短編小説「プラットホームにて」

 八月の蒸し暑いホームの傍ら。その待合室は、冷風に逃れた多くの旅行客と荷物で溢れかえっていた。
 隅っこの席。芳雄は片手にした缶ビールをグイッと飲み干し、荒らっぽく握り潰した。
 そして横に座っている妻の顔を見返した。妻の百合子はさっきから黙ったまま、しきりに化粧を直している。
 芳雄が口を開いた。
 「あと二十分もすれば列車が出る。もう気持ちは変わらないんだろう?」
 百合子はコンパクトをバッグに収めて小さく頷いた。
 「役所へ行って、君の持っている離婚届を出してくればそれで終わりさ。そしてお互いに別々の人生を始めようと・・・言ったのは君なんだから」
 しばらく重い空気が流れた。芳雄はぼんやりと天井を見上げて小声で言った。
 「僕ら、結婚して何年になるのかな」
 すると百合子が、やや投げやりな口調で言い放った。
 「今年で二十三年。・・・・・もう思い出すのも、パッとしないわね」
 芳雄は溜め息をついた。
 「結局、僕たち、子供にも恵まれなかったんだ」
 百合子は伏せ目がちに、紙コップのメロンジュースを一口飲んで言った。
 「それが一番の原因だったりしてね。世の中にはお金で買えないものがたくさんあるんだわ・・・・・あら、可愛いワンちゃんが」
 芳雄が前を見ると、真ん前の席に黒眼鏡をかけた裕福そうな老婆がいた。そばで、ラブラドール犬が床に座り込んでこっちを見ていた。
 百合子は嬉しそうに近寄り、笑顔を浮かべて犬の頭を撫でていた。その老婆が盲目で、犬が盲導犬であるのは直ぐに察知できた。
 老婆はニッコリと微笑んでいた。
 と、その時ラブラドールが急に立ち上がり、百合子がしゃがんで置いた、膝の上のハンドバッグを口で咥えると、そのままトコトコと人混みに紛れて待合室を出て行った。
 それに気づいた老婆が声をかけた。
 「これこれ、いけない子ね。シリウス、早く戻っておいで」
 呆気に取られた芳雄と百合子が顔を見合わせた。
 百合子が言った。
 「あのバッグには離婚届が・・・」
 「僕が取り返して来るよ」
 芳雄は席を立つと、シリウスのあとを追いかけた。
 待合室の中は相変わらず騒々しい周囲のざわめき、あちこちと走り回る子供たちの笑い声が響いていた。
 百合子はジュースの紙コップを手に、夏の活気が充満する空気に圧倒されていた。
 そこへ芳雄が驚いた顔で戻って来て言った。
 「ねえ、百合子、あのシリウスって犬、どこへ行ったと思う」
 百合子は無言で首を振った。
 芳雄が言った。
「教えてあげるから、こっちへおいで」
 戸惑う百合子の手を引いて、芳雄はどんどん進んで行った。
 ようやく二人はシリウスのいるホームに辿り着いた。
 辺りを見渡して、百合子はハッと気づいた。
 「・・・ここって確か、私たちが新婚旅行に行った時の・・・」
 二人のすぐ側には、箱根行きの特急列車が止まっている。
 発車のベルが鳴り響いた。芳雄がニッコリ笑って言った。
 「もう一度、この列車に乗ってみないかい、お嬢さん」
 思わず百合子は吹き出した。
 「あなたの思いつきには、いつでも呆れるわ。・・・でも待合室の荷物とシリウスの持っているバッグはどうするの」
 「そんなもの、置いていけばいい」
 芳雄は百合子を軽々と抱き上げて、特急列車に乗り込んだ。
 百合子は頬を赤らめて小声で言った。
 「なんだか不思議な気持ちね。私、今年で何歳だかご存知」
 「そんな事は忘れればいいさ。さあ、動き出したぞ」
 やがて、二人を乗せた特急列車は滑るようにホームを去って行った。
 後に残されたシリウスはハンドバッグを咥えたまま、首を掲げてポツンとたたずんでいた・・・。
          了

10年6月12日

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加藤 行

 

 八月の蒸し暑いホームの傍ら。その待合室は、冷風に逃れた多くの旅行客と荷物で溢れかえっていた。
 隅っこの席。芳雄は片手にした缶ビールをグイッと飲み干し、荒らっぽく握り潰した。
 そして横に座っている妻の顔を見返した。妻の百合子はさっきから黙ったまま、しきりに化粧を直している。
 芳雄が口を開いた。
 「あと二十分もすれば列車が出る。もう気持ちは変わらないんだろう?」
 百合子はコンパクトをバッグに収めて小さく頷いた。
 「役所へ行って、君の持っている離婚届を出してくればそれで終わりさ。そしてお互いに別々の人生を始めようと・・・言ったのは君なんだから」
 しばらく重い空気が流れた。芳雄はぼんやりと天井を見上げて小声で言った。
 「僕ら、結婚して何年になるのかな」
 すると百合子が、やや投げやりな口調で言い放った。
 「今年で二十三年。・・・・・もう思い出すのも、パッとしないわね」
 芳雄は溜め息をついた。
 「結局、僕たち、子供にも恵まれなかったんだ」
 百合子は伏せ目がちに、紙コップのメロンジュースを一口飲んで言った。
 「それが一番の原因だったりしてね。世の中にはお金で買えないものがたくさんあるんだわ・・・・・あら、可愛いワンちゃんが」
 芳雄が前を見ると、真ん前の席に黒眼鏡をかけた裕福そうな老婆がいた。そばで、ラブラドール犬が床に座り込んでこっちを見ていた。
 百合子は嬉しそうに近寄り、笑顔を浮かべて犬の頭を撫でていた。その老婆が盲目で、犬が盲導犬であるのは直ぐに察知できた。
 老婆はニッコリと微笑んでいた。
 と、その時ラブラドールが急に立ち上がり、百合子がしゃがんで置いた、膝の上のハンドバッグを口で咥えると、そのままトコトコと人混みに紛れて待合室を出て行った。
 それに気づいた老婆が声をかけた。
 「これこれ、いけない子ね。シリウス、早く戻っておいで」
 呆気に取られた芳雄と百合子が顔を見合わせた。
 百合子が言った。
 「あのバッグには離婚届が・・・」
 「僕が取り返して来るよ」
 芳雄は席を立つと、シリウスのあとを追いかけた。
 待合室の中は相変わらず騒々しい周囲のざわめき、あちこちと走り回る子供たちの笑い声が響いていた。
 百合子はジュースの紙コップを手に、夏の活気が充満する空気に圧倒されていた。
 そこへ芳雄が驚いた顔で戻って来て言った。
 「ねえ、百合子、あのシリウスって犬、どこへ行ったと思う」
 百合子は無言で首を振った。
 芳雄が言った。
「教えてあげるから、こっちへおいで」
 戸惑う百合子の手を引いて、芳雄はどんどん進んで行った。
 ようやく二人はシリウスのいるホームに辿り着いた。
 辺りを見渡して、百合子はハッと気づいた。
 「・・・ここって確か、私たちが新婚旅行に行った時の・・・」
 二人のすぐ側には、箱根行きの特急列車が止まっている。
 発車のベルが鳴り響いた。芳雄がニッコリ笑って言った。
 「もう一度、この列車に乗ってみないかい、お嬢さん」
 思わず百合子は吹き出した。
 「あなたの思いつきには、いつでも呆れるわ。・・・でも待合室の荷物とシリウスの持っているバッグはどうするの」
 「そんなもの、置いていけばいい」
 芳雄は百合子を軽々と抱き上げて、特急列車に乗り込んだ。
 百合子は頬を赤らめて小声で言った。
 「なんだか不思議な気持ちね。私、今年で何歳だかご存知」
 「そんな事は忘れればいいさ。さあ、動き出したぞ」
 やがて、二人を乗せた特急列車は滑るようにホームを去って行った。
 後に残されたシリウスはハンドバッグを咥えたまま、首を掲げてポツンとたたずんでいた・・・。
          了

09/12/13