恭介に言葉は出なかった。
 女は、レモンソーダーのグラスを恭介に返すと、ソファーから立ち上がって言った。
 「でも、あなたに打ち明けて何だか心が軽くなったわ。もう一度、考えてみるわ。そうそう、その毒薬は・・・」
 「これは僕が預かっておくよ。君の気が変わらないように」
 恭介が振り向くと、もうそこに女の姿はなかった。彼は紙包みを丸めて捨てると、しばらくの間、コーヒーを飲みながら物思いに耽っていた・・・・・。

 着替えを済ませると、恭介は居間のソファーに身を沈めた。台所から妻の幸枝が顔を出して言った。
 「早かったわね。コンサートはどうだったの、あなた」
 「ああ、いい思い出になったよ。それより健一はどうしてる?」
 「二階でお絵かきの真っ最中じゃない。来年は幼稚園だしね」
 恭介がソファから立つと笑顔で言った。
 「・・・様子でも見てくるか。最近、一緒に遊んだ事もないしな」
 「あら、あなたが健一の面倒を見るなんて驚きね。どうかしたの」
 「何でもないよ。そうだ、あさっては有給休暇をとって、三人でドライブに行こうか」
 「へえー、仕事人間のあなたがねえ」
 そう言うと幸枝は台所へ姿を消した。

 大きなバッグの中にはロングカールのかつらと洒落たメガネにローズのオーデコロン、そしてピンクのワンピースが入っていた。
「美容師の恵子に頼んだメイクも完璧だったし、バックの小道具も、もう用済みね」
 そう言って幸枝はバッグを戸棚の奥にしまい込んだ。そしてニッコリ微笑んで言った。
 「でも、あの人からレモンソーダーをご馳走になったのは何年ぶりかしら」
 二階から親子の楽しげな笑い声が聞こえていた。  

            完

09/12/13