小説「月に行った猫」後編

  〈11〉

 職場での恭平の評価は高かった。彼はどれだけ熱があっても仕事を休まず、他の日雇い社員の誰よりもまともに仕事に取り組んでいたので、派遣先の従業員からは重宝がられていた。そしてこのところでは他の派遣社員にはまずやらせないような仕事を任せられるまでになっていた。派遣先の恭平と似たような境遇 ― その男も中学しか出ていなかった ― の上司から気に入られていたのである。その男は仕事に厳しくことあるごとに「学歴なんて意味がない」と大卒の連中に言い回っていたが、恭平には優しかった。他の従業員の話によるとその男が部下を気にかけるのは極めてまれなことのようだった。それが恭平の仕事に対する態度からなのか、それとも同じ境遇ゆえに親近感が湧いたからなのかはわからないが、いずれにしても彼は職場でいい立場にあった。
 クリスマスの夜、いつものように仕事を終えた彼はその上司に一緒に来るよう言われた。彼はそつなく仕事をこなしていたので呼ばれた意味がよく分からなかった。
 二人が向かったのは昼食をとったり休憩をとったりするための食堂だった。恭平がイスに腰をかけると上司はタバコに火をつけた。恭平は自分が解雇されるのではないかと思って少々ドキドキした。彼は今までに何度も何の前触れもなく解雇され続けてきた。
「森本君」上司は言った。「君は将来のことをどう考えてるんだ?」
「はい?」
「君は今いくつだ?」
「三十四ですが」
「いい年だな」
 上司は働者特有の荒くれた手で短く刈り込んだ白髪頭をなでると立ち上がって部屋の隅の自販機へと歩いて行った。そこには四流メーカーの飲み物ばかりを売る自販機が二台ほどあった。値段は通りで目にする自販機よりもいくらか安かった。
「何か飲むか?」
「いや、結構です」
「コーヒーはどうだ?」
「ああ、じゃあ、いただきます」
 上司は缶コーヒーを二本買うと席にもどった。そしてそのうちの一本を恭平に差し出すと詮を空けて一口あおった。その上司はどういうわけだか右手の人差し指がなかった。恭平はいつものように「若い頃はどういう仕事についていたのだろう?」と思った。見た目どおり ― その上司は背こそ低いが強面でがっちりとした体格をしていた ― チンピラか何かだろうか?
「これから結婚を考えたり親の面倒を見たりしなきゃいけない年だな」
「はあ」
「時給で働くのは幸せか?」
「いえ」
「派遣はバカらしいからな」上司は言った。「いくら頑張ってもおまえさんの手元にはあまり入らない」
「二割はとられてますからね」
「正確に言えばもっとだけどな。知ってるだろうけどおまえさんの勤めてる会社は相当な食わせものだ」
 恭平は黙っていた。今にも上司が「明日から来なくていい」と言い出しそうな気がしてドキドキしていた。でも、その手のことをこの上司が言ってくるのはおかしな話だった。その手のことは毎日、朝と夕にここに来る派遣会社の社員が言ってくるべきことだった。ジャガイモに手足が生えたような体型をしたいけ好かないあの男が。
「森本君」
「はい」
「今の仕事を辞める気はないか?」
「クビですか?」
「ちがう。そんなアコギな会社は辞めて直接うちで働かないかと言ってるんだ。つまりうちの社員にならないか、とな」
「ええっ!」
 恭平は思わず叫んだ。上司の言ったことが信じられなかった。上司は恭平の驚きようを見て笑みを浮かべた。
「前から俺は君に目をつけていたんだ」上司は言った。「君はよく働いてくれる。そこで俺は先日、君を正社員にしたいと人事にとりあったんだ。その結果そうしてもいいという返事が来た。今朝のことだが」
 恭平は呆然としながら上司を見つめていた。上司はタバコを灰皿に押し付けると缶コーヒーをすすった。恭平は世界中から音が消えたような感覚を覚えていた。
「他のヤツには内緒だぞ」上司は言った。「正直こういうことはしちゃいけないんだ。まあ、それを言ったらオタクの会社がしてることもしてはならないことなんだがな。で、どうだ? 受けてくれるか?」
「受けます!」恭平は言った。「是非お願いします。是非、御社の社員になります!」
「おいおい、条件は聞かなくていいのか?」
「だいじょうぶです。なんでもやりますんで!」
「それはうなずけるな。君ほどクソ真面目なヤツはそうそういない。正直俺は何で君が今までずっと会社をクビにされ続けてきたのかがわからない」上司はそう言うと新しいタバコに火をつけた。「まあ、でも一応言っておこう。うちの会社はそれほど待遇のいい会社じゃない。知っての通り重労働だが基本給は十六万円と高くない。ボーナスは年に二回で三カ月分だ。むろん残業もあるし、休日も完全週休二日ではない。一応昇給もあるがそれほど期待はできない。あと一応夏季休暇と冬季休暇もあるけど他の企業と比べたら短い」
「十分に好待遇ですよ!」
 恭平はうれしさのあまり再び叫んだ。その条件は彼が今までついてきた仕事の中ではかなりいいものだった。少なくとも賞与とボーナスがあるという点においては。彼は今までボーナスというものをもらったことがなかった。しかし一番うれしかったのは正社員になれるということだった。何のとりえもなければ何の資格もない三十四歳の自分が・・・・彼は頭の中で猫と自分が休暇とボーナスを利用してどこかの温泉にいる姿を想像してさらに興奮した。このところ彼は猫とどこかに行きたいとさかんに考えていた。
「ところでそれはいつからですか?」恭平は言った。「春からですか?」
「一月二十日からだ」上司は返した。「少し急だがだいじょうぶか? 人手が足りないものでな」
「もちろんです!」
「そうか。じゃあ書類は後日渡すよ」
「はい」
 上司は缶コーヒーを飲み干すと立ち上がった。そして「引き止めて悪かったな」と言うとドアの方へと歩いて行った。恭平は空き缶を入り口脇のゴミ箱に捨てた上司がポケットに手を突っ込んで出て行く姿を喜びに震えながら見つめた。

  〈12〉

 職場を出た恭平は夢見心地で通りを歩いていった。さっき上司に言われたことが信じられなかった。もう自殺する以外に方法がないと思っていた自分が安定した職につき、おまけに少しの贅沢なら許される立場の人間になれるなど夢のような話だった。彼の心の中はまさにバラ色だった。
 歩いているうちに商店街にさしかかった。恭平は今日がクリスマスだということを思い出して馴染みのスーパーに立ち寄り、店内中央に設けられたクリスマス用の食材を売るコーナーでケーキとシャンパン、それに幼い頃から一度食べてみたいと思っていたチキンを丸々一羽焼いたものを買った。値段は少し張ったが、それは自分への再就職祝いを兼ねた猫へのクリスマスプレゼントということにしておいた。チキンは猫の好物だった。
 店を出た恭平は早足で部屋に向った。部屋についた彼はドアを開けるといつもより大きな声で「ただいま」と言い、数日前に特価で買ったバンズの ― 前に履いていた安物の運動靴は踵が剥がれてしまったため捨てた。接着剤ではもう直らなかったのだ ― 運動靴を脱いで玄関を上がった。彼は敷きっぱなしになっていた布団の上で寝ている猫の元にかけよると、四つんばいになった。
「モモ! 今帰ったぞ!」
 猫は首をひねって恭平を見やった。食べ物の匂いがするのか鼻をクンクンさせている。このところ猫は耳が遠くなったのか恭平が近寄っても気づかないことが多かった。
「今日はお祝いだ」恭平は言った。「俺の再就職祝いとクリスマスの祝いを兼ねておまえの好きなチキンを買ってきたんだ。この間買ってきたみたいな特売品じゃないぞ。丸々一羽だぞ。見たことがあるか? なあ俺は来月から正式雇用されることになったんだ。すごいだろ」
 猫は起き上がると傍らに置かれていた袋に頭を突っ込んだ。恭平は一瞬「こら!」と言いかけたがかわいかったのでそれをやめ、床に転がっていた使い捨てカメラでその様子を写した。このところ彼は週に一回の割合で写真を現像に出していた。撮るのはほとんどが部屋でだったが、散歩に行った時に撮ることもあった。
「腹が減ってるんだな」恭平は言った。「じゃあ、まずは食事にするか。お話は後にして」
 猫が鳴いた。まるで「そいつは名案だな」といわんばかりに。
「待ってろよ。今すぐに準備してやるからな」
 恭平は袋を掴んで台所に行くとチキンを切り分け、慎重にシャンパンを開けた。そしてイチゴの乗ったショートケーキを皿に盛ると隣の部屋に行き、近所のリサイクルショップで安く手に入れた小さな古いラジオをつけた。彼は偶然流れていたジョン・レノンの「クリスマスソング」を聴きながら不慣れな感じで指を鳴らした。いい気分だった。
 翌日は週に一度の休みだった。そんなわけで恭平は猫と一緒にゆっくりと食事をした。欠けたマグカップでシャンパンを飲み、タバコを吸い、ケーキを食べ、甘い音楽に耳を傾けた。チキンは味付けも焼き具合も完璧でとてもおいしく、シャンパンも申し分がなかった。猫も喜んでいた。
「ボーナスが入ったら」恭平は言った。「いっしょにどこかに行こうか。温泉とか。おまえは風呂が好きだし最近じゃ、ペットの持ち込みを許可している宿もあるらしいんだ」
 そうこうしているうちに十時半になった。恭平は猫を抱き上げると台所へ行き散歩に出かける準備を始めた。彼が猫を散歩に連れていくのはその時間と仕事に出かける前の早朝と決まっていた。それはその時間ならまず人目につくことがないから安心して近所を歩けるからであり、猫が便意をもよおす時間と重なっていたからだった。
 首輪にリードをつけてドアを開けると雪が舞っていた。雪国育ちの恭平はそれを見て積もりそうだなと思った。それは彼が幼い頃から目にしているキメ細かな雪だった。すでに路面はうっすらと雪に覆われていた。
 恭平はいつものように猫を抱いたまま二百メートルほど歩いてそこで猫を地面に下ろした。猫はすぐに用を足したが雪が珍しいのか帰りたいとは言わなかった。彼と同様に久しぶりに見る雪に興奮している様子だった。彼は珍しく故郷のことを思った。今頃俺の実家は雪に閉ざされている頃だが、あのクソオヤジと、クソババァは元気だろうかと。再就職が決まったおかげで、心に両親のことを思う余裕が少しだけ出ていた。
 恭平と猫は長い間雪の中を歩いた。寒かったがそうしていたかった。降りしきる雪が外灯と民家の窓から漏れる灯りに反射してキラキラと輝く様子が美しかった。入り組んだドブ臭い路地を雪の晩特有の静寂が包んでいた。
 恭平は何年ぶりかで鼻歌を歌った。それはさっきラジオで聞いたジョン・レノンのクリスマスソングだった。別に何かがあるわけではなかったがしあわせだった。思わず何かを口ずさんでしまうほどにしあわせだった。
 猫は鼻歌を口ずさむ恭平を見ながら冷たい視線を投げかけていた。それを見て彼は思わず苦笑いを浮かべた。彼はいつも音楽の成績が一だったうえに、これ以上はないというくらいに音痴だった。フランクシナトラが吐血して倒れそうなほどに。
 恭平は「また来年もいっしょにチキンを食べて夜の散歩をしような」と優しくつぶやいた。そして猫を抱きあげると部屋にもどって再びささやかなクリスマスパーティーを始めた。彼がクリスマスを愉しいと感じたのはその年が初めてだった。

  〈13〉

 年が明けて新しい一年がやってきた。恭平は二日間だけとった正月休み ― その会社には正月休みがなかった。そのため彼は一月の四日と五日を休日として派遣会社に申請した。元旦に出ても日給は変わらなかった。 ― を猫と一緒に過ごした。バスケットに猫を入れて近所の小さな神社にお参りに行き、のんびりと酒を飲みながら、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んで過ごした。例え日雇い労働者でも人並みに休みは欲しかったのだ。彼が初詣に行くのは何十年ぶりのことだった。
 恭平にしては珍しく洋服屋に行って二枚で三千円の無地の黒いパーカーと、中古で九八〇円のリーバイスのジーンズを買ったりもした。はたから見ればおしゃれでもなんでもなく、ひいき目に見ても普通としかいいようがなかったが洋服をほとんど買ったことのない彼にしては大きな進歩だった。それは一重に黒猫レコードのあの店員の影響だった。彼はあの男が黒いパーカーに色あせたジーンズを履いているのを見てひそかに憧れていたのだった。それがどちらもマニア垂涎のビンテージ物ということも知らずに。男がいつも着ているクリームソーダというブランドの洋服は自分には派手すぎたのでやめておいた。好きなのだが。
 むろん猫にもちょっとしたものを買ってやった。恭平は極度の親バカよろしくペットショップで猫用の服を買った。それは大正時代の書生を思わせるはかまと着物と学生帽がセットになったもので彼の洋服と同じくらいの値段だった。しかし猫がそれを着るのを嫌がったので結局彼は特売の生ハムとスモークサーモンを新年の贈り物とした。猫がそっちの方を喜んだことは言うまでもない。彼はそれを見て人間より猫のほうがしあわせなのかもしれないと思い、ある意味猫は人間よりもよほど優れた精神を持っているという結論に達した。着る物や見栄えに固執して絶えず自分の境遇に不満を持っている人間が不幸に思えたのだ。
 恭平が普段行くことのない初詣に行ったのには理由があった。それはやはり猫のことだった。彼は猫が少しでも長く自分と一緒にいてくれることを祈り、半年後に出るボーナスの時期に一緒にどこかに行けることを祈った。猫の体調は決していいとはいえず相変わらず寝てばかりいた。
 しかし、その願いは叶わなかった。猫の体調は一月の七日を過ぎた頃から急激に悪くなった。散歩に連れて行ってもただ用を足すだけでほとんど動かなくなり、以前にも増してキャットフードを食べなくなった。呼吸が苦しいのか話しかけても鳴かなくなったし、足取りは以前にも増して危なくなった。以前はよく恭平が料理をしていると台所の流しに飛乗ったりしてきたがそんなことはもうなかった。水を飲んでノドに詰まらせることも増えた。
 前にいた職場の事務の女の子が「猫は死ぬ数週間前になると急激に体が衰える」と同僚に話していたことを思い出した恭平は、思いつく限りのことをした。病院に行って注射や点滴を打ってもらい、精がつきそうなものを食事として与えた。うなぎ、肉、刺身、チーズといったものをふんだんに。しかし、それらはほとんど意味がなかった。猫は好物であるにも関わらず食べようとしなかった。かかりつけの医師によるとついに寿命が来たということだったがそれは疑う余地がなかった。今日、明日というわけではないが春まで持たないとうことは明らかだった。
 恭平は仕事の量を減らして多くの時間を猫と一緒に過ごすようになった。日雇いという立場は不安定だが、好きに休みが取れるという点においては有利だった。彼は最低限必要な金を稼ぎ出すと、家庭の事情で仕事に来れなくなったと派遣会社に伝えた。すでに今月の十九日付けで辞めると言ってあったのでそれは楽だった。むろん本当の理由は伏せてだが。彼は働き始めて以来、少しずつだか貯金し続けていたので運よく経済的に余裕があった。むろんたいした額ではなかったが。

  〈14〉

 新しい仕事が始まる二十日までの九日間を猫と恭平はほとんどの時間、部屋で過ごした。一度だけ会社に制服 ― 日雇い社員は私服だったが、正式雇用者には制服があった ― を合わせに行ったことと、二回ほどスーパーに行った以外に彼はどこにも行かなかった。別に何かをしてやれるわけではないがそばにいたかった。残り少ない時間を一秒でも猫といっしょに過ごしたかったのだ。天気のいい温かい日には近所の公園に出かけたりもしたが、ほとんどは部屋だった。年老いた体にバスケットの窮屈さは疲れるようだった。それにバスケットを見ると病院を連想するのか落ち着かなくなるのもかわいそうだった。猫も人間も医者と病院は嫌いなのだ。
 その九日間は単調だった。朝六時に起きて ― 体が早起きすることに慣れてしまったせいで朝寝坊ができなくなっていた ― 本を読んで自慰をするくらいで、後は猫と一緒に昼寝をするくらいだった。しかしその生活は楽しくなかった。どちらかというと憂鬱だった。何をしていても落ち着かず絶えず心の中に黒くて厚い雲が立ち込めているような感じだった。これからまた一人になると思うとつらかった。猫の体が弱っていくのを見ているうちにだんだんと心の準備ができてきてはいたものの、どうあがいても慣れることができなかった。命あるものはいつか死ぬという言葉を自分に言い聞かすなどムリだった。見ず知らずの老人や、遠くの国で勝手に戦争に巻き込まれて死んでいく人間ならそう割り切れるのだろうが家族同然となった自分の愛猫には当てはまらなかった。
 恭平は日々衰えていく猫を見ながら溜息をつくしかなかった。彼にできることはただ祈ることだけだった。他にできることは酒を飲んで現実を忘れることだが、そうする気にはなれなかった。そうしたらまた振り出しに戻るような気がしたのだ。何事にもやる気を抱けずただ自殺のことを考えてばかりいた忌まわしき数ヵ月前の自分に。それは精神的な地獄だった。ひどい匂いを放つ下痢便のようなヘドロが沈殿した底なし沼に無理やり放り込まれたようなものだった。
 いずれにしても恭平が働き始めて以来欲しいと思ってきた休暇は、彼が想像していたほど楽しくはなかった。それはちょうど体の中に、いつはぜるかわからない爆弾を埋め込まれてタイのプーケットに連れて行かれるようなものだった。彼は「いったい神様はどんなつもりなんだろう?」とよく思った。この世に平等などないということはすでに痛いほど知っていたがそう思わざるをえなかった。

  〈15〉

 そうこうしているうちに長くて憂鬱な九日間が終わり初出勤の日がやってきた。その朝彼は契約上の都合でいつもよりも少し遅く出かけた。当分の間、早出はなかった。
 仕事の内容は日雇いの頃とあまり変わらなかったが、事務的な仕事が増える分パソコンを触ったりする機会もあった。その日の午後、恭平は上司にパソコンの使い方を少し習ったが予想していたよりも楽だったので安心した。彼は生まれてこのかた満足にパソコンに触れたことがなかった。
 その日はほぼ時間通りに仕事が終った。恭平は職場の人間に新人らしく挨拶をすると部屋に飛んで帰った。昼休みにも十五分ほど帰っていたが猫のことが気がかりだった。相変わらず具合は悪かった。
 部屋に着いた彼は勢いよくドアを開けた。そして次の瞬間半ば呆れた口調で言った。
「何をやってんだ、おまえは?」
 玄関の前では猫が床に三つ指をついて彼の帰りを待っていた。まるで数百年前の女中が「おかえりなさいませ」と言わんばかりに。猫は短く歪曲した尻尾をけなげにグリグリと振っていた。恭平は昨夜から猫に言っていたことを思い出した。― 今日から俺は正式雇用の身なんだ ―
「おまえは頭がいいな」
 恭平はそう言うと猫を抱いた。かなり疲れていたがその疲れはどこかに吹き飛んでいた。正式雇用はやはり日雇いとちがって精神的にきつかった。慣れないパソコンを触ったせいか目や肩も痛かった。思っていたよりも簡単だったが、疲れることには変わりなかった。
「お出迎えしてくれてありがとうな。モモ」
 靴を脱いで部屋に上がった恭平はさっそく猫の食事を用意した。その日の猫の食事はいつもと代わり映えのしない猫用の缶詰だった。再就職の初日だし本当は何か豪華なものを用意したかったのだがスーパーに寄らずに帰ってきたので冷蔵庫の中はからっぽだった。食事を缶詰に切り替えたのはキャットフードよりも柔らかく食べやすいからだった。彼は少し前に猫の歯がだいぶなくなっていることを発見していた。人間も猫も年を重ねると歯が弱くなるというのは同じようだった。
 猫は丸一日何も食べていなかったにも関わらずあまり食べなかった。三分の一ほどを食べ終えると恭平が用意した水を少しだけ飲んで隣の部屋に行って布団の上に横たわった。相変わらずダルそうだった。
「モモ・・・・」恭平は言った。「もう少し食べなきゃダメじゃないか。食べないと自慢のトラ模様が薄くなるぞ。ただの茶色い猫になるぞ」
 猫は薄目を空けて恭平を見ていた。彼は床に置いていた餌用の皿に手を伸ばすと箸でそれを突き崩し、そこにかつおぶしを混ぜた。味を変えれば食べるかもしれないと思ったのだ。
 隣の部屋に行き猫の鼻先に皿を置くと作業着の後ろポケットに入れていた携帯電話が鳴った。彼は大家からなんじゃないかと思い身をこわばらせた。ついに誰かが猫のことを告げ口したのだと。彼に電話をしてくる人間は大家くらいだった。
 彼はポケットから電話を取り出した。しかしそれは大家ではなかった。レコード屋の男からだった。彼は前回黒猫レコードを訪れた際に携帯番号を交換していた。
「もしもし」
「あー、森本さん?」
「村林君?」
「あけましておめでとうございます」
「あー、どうも」
 恭平は男の声にあまり張りがないことに気づいた。口調はいつも通りだったが落ち込んでいる感じだった。受話器の向こうからは威勢のいい音楽が聞こえていた。
「最近来ないけど元気ですか?」
「僕はそこそこかな」恭平は床に腰を下ろした。「それより村林君は?」
「元気ですよ」
「そうは聞こえないけど」
「ああ。まあ色々とあって」
「彼女とケンカでもしたの?」
「そういうのだったらいいんですけどね」男は溜息混じりに言った。「尚美が死んだんですよ」
「尚美? サイン入りで地図を描いてくれた赤毛の子?」
「そう。その子ですよ」
「まだ若かったのに」
「そうですね・・・・」
 男は恭平に尚美という女の子が病気だったことを話した。男の話によると彼とその友人はもう一度唄いたいという尚美の夢を叶えるべく一緒にバンドをやっていたということだった。その子は元バンドマンだった。
 恭平は何と返していいのかわからなかったので黙っていた。彼は初めて黒猫レコードを訪れた夜に出会ったあの赤毛の女性のことを思った。人ごとながら悲しかった。思えば彼女は自分に優しくしてくれた最初の女性だった。男の声に含まれた悲しみが彼の涙腺を刺激した。自分も近いうちにこの男と似た悲しみを味わうことになるのだなと彼は思った。
「ところで猫はどうですか?」男は話題を変えるかのように言った。「モモは」
「相変わらず具合はよくないかな」
「そうですか・・・・」
「食欲がないんだ。それに最近は以前にもまして寝てばかりいる」
「医者には?」
「行ってるよ。でも、役には立ってない。医者は気休めに目の洗浄と注射をしてくれるだけだよ」
 今度は男が黙った。恭平は自分の声が妙な緊迫感を帯びていることに気づいた。話を聞いてもらえることがうれしかったのだ。彼には話せる人がいなかった。
「そういえば」恭平は言った。「仕事が見つかったんだ」
「おめででとうございます」男は返した。「で、どんな仕事なんですか?」
「仕事自体はこの前と同じだよ。でも日雇いから正式雇用になったんだ」
「やりましたね」
「人手不足だったみたいで」
 恭平は照れながら言った。なんだか無理やり言わせたみたいで恥ずかしかった。人に再就職を祝ってもらうのが初めてということもあったのだが。
「で、給料はいいんですか?」
「それはあまりよくないよ。でもボーナスはあるんだ」
「へー、何ヵ月分ですか?」
「三カ月分だけど」
「いいですね。うちは二ヵ月分ですよ。まあ、でもこんな仕事だから文句も言えないけど。遊んでるようなもんだから」
「勤務中に酒を飲めるんならそれでもいいように思うけど」
「いや、酒代がかかるから飲めない方がいいですよ」
「ボーナスが入ったら猫をどこかに連れて行ってやろうと思ってるんです。例えば温泉とか」
「名案ですね」
「でも、それまで猫が生きていてくれるかどうか。正直、後一月持つかも怪しいし」
 男はしばらく黙った。恭平は言うべきではなかったかなと今さらながら思った。
「森本さんは土日休みなんですか?」
「いや、日曜だけです」
「だったら日曜を利用して行けばいいんじゃないですか?」
「でも、ボーナスはまだ先だし」
「車は?」
「ないですよ。免許はあるけど」
「よかったら貸しましょうか?」

  〈16〉

 それから数日後、恭平は猫をバスケットに入れて黒猫レコードの前に立っていた。日曜日の朝八時とあって通りは静かだったが、辺りには吐瀉物や酒の瓶といった土曜の夜の名残が色濃く残っていた。黒猫レコードの前の通りが一番賑わうのは土曜の夜から日曜の朝にかけてだった。
 恭平はタバコに火をつけると空を見つめた。風は少し冷たかったが頭上には澄み渡った冬の青空が広がっていて気持ちがよかった。絶好のドライブ日よりを絵に描いたような空模様だった。この日、彼は男から車を借りてその車で猫とドライブに出かけることになっていた。
 待ち合わせの時間を十分ほど過ぎた頃に、二台の車がやってきた。一台は黒いカブトムシで、もう一台はトヨタの白いステーションワゴンだった。妙に角ばった古い形のクラウンのステーションワゴンだった。
 それらの車は恭平の前に停まった。朝日に輝くガラス越しに男の顔が見えた。男は恭平に手を振るとヨレヨレになったタバコをくわえながら車から降りてきた。エンジンはかけっぱなしでルームミラーには大きな鉄十字がぶら下がっていた。
「遅れてすいません」男は言った。「飲みに行ったらいつの間にか朝になっていて、まいりましたよ。よお、モモ元気か? 久しぶりだな」
 男は彼が今まで見た中で一番汚い顔をしていた。うっすらと髭が伸びいつもならきれいに決まっているリーゼントヘアは乱れている。まるで博打ですったみたいな風体だった。
 間もなくして後ろに停まったカブトムシからデニムのスカートに黒のロングブーツをはきジップアップ式の黒パーカーを着込んだ女の子が降りてきた。その女の子は背が低く、ぽっちゃりとしていたが美人と言ってもよかった。肩までの黒髪はきれいに手入れされていて、一重の目からは優しさと知性が感じられた。この子が優子かと恭平は思った。中嶋優子。
 その女の子は恭平と目が合うと笑みを浮かべながら会釈をした。恭平はなぜだかフローレンスナイチンゲールが頭を振りながらドラムを叩く姿を想像した。朝の空気に混じって爽やかな香水の香りがした。赤毛の女性と同様にステキな感じのする人だった。
「で、どこに行くか決まったんですか?」男は訊ねた。
「いや」恭平は返した。「でも山の方に行こうと思ってます。海はまだ寒いでしょうから」
「賢い選択ですよ。風邪を引きたいって言うんならそれもありでしょうがね」
 恭平は男の後ろに停まっている車を見つめた。久しく運転していないし本当に運転できるだろうかと今さらながら思った。恭平は夢が現実になりかけたことから何も考えずに車を借りる約束をしてしまっていた。この男もどうかしているが、自分もどうかしているのは明らかだった。きっと量だけが売りの安酒を飲みすぎたのだろう。
「ぶつけてもいいですよ」男は恭平の視線に気づいたのか言った。「すでにボコボコで廃車寸前だから。ああ、でも、もし人を轢いたらちゃんとオマワリに届けてくださいね。こいつが頼んでもないのにタイヤの下に潜り込んで来やがったって」
 女の子が車を回って恭平と男の立っている方に歩いてきた。女の子はしゃがみ込むと恭平が手にしていたバスケットの中を覗き込んだ。陽の光をあびた彼女の髪は黒曜石のように輝いていた。
「かわいい猫ですね」
「どうも」
「ずいぶんとおとなしい猫なんですね。さっきから全然鳴かない」
「もうおじいちゃんですから。人間の年にすると九十くらいなんです」
「かわいいな。モモじいちゃんは」
 恭平は自分がそう言われているような感覚を覚えた。女性に慣れていない彼はドキドキしていた。鼻毛が出ていないだろうか? ちゃんと歯は磨けているだろうか? と彼は思った。女の子は何やら猫に話しかけていた。彼はその姿を見て、この女の子が動物と人間を同じ仲間と考えていることに気づいた。なぜ、毒気の塊のようなこの男と天使のように朗らかな感じのこの女の子が恋仲なのだろうと彼は考えたが、すぐにこの男の根底に優しさがあるからだという結論に行き着いた。悪いのは口と素行だけだ。
 男は大きなあくびをすると三日月型の腕時計に目をやった。
「もうすぐ九時だ。森本さんはそろそろ行った方がいい。あんまり遅くなると道が混む。日曜日は世界中の労働者が仮釈放される日だから」
「ああ、そうだね」
「ところでどこに何がついてるかとかはわかりますか?」
 恭平はかぶりを振った。それを見た女の子は男に言った。
「普通わからないわよ」
「そりゃそうだわな」
 男はそう言って笑うと助手席側のドアを開けた。そしてシートに浅く腰を下ろすとどこにハザードがついているかや、どのようにエアコンを使うかといったことをざっと説明した。窓は今時にしては珍しい手動式だったがマニュアル車ではなかった。
 恭平はそれを聞き終えると運転席に乗り込み、助手席にバスケットを置いた。灰皿は吸殻で山盛りで、床にはビールの空き缶やワインのボトルが落ちていた。恭平は男があの世にいないことを不思議に思った。この男が生きていられるのはルームミラーにぶらさがっている十字架の御加護だろうか?
「じゃあ、気をつけて」男はドアを開けると顔を突っ込んだ。
「はい」
「何かあったら携帯に電話してください。多分走っている最中に壊れるようなことはないから。たまにエンストするけど」
「はい」
「じゃあ、よい旅を」
 男はドアを閉めた。それと同時に胸が高鳴るのを恭平は感じた。これから一人旅に出るのかと思うと少しドキドキしたのだ。傍らにいた猫が「まあ、落ち着いて」と言わんばかりに鳴いた。
 ブレーキを踏みながらシフトをPからDに入れると車が少し前に動いた。恭平は笑顔で手を振る男と女の子に手を振り返すと慎重に走り始めた。カーステレオから流れる不思議な女性グループの音楽とともに。そのグループは『アフロガール・ゴー・ア・ゴー』と歌っていた。

  〈17〉

 運転にはすぐに慣れた。その車は見た目よりも大きさを感じさせずどちらかと言うと運転しやすかった。少なくとも昔、仕事でイヤイヤ乗らされたマニュアル車のハイエースよりはずっと楽だったし楽しかった。彼は途中でカセットテープをオールディーズに変えていた。それはその時の彼の心境にピッタリと合っていた。
 恭平は寒いにも関わらず窓から腕を出して比較的ゆったりとした国道を東に走った。目的はなかったがその方角に行けばどこかに行き着くような感じがした。会社にあった地図を見る限り山はその方角だった。どこか山沿いの公園に行って日の光を浴びながら猫と昼寝をしたいと思っていたのだ。
 猫は慣れない車に最初こそ鳴いていたが、今ではすっかりおとなしくしていた。恭平は信号で停まる度にバスケットを抱えて猫に外の様子を見せた。道は運よく空いていた。
「見てみなよモモ。あのねぇちゃんすごく短いスカートをはいてるぜ。あのねぇちゃんはきっと性病持ちの娼婦だ」
 恭平は自分がいっぱしの男になったような感覚を覚えていた。自分が年代物のイカした車を操っているということが楽しかった。ダッシュボードに貼られたクリームソーダのステッカー ― そのステッカーはトランクにも貼ってあった ― とルームミラーからぶら下がる大きな鉄十字と車内に染み付いた整髪料の香りが不良っぽかった。彼は自分が向かうところ敵なしと言わんばかりの態度を身につけたあの男になったような感覚を覚えた。
 四十分も走ると視界からビルが消えその代わりに大きな民家や田んぼが見えてきた。恭平はのどかな風景に気をよくしながらさらに一時間ほど走った。すると今度は左手に海沿いの町にありがちな潮風にさらされて色あせた屋根が固まっている集落が見えてきた。目をこらすとはるか彼方に海原が見えた。ちょうど大きな坂を上りきったところだった。
 あれ?
 恭平は自分がどこかで道をまちがえたことに気づいた。その国道はどこかで枝分かれしていてまっすぐ進むと海沿いの町に出るのだった。猫に気をとられているうちに曲がるところをまちがえたのだ。
「クソッ、なんてこったい」
 恭平は思わず舌打ちをした。しかし彼はそれをよしとしてそのまま走り続けた。そしてしばらく走ると国道をそれて海に続いていそうな道に入った。もともと計画があったわけではなかったのでそれも悪くなかった。文字通りの気ままな旅だった。
 しばらく走ると海岸沿いに出た。防波堤沿いにそのまま走ると左手に大きな倉庫のような建物が見えてきた。そこには魚の名前の書かれた鮮やかなのぼりがいくつも立てられていた。観光客相手の魚市場か何かのようだった。
 恭平はハンドルを切って建物の前の大きな駐車場に車を止めた。そして猫に「少し待っててくれよ」と言うと建物の中に向かって歩き始めた。何か食べるものを仕入れたかったしトイレにも行きたかった。そろそろ昼食の時間だった。猫の餌は持ってきていたが自分の物はコンビニエンスストアーかスーパーで手にいれるつもりだったので何も持ってきていなかった。この手の場所には焼いた魚介類などが安価で売られているはずだと彼は思った。
 恭平は建物の外にあったトイレで用を足すと中に入って行った。その中は団体旅行できたと思しき老人たちでにぎわっていた。みな魚の干物やタコの干物を狂ったように買い求めていた。
 恭平はいけすのたくさん設けられた生臭い建物の中を歩き回り、マグロの切り身や牡蠣を焼いたものなどを手に入れると車に戻った。そして猫に「お待たせ」と言うとレジにいた前歯の欠けたパンチパーマのおばさんに聞いた公園に向かって走り始めた。彼は甘エビを買った際にどこかこのあたりにいい公園はないかと聞いていた。そのおばさんによるともう少し先に行った所に小さいが雰囲気のいい公園があるということだった。
 防波堤沿いにまっすぐ進むと左手に『海の見える公園』という薄汚れた小さな看板が見えてきた。恭平はハンドルを左に切って三台ほどあった駐車場の真中に車を停めた。そこはとても小さな公園で潮風にさらされて錆びたブランコとどこかの遺跡から発掘されたかのような簡易トイレしかなかったが確かに雰囲気はよかった。この辺りの地理にあかるくなければ素通りしてしまうような公園だったが、名前の通り海を見ることができた。
 恭平はドアを開けて外に出ると助手席に回った。そして猫の入ったバスケットを掴むとその中から猫を出して首にリードをした。何時間ぶりかに外に出た猫は自分がどこにいるのかわからず辺りを見渡していた。潮の香りに鼻をクンクンさせている。
「まずはトイレだな」恭平は言った。「それから食事にしようか。もらしたら大変だからな」
 恭平は猫を抱えると公園の奥にあったコンクリート製の階段を下って海岸に行き、猫を砂浜に下ろした。猫は砂の感触が気に入らないらしくさかんに足を振っていたが、海には興味があるようだった。近づこうとはしなかったが。おそらく猫は犬とちがって泳げない動物なのだろう。飼い主だか恋人だかに会うために海を泳いで渡ったという犬の話は聞いたことがあるが、猫がそうしたという話は聞いたことがない。
 恭平と猫は十分ほど砂浜を歩いた。その間、彼は持参していた使い捨てカメラで七枚ほど猫の写真をとった。風がやや強く冷たかったが気持ちはよかった。やわらかな日差しと荒涼とした感じが美しかった。それにおバカなカップルやうるさい子供がいないこともよかった。海岸は貸切り状態で聞こえるのは打ち寄せる波の音と車が公園の前を通り過ぎていく音だけだった。まるで時間が止まっているかのようだった。
 恭平は砂浜に打ち上げられた干からびた海草の塊や流木に小便をかける猫を見ながらしあわせな気分だった。猫はいつもよりも少しだけ元気があるように思えたし、遠出を楽しんでいるようにも思えた。おそらく初めて見るであろう海を。恭平は男が車を貸してくれたことと道をまちがえたことを神に感謝した。
 猫が用を足し終えると車に戻った。恭平はトランクを空けるとそこに腰をかけて食事の準備を始めた。できることなら海を見ながら外で食べたかったが、そうするには少し風が強すぎたし寒かった。彼は散歩中ずっとパーカーのポケットに手を突っ込んでいたがその指先は凍ったバナナのようなありさまになっていた。
 紙袋から餌用の皿と水を入れる茶碗を取り出した。彼は茶碗に持参してきていた水 ―普通の水道水を一度沸騰させたもの ― を注いだ。猫はノドが乾いていたのか忙しそうにそれを飲んだ。恭平はいつものように猫が水をノドにつまらせないことを祈りながらそれを見つめた。
 猫が無事に水を飲み終えると食事を皿に盛った。持参した缶詰ではなくさっき買った刺身や牡蠣を焼いたものだった。せっかく海に来たのだからこういうものの方がいいと思ったのだ。缶詰はどこででも食べられるし、いざとなったら部屋に持って帰ればいいのだから。猫は珍しくおいしそうにそれを食べた。食欲もあるようだった。恭平は試しに刺身を一口食べてみたがそれは本当においしかった。こよなく愛する近所のスーパーの魚売り場がペテン師に思えるほどだった。
「どうだ? うまいか? もっと食っていいぞ。俺の分もやるよ。ほら」
 彼は自分用の刺身のほとんどを猫にあげた。そのため食事は牡蠣を焼いたものだけとなった。しかし、それは猫に食欲があることに比べればたいしたことではなかった。それは生きようとしている証拠だった。
 食事を終えると車の中でボンヤリとした。恭平は運転席を倒して横になりながら空を見つめ、猫は助手席で丸くなった。外は寒かったが車の中は温かくて気持ちがよかった。澄み渡った青空と定期的に聞こえる波の音がなんとものどかで眠気を誘った。悩みや苦悩とは無縁な世界だった。
 猫はすぐにイビキをかき始めた。恭平は猫を見つめているうちにまどろみ始めた。これで眠るなという方が無理だった。例えコーヒーを二十杯飲んでもそれは無理だった。何かを考えるようなことはしなかった。
 目が覚めると外はだいぶ暗くなっていた。恭平は再び車を出て猫を砂浜で散歩させるとバスケットに入れた。散歩をさせたのは途中で道に迷っても大丈夫なようにだった。彼はどうやってここに辿り着いたのかをすでに忘れていた。来ようとして来たのではなく、結果的に辿り着いたので仕方のないことだが。むろん地図などという気の利いたものはなかった。
 恭平は記憶を頼りに日の落ちた通りを進んだ。二回ほど曲がる場所をまちがえたものの三十分後には無事に朝通った大きな国道にもどることができた。道は相変わらず空いていたので思ったよりも早く着けそうだった。約束通り男が仕事を終えて帰るまでに車を返せそうだった。恭平は町に戻ったらガソリンを満タンにしてどこかでお礼にスコッチを一瓶買おうと思った。特産物にしようかとも考えたが、あの男がタコの干物や干したイカでできたとっくりをもらって喜ぶとは思えなかった。
 帰りの車内は騒々しかった。猫は行きとちがってさかんに鳴いた。それはまるでもう少しここにいたいといわんばかりだった。猫はこれから帰るということを知っているようだった。楽しかった一日がもうすぐ終るということを。猫は車での旅をことのほか気に入ったようだった。
 恭平は助手席のバスケットを撫でながら名残惜しそうに鳴く猫に向かってまた来ような、とつぶやいた。もう少し温かくなったら必ず来ようと。そしてその時は必ず市場で目にした伊勢えびの刺身を食べようと。猫はそれを理解したのか鳴きやんだ。そして間もなくして寝息を立て始めた。ステレオが消してあったお陰でそれはよく聞こえた。車内は静かで聞こえるのはエンジン音と猫のいびきだけだった。
 恭平はひょっとしたらもう二度と来れないかもしれないと一瞬考えたがすぐにそれを打ち消した。その考えはこんな素敵な休日にはふさわしくなかった。はたから見ればたいしたことのない寂しい一日かもしれないが、彼にとっては何ものにもかえがたい完璧な一日だった。彼は時おり助手席のバスケットを見つめながら明日からまた頑張らなければなと思った。またこうして猫と小さな旅行に来るためにも。

  〈18〉

 あの小旅行から二カ月が過ぎた。恭平は相変わらず倉庫で働きながら猫と暮らしていた。仕事にもようやく慣れ、今ではパソコンも使うことができるようになっていた。時おりちょっとしたミスなどはしたものの相変わらず職場での評価もよかった。
 上司は「もう一人の高卒をとらずに君をとって正解だった」とよく言ったがそれはまちがいではなかった。恭平は事実よく働いた。猫を病院に連れていく必要がない時はちゃんと残業もしたし、早出をすることもよくあった。仕事は楽ではなかったが恭平はそれがうれしかった。
 生活に大きな変化はなかった。しかし女の子と話せるようになったことは大きな変化だった。恭平は職場にいるアルバイトの地味な女の子と時おり話すようになっていた。その子は大の猫好きで猫を二匹飼っていた。話すことは「猫の調子はどう?」とか「餌を変えたら食いつきがよくなった」という他愛もないものだったが、今まで緊張して女性と満足に話すことのできなかった恭平にとっては大きな進歩だった。その子はマンガ家を目指していたが恭平にはあまり興味がなかった。彼はその女の子の見た目から多分やおいものを描いているのだろうとふんでいた。義理で作品を見せてくれと言ったが、一向に見せてくれないところを見るとそのようだった。
 猫の調子は変わらずといった感じだった。病状は悪化することもなく一進一退といったところだった。寝てばかりいることとあまり食欲がないところはいつも同じだったが体調には波があった。比較的元気かと思えば翌日はひどくダルそうだったりもした。ちょうど人間の老人のように・・・・いずれにしても死の影は確実に迫っていた。それは散歩に行った時や猫が彼の問いに返事をした時などに感じることができた。鳴き声に以前ほどの張りはなかったし、目にも毛並みにもそれは表れていた。
 だからといって落ち込むようなことはもうなかった。恭平の中ではある種の覚悟ができつつあった。猫が近いうちに死ぬというのは悲しいことだがいつしかその現実を受け止められるようになっていたのだ。彼は猫と時間を過ごしているうちに何かを学んでいた。そして自分が何をすべきかもわかっていた。それは猫が与えてくれたチャンスを生かすことと残り少ない猫との時間を楽しく過ごすことだった。猫との出会いはある種の運命だと彼は考えていた。今の自分があるのはまちがいなく猫のお陰であると。もし猫と出会っていなければ彼はまちがいなくこの世にいなかった。猫が狂っていた人生を修正してくれたのだ。
 恭平は毎晩、仕事を終えるとスーパーに立ち寄って生ハムやチーズや鶏肉のささみといった高価な食材を買った。むろんそれは彼の夕食としてではなく猫の食事としてだった。どうせ長くないなら好きなものをたくさん食べさせてあげたかったのだ。それは彼にできる最大の恩返しだった。医師からは人間の老人よろしく食生活に気をつけるように言われていたがもうそれを聞く気にはならなかった。例え聞いても結末は変わらないのだから。おかげで食費が高くついたがそれはそれでよかった。猫が喜んでくれるなら惜しくもなかった。金はまた稼げるが、猫の命には限りがあるのだから。彼はその後も二度ほど海に行き ― 一度はレコード屋の店員から借りた車で行き、二度目はレンタカーで行った ― 伊勢えびや鯛の刺身を猫と一緒に食べた。残された時間を満喫すべく。

  〈19〉

 それからさらに一月が過ぎたある晩、いつものように一時間半の残業を終えた恭平はスーパーに立ち寄って猫の好物とシャンパンを一本買った。その日の食事はいつもよりも豪勢で、クリスマスの日に食べたのと同じ鶏の丸焼きだった。
 スーパーを出た恭平は雪道を早足でアパートへと向かった。その日は朝から夕方まで雪が降っていたが今は止んでキレイな月が出ていた。とても美しい夜で、外灯と月明かりに輝く通りはひどく静かだった。息を吸い込むたびに鼻腔をくすぐる冷たい雪の香りがとてもすがすがしく何もかもが輝いているようだった。その日は彼にとって特別な日だった。
 恭平は人通りのない通りを歩きながら思った。明日から俺は本当の意味での正社員なのだなと。これで俺は本当にボーナスをもらえる人間になるのだなと。この日の午後、彼は上司に呼び出され明日から正式雇用になるという旨を君には期待しているという言葉とともに伝えられていた。それはわかっていたことだがうれしかった。彼は晴れて安定を手に入れたのだ。むろん大金持ちや世にいう中流の暮らしとはちがうが安定にちがいはない。
 間もなくして部屋に着いた。恭平は鍵を開けるとドアノブに手をかけながら、百円ショップに立ち寄って紙の帽子とクラッカーも買ってこればよかったかなと思った。その方がパーティーっぽくなるのにと。彼は猫が水玉模様の帽子をかぶっている姿を想像してほほ笑んだ。かわいらしいことこのうえなかった。
「ただいまー!」恭平はドアを開けると言った。「今帰ったぞ」
 いつものことながら返事はなかった。恭平はまた寝ているのだなと思いながら雪で濡れた靴を脱いで玄関を上がった。アパートの中はレストランの大型冷蔵庫並みに寒かったが、昼休みに帰った際に電気をつけておいたので明るかった。彼は暗い中で留守番をさせるのがかわいそうだからといつもそうしていた。おかげで電気代がひどいことになっていたことは言うまでもない。
 台所にあがると布団の上に猫が横たわっているのが見えた。恭平はビニール袋を提げたままで隣の部屋に歩いて行った。ぬかるみを歩いたせいで靴下が濡れていたが気にはしなかった。彼は氷のように冷えた床と足の平が触れるのを避けるためにバレリーナよろしく爪先立ちで歩いていった。
「今帰ったぞ」恭平は上機嫌で言った。「今夜はお祝いだ。モモの好きなチキンだぞ。クリスマスに食べたやつだぞ」
 返事はなかった。猫は壁に顔を向けたままで寝ていた。恭平は買い物袋を床に置くと汚れた作業着を脱ごうとジッパーに手を伸ばした。と、その瞬間猫の口から赤い舌がだらりと出ていることに気づいた。厭な予感が胸をよぎった。まるで暗雲の塊のようなものが。
「おい!」
 恭平は気のちがった女のように叫んだ。彼は全身から血の気が引いていくのを感じながら床にひざまずいて猫の上に覆いかぶさった。あまりに激しく床にヒザをついたので五キロの鉄アレイを床に落としたような鈍い音が部屋中に響いた。死という文字がデカデカと脳裏に浮かんだ。一人ぼっちという文字とともに。
「じょうだんじゃないぞ! チクショウ! ウソだろ! ウソだろ!」
 その声は悲鳴であり祈りだった。恭平はほとんど半狂乱で猫の腹を触った。なぜ腹を触ったのかは自分でもわからなかった。彼の声は動揺のあまりところどころ裏返っていた。体中が異常な発熱で熱く、ねっとりとした汗が毛穴から噴き出すのがわかった。
「モモ! 今帰ったぞ! モモ! モモ!」
 彼の指先にゾッとするような冷たさが広がった。猫の体は部屋の気温と同じくらいに冷たかった。彼は反射的に猫を抱きあげると必死に揺すった。まるでそうすれば生き返るとばかりに激しく揺すった。しかし体はすでに硬直していて石膏で固められたかのようになっていた。カタカナのヒの字のような形に。うっすらと空けられた目が蛍光灯のわざとらしい光に寒々しく反射していたがそれはもう生のあるものの輝きではなかった。
「モモ・・・・」
 彼はそう洩らすとぺたりとその場に座り込んだ。全身から力が抜けていくような感じで立つことができなかった。頭の中が真白で目まいがしそうだった。まるで極度の貧血に見舞われたかのように真っ暗な視界の中で紅い光が点滅を繰り返した。
 なんてことだ・・・・
 なんてことだ・・・・・
 なんてことだ!
 彼はそれを言葉にして発しようとしたができなかった。さっきまで普通に話せていたというのにいつしか喉は二千日の干ばつにあったかのように干からびてしまっていた。体中の水分が背中を流れる脂汗とも冷や汗ともとれないものと共に流れ出てしまったようだった。自分の体を支えていた脊椎と一緒に。
 恭平は猫を抱いたままでしばらくその場に座り込んでいた。冷えきった部屋の中、時間だけがただ過ぎていった。まるで脳ミソを丸ごとスプーンでえぐり取られたような気分でどうすることもできなかった。彼は白痴よろしく口を開けていたが自分ではそれに気づいていなかった。感じるのは極度の静寂による吐き気と重油のような倦怠感だけだった。実際には部屋の外を行き来する車の音や隣の部屋から漏れるテレビの音が聞こえていたが彼の耳には入っていなかった。そんなものはヘロイン患者のまくし立てるタワゴトといっしょでただ勝手に鳴っているだけだった。彼にとって世界にいるのは自分だけで、そこはまさに『からっぽの世界』だった。
「何でいきなり死ぬんだよ・・・・こんな日に・・・・よりによってこんな日に・・・・」
 しばらくして恭平はつぶやいた。その声は、はたから聞けばただのうなり声だったが確かに彼はそうつぶやいた。その時ふとある考えが浮かんだ。彼は背筋に電流が流れたかのような感覚を覚えて思わず両目を見開いた。こいつは、俺が正社員になる日を待っていたんだと彼は直感的に思った。だからこそ苦しくてもそれを表に出さなかったのだと。モモは、もし俺が具合が悪いと判断したら仕事を休むことを知っていた。そしてそうすれば正式雇用の話は切られることになる・・・・
 根拠はなかったが、恭平にはそう思えた。それはいかにもモモがしそうなことだった。よくできた猫を絵に描いたようなモモが。偶然とは思えなかった。
 だがそれは決していい考えではなかった。恭平はそのせいで胸の奥を暖かく締め付けられるのを感じた。内臓を吐き出してしまうほどにきつく。その優しさは殺傷力の高い凶器となってすぐに彼を襲ってきた。熱湯と冷水の入り混じった濁流に飲み込まれたような気分だった。彼はそれにドップリと浸かった。
 恭平はたまらず頬を猫に押し付けた。二秒もしないうちに涙が溢れてきた。身震いするほど冷たく冷えた猫の体が余計に彼を悲しませた。自分の愛する猫が誰もいないこの部屋で一人息絶えたのかと思うとかわいそうでしかたがなかった。老衰で痩せ細った体の軽さがさらに拍車をかけた。彼は固く猫を抱きしめると泣き始めた。
 涙が滝のように溢れてきた。嗚咽はどんどん大きくなっていった。止めようにも止めることができなかった。恭平はこの数ヵ月の間にできた掛け替えもない思い出と、胸に残る猫の愛くるしい姿に徹底的に打ち負かされた。できていたはずの心の準備はそれほど役には立たなかった。ボール紙でできた盾で弾丸から身を守るようなものだった。
 恭平はひたすら泣き続けた。彼は涙がもう出なくなるまでそうしていた。正確にどれくらいそうしていたのかはわからないが少なくとも三十分以上はそうしていた。また一人ぼっちだと思うと憂鬱だったが気分は徐々にマシなものへとなっていった。思いっきり泣いたせいで気分がよくなったのだ。彼は目の辺りを汚れた手で拭うと深々と溜息をついた。
 恭平は、はいていた作業ズボンのポケットをまさぐってヨレヨレになった安タバコを取り出すと火をつけ、壁にもたれた。そしてそばにあったビールの空き缶をたぐりよせて灰を落とすと明日からのことを考えた。今までは猫の健康のことを考えて外に出て吸っていたがもう気にする必要はなかった。いくら吸っても猫が健康を害すことなどないのだから。そう思うとまた目に涙がにじみそうになった。気分は重かったが数ヵ月前のように自殺のことなどは考えなかった。逆に今まで通りに楽しく生きてやろうとすら思った。またあの頃にもどることはモモが授けてくれた新しい生に唾を吐きかけるようなものだった。モモだってそれを望まないのだから。それに考えてみれば彼はまるっきりの一人ぼっちではなかったし、やるべきこともあった。レコード屋の店員という友人もいるし、つい先日、定時制高校の申し込みをしたばかりだった。全てはモモが変えてくれたのだ。神に代わって・・・・
 恭平は再び腕の中の猫を見つめた。彼は右手で猫の額を優しく撫でた。猫は生前そうされるのが好きで、彼にそうされるといつも喉を鳴らした。彼はふと、いつかの晩に猫がトイレ以外の場所で小便をしていたことを思い出してほほ笑んだ。「コラ!」と言って猫を掴むと猫はかまってもらえるのだと思って目を細め喉を鳴らし始めたのだ。怒ることなどできるはずがなかった。
「いろいろありがとうな」恭平は猫の耳元に口をよせると優しく言った。「何十年後かにまた合おうな」
 恭平は猫を布団に寝かせると涙を拭いた。布団には息絶えた際に出たと思われる小便の染みができていたがそんなことはどうでもよかった。かなり臭いがそれも思い出だった。それよりも猫を弔うための道具を何点か買いに行かなければなと彼は思っていた。線香や香炉などを買わなければと。猫の亡骸を入れるためのダンボール箱も必要だった。今夜は一緒に眠って明日の晩、この近くの寺に連れて行こう。明日は残業もないはずだし。
 ふと昔、祖母が死んだ時のことを思い出して台所に行った。そしてふちの欠けた茶碗に水を入れて持ってくると指をそこに浸して猫の口にそれをつけた。彼はまたしばらく猫を見つめた。周りには彼が買い与えた猫用のおもちゃがバカみたいに散乱していた。それらは愛猫の死とともに色を失ってしまったように思えた。
「すぐにもどるから、いい子でお留守番しててくれよ」
 恭平は立ち上がると玄関に行って濡れた靴をはいた。本当なら涙が完全に乾いてから行きたかったがそうも言っていられなかった。スーパーの閉店時間が迫っていた。目覚まし時計に目をやるともうだいぶいい時間だった。
 足の平に冷たさを感じながら部屋を出た。通りに出るとキレイな満月が路面を覆う雪を銀色に輝かせていた。ふと顔を上げると空は汚れを知らぬ少女の瞳のようにどこまでも澄み渡っていた。雲はなく無数の星が瞬いていた。恭平にとってはなつかしい雪の匂いと静寂が辺りを包み込んでいた。美しい夜だった。
 恭平は立ち止まるとじっと月を見つめた。彼はふと幼い頃に祖母から聞いた命あるものは死ぬと全て月に行くという話を思い出した。馬鹿げた話しだがそうであって欲しかった。猫が空から自分の姿を見ていて欲しかった。いつものように面倒くさそうに体を半分起した状態で。彼はしばらくの間、月にいる猫が自分を心配そうに見ている姿を想像した。彼の大好きなその姿勢でときおり大きなあくびをしている姿を。
 恭平は再び涙を拭くとできるだけニッコリと笑った。そして心の中で俺のことは心配しなくてもいいからなとつぶやくと優しく降りそそぐ月明かりの元を再び歩き始めた。

                      完       

09年9月1日

小説「冷たい初恋」

  〈11〉

 職場での恭平の評価は高かった。彼はどれだけ熱があっても仕事を休まず、他の日雇い社員の誰よりもまともに仕事に取り組んでいたので、派遣先の従業員からは重宝がられていた。そしてこのところでは他の派遣社員にはまずやらせないような仕事を任せられるまでになっていた。派遣先の恭平と似たような境遇 ― その男も中学しか出ていなかった ― の上司から気に入られていたのである。その男は仕事に厳しくことあるごとに「学歴なんて意味がない」と大卒の連中に言い回っていたが、恭平には優しかった。他の従業員の話によるとその男が部下を気にかけるのは極めてまれなことのようだった。それが恭平の仕事に対する態度からなのか、それとも同じ境遇ゆえに親近感が湧いたからなのかはわからないが、いずれにしても彼は職場でいい立場にあった。
 クリスマスの夜、いつものように仕事を終えた彼はその上司に一緒に来るよう言われた。彼はそつなく仕事をこなしていたので呼ばれた意味がよく分からなかった。
 二人が向かったのは昼食をとったり休憩をとったりするための食堂だった。恭平がイスに腰をかけると上司はタバコに火をつけた。恭平は自分が解雇されるのではないかと思って少々ドキドキした。彼は今までに何度も何の前触れもなく解雇され続けてきた。
「森本君」上司は言った。「君は将来のことをどう考えてるんだ?」
「はい?」
「君は今いくつだ?」
「三十四ですが」
「いい年だな」
 上司は働者特有の荒くれた手で短く刈り込んだ白髪頭をなでると立ち上がって部屋の隅の自販機へと歩いて行った。そこには四流メーカーの飲み物ばかりを売る自販機が二台ほどあった。値段は通りで目にする自販機よりもいくらか安かった。
「何か飲むか?」
「いや、結構です」
「コーヒーはどうだ?」
「ああ、じゃあ、いただきます」
 上司は缶コーヒーを二本買うと席にもどった。そしてそのうちの一本を恭平に差し出すと詮を空けて一口あおった。その上司はどういうわけだか右手の人差し指がなかった。恭平はいつものように「若い頃はどういう仕事についていたのだろう?」と思った。見た目どおり ― その上司は背こそ低いが強面でがっちりとした体格をしていた ― チンピラか何かだろうか?
「これから結婚を考えたり親の面倒を見たりしなきゃいけない年だな」
「はあ」
「時給で働くのは幸せか?」
「いえ」
「派遣はバカらしいからな」上司は言った。「いくら頑張ってもおまえさんの手元にはあまり入らない」
「二割はとられてますからね」
「正確に言えばもっとだけどな。知ってるだろうけどおまえさんの勤めてる会社は相当な食わせものだ」
 恭平は黙っていた。今にも上司が「明日から来なくていい」と言い出しそうな気がしてドキドキしていた。でも、その手のことをこの上司が言ってくるのはおかしな話だった。その手のことは毎日、朝と夕にここに来る派遣会社の社員が言ってくるべきことだった。ジャガイモに手足が生えたような体型をしたいけ好かないあの男が。
「森本君」
「はい」
「今の仕事を辞める気はないか?」
「クビですか?」
「ちがう。そんなアコギな会社は辞めて直接うちで働かないかと言ってるんだ。つまりうちの社員にならないか、とな」
「ええっ!」
 恭平は思わず叫んだ。上司の言ったことが信じられなかった。上司は恭平の驚きようを見て笑みを浮かべた。
「前から俺は君に目をつけていたんだ」上司は言った。「君はよく働いてくれる。そこで俺は先日、君を正社員にしたいと人事にとりあったんだ。その結果そうしてもいいという返事が来た。今朝のことだが」
 恭平は呆然としながら上司を見つめていた。上司はタバコを灰皿に押し付けると缶コーヒーをすすった。恭平は世界中から音が消えたような感覚を覚えていた。
「他のヤツには内緒だぞ」上司は言った。「正直こういうことはしちゃいけないんだ。まあ、それを言ったらオタクの会社がしてることもしてはならないことなんだがな。で、どうだ? 受けてくれるか?」
「受けます!」恭平は言った。「是非お願いします。是非、御社の社員になります!」
「おいおい、条件は聞かなくていいのか?」
「だいじょうぶです。なんでもやりますんで!」
「それはうなずけるな。君ほどクソ真面目なヤツはそうそういない。正直俺は何で君が今までずっと会社をクビにされ続けてきたのかがわからない」上司はそう言うと新しいタバコに火をつけた。「まあ、でも一応言っておこう。うちの会社はそれほど待遇のいい会社じゃない。知っての通り重労働だが基本給は十六万円と高くない。ボーナスは年に二回で三カ月分だ。むろん残業もあるし、休日も完全週休二日ではない。一応昇給もあるがそれほど期待はできない。あと一応夏季休暇と冬季休暇もあるけど他の企業と比べたら短い」
「十分に好待遇ですよ!」
 恭平はうれしさのあまり再び叫んだ。その条件は彼が今までついてきた仕事の中ではかなりいいものだった。少なくとも賞与とボーナスがあるという点においては。彼は今までボーナスというものをもらったことがなかった。しかし一番うれしかったのは正社員になれるということだった。何のとりえもなければ何の資格もない三十四歳の自分が・・・・彼は頭の中で猫と自分が休暇とボーナスを利用してどこかの温泉にいる姿を想像してさらに興奮した。このところ彼は猫とどこかに行きたいとさかんに考えていた。
「ところでそれはいつからですか?」恭平は言った。「春からですか?」
「一月二十日からだ」上司は返した。「少し急だがだいじょうぶか? 人手が足りないものでな」
「もちろんです!」
「そうか。じゃあ書類は後日渡すよ」
「はい」
 上司は缶コーヒーを飲み干すと立ち上がった。そして「引き止めて悪かったな」と言うとドアの方へと歩いて行った。恭平は空き缶を入り口脇のゴミ箱に捨てた上司がポケットに手を突っ込んで出て行く姿を喜びに震えながら見つめた。

  〈12〉

 職場を出た恭平は夢見心地で通りを歩いていった。さっき上司に言われたことが信じられなかった。もう自殺する以外に方法がないと思っていた自分が安定した職につき、おまけに少しの贅沢なら許される立場の人間になれるなど夢のような話だった。彼の心の中はまさにバラ色だった。
 歩いているうちに商店街にさしかかった。恭平は今日がクリスマスだということを思い出して馴染みのスーパーに立ち寄り、店内中央に設けられたクリスマス用の食材を売るコーナーでケーキとシャンパン、それに幼い頃から一度食べてみたいと思っていたチキンを丸々一羽焼いたものを買った。値段は少し張ったが、それは自分への再就職祝いを兼ねた猫へのクリスマスプレゼントということにしておいた。チキンは猫の好物だった。
 店を出た恭平は早足で部屋に向った。部屋についた彼はドアを開けるといつもより大きな声で「ただいま」と言い、数日前に特価で買ったバンズの ― 前に履いていた安物の運動靴は踵が剥がれてしまったため捨てた。接着剤ではもう直らなかったのだ ― 運動靴を脱いで玄関を上がった。彼は敷きっぱなしになっていた布団の上で寝ている猫の元にかけよると、四つんばいになった。
「モモ! 今帰ったぞ!」
 猫は首をひねって恭平を見やった。食べ物の匂いがするのか鼻をクンクンさせている。このところ猫は耳が遠くなったのか恭平が近寄っても気づかないことが多かった。
「今日はお祝いだ」恭平は言った。「俺の再就職祝いとクリスマスの祝いを兼ねておまえの好きなチキンを買ってきたんだ。この間買ってきたみたいな特売品じゃないぞ。丸々一羽だぞ。見たことがあるか? なあ俺は来月から正式雇用されることになったんだ。すごいだろ」
 猫は起き上がると傍らに置かれていた袋に頭を突っ込んだ。恭平は一瞬「こら!」と言いかけたがかわいかったのでそれをやめ、床に転がっていた使い捨てカメラでその様子を写した。このところ彼は週に一回の割合で写真を現像に出していた。撮るのはほとんどが部屋でだったが、散歩に行った時に撮ることもあった。
「腹が減ってるんだな」恭平は言った。「じゃあ、まずは食事にするか。お話は後にして」
 猫が鳴いた。まるで「そいつは名案だな」といわんばかりに。
「待ってろよ。今すぐに準備してやるからな」
 恭平は袋を掴んで台所に行くとチキンを切り分け、慎重にシャンパンを開けた。そしてイチゴの乗ったショートケーキを皿に盛ると隣の部屋に行き、近所のリサイクルショップで安く手に入れた小さな古いラジオをつけた。彼は偶然流れていたジョン・レノンの「クリスマスソング」を聴きながら不慣れな感じで指を鳴らした。いい気分だった。
 翌日は週に一度の休みだった。そんなわけで恭平は猫と一緒にゆっくりと食事をした。欠けたマグカップでシャンパンを飲み、タバコを吸い、ケーキを食べ、甘い音楽に耳を傾けた。チキンは味付けも焼き具合も完璧でとてもおいしく、シャンパンも申し分がなかった。猫も喜んでいた。
「ボーナスが入ったら」恭平は言った。「いっしょにどこかに行こうか。温泉とか。おまえは風呂が好きだし最近じゃ、ペットの持ち込みを許可している宿もあるらしいんだ」
 そうこうしているうちに十時半になった。恭平は猫を抱き上げると台所へ行き散歩に出かける準備を始めた。彼が猫を散歩に連れていくのはその時間と仕事に出かける前の早朝と決まっていた。それはその時間ならまず人目につくことがないから安心して近所を歩けるからであり、猫が便意をもよおす時間と重なっていたからだった。
 首輪にリードをつけてドアを開けると雪が舞っていた。雪国育ちの恭平はそれを見て積もりそうだなと思った。それは彼が幼い頃から目にしているキメ細かな雪だった。すでに路面はうっすらと雪に覆われていた。
 恭平はいつものように猫を抱いたまま二百メートルほど歩いてそこで猫を地面に下ろした。猫はすぐに用を足したが雪が珍しいのか帰りたいとは言わなかった。彼と同様に久しぶりに見る雪に興奮している様子だった。彼は珍しく故郷のことを思った。今頃俺の実家は雪に閉ざされている頃だが、あのクソオヤジと、クソババァは元気だろうかと。再就職が決まったおかげで、心に両親のことを思う余裕が少しだけ出ていた。
 恭平と猫は長い間雪の中を歩いた。寒かったがそうしていたかった。降りしきる雪が外灯と民家の窓から漏れる灯りに反射してキラキラと輝く様子が美しかった。入り組んだドブ臭い路地を雪の晩特有の静寂が包んでいた。
 恭平は何年ぶりかで鼻歌を歌った。それはさっきラジオで聞いたジョン・レノンのクリスマスソングだった。別に何かがあるわけではなかったがしあわせだった。思わず何かを口ずさんでしまうほどにしあわせだった。
 猫は鼻歌を口ずさむ恭平を見ながら冷たい視線を投げかけていた。それを見て彼は思わず苦笑いを浮かべた。彼はいつも音楽の成績が一だったうえに、これ以上はないというくらいに音痴だった。フランクシナトラが吐血して倒れそうなほどに。
 恭平は「また来年もいっしょにチキンを食べて夜の散歩をしような」と優しくつぶやいた。そして猫を抱きあげると部屋にもどって再びささやかなクリスマスパーティーを始めた。彼がクリスマスを愉しいと感じたのはその年が初めてだった。

  〈13〉

 年が明けて新しい一年がやってきた。恭平は二日間だけとった正月休み ― その会社には正月休みがなかった。そのため彼は一月の四日と五日を休日として派遣会社に申請した。元旦に出ても日給は変わらなかった。 ― を猫と一緒に過ごした。バスケットに猫を入れて近所の小さな神社にお参りに行き、のんびりと酒を飲みながら、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読んで過ごした。例え日雇い労働者でも人並みに休みは欲しかったのだ。彼が初詣に行くのは何十年ぶりのことだった。
 恭平にしては珍しく洋服屋に行って二枚で三千円の無地の黒いパーカーと、中古で九八〇円のリーバイスのジーンズを買ったりもした。はたから見ればおしゃれでもなんでもなく、ひいき目に見ても普通としかいいようがなかったが洋服をほとんど買ったことのない彼にしては大きな進歩だった。それは一重に黒猫レコードのあの店員の影響だった。彼はあの男が黒いパーカーに色あせたジーンズを履いているのを見てひそかに憧れていたのだった。それがどちらもマニア垂涎のビンテージ物ということも知らずに。男がいつも着ているクリームソーダというブランドの洋服は自分には派手すぎたのでやめておいた。好きなのだが。
 むろん猫にもちょっとしたものを買ってやった。恭平は極度の親バカよろしくペットショップで猫用の服を買った。それは大正時代の書生を思わせるはかまと着物と学生帽がセットになったもので彼の洋服と同じくらいの値段だった。しかし猫がそれを着るのを嫌がったので結局彼は特売の生ハムとスモークサーモンを新年の贈り物とした。猫がそっちの方を喜んだことは言うまでもない。彼はそれを見て人間より猫のほうがしあわせなのかもしれないと思い、ある意味猫は人間よりもよほど優れた精神を持っているという結論に達した。着る物や見栄えに固執して絶えず自分の境遇に不満を持っている人間が不幸に思えたのだ。
 恭平が普段行くことのない初詣に行ったのには理由があった。それはやはり猫のことだった。彼は猫が少しでも長く自分と一緒にいてくれることを祈り、半年後に出るボーナスの時期に一緒にどこかに行けることを祈った。猫の体調は決していいとはいえず相変わらず寝てばかりいた。
 しかし、その願いは叶わなかった。猫の体調は一月の七日を過ぎた頃から急激に悪くなった。散歩に連れて行ってもただ用を足すだけでほとんど動かなくなり、以前にも増してキャットフードを食べなくなった。呼吸が苦しいのか話しかけても鳴かなくなったし、足取りは以前にも増して危なくなった。以前はよく恭平が料理をしていると台所の流しに飛乗ったりしてきたがそんなことはもうなかった。水を飲んでノドに詰まらせることも増えた。
 前にいた職場の事務の女の子が「猫は死ぬ数週間前になると急激に体が衰える」と同僚に話していたことを思い出した恭平は、思いつく限りのことをした。病院に行って注射や点滴を打ってもらい、精がつきそうなものを食事として与えた。うなぎ、肉、刺身、チーズといったものをふんだんに。しかし、それらはほとんど意味がなかった。猫は好物であるにも関わらず食べようとしなかった。かかりつけの医師によるとついに寿命が来たということだったがそれは疑う余地がなかった。今日、明日というわけではないが春まで持たないとうことは明らかだった。
 恭平は仕事の量を減らして多くの時間を猫と一緒に過ごすようになった。日雇いという立場は不安定だが、好きに休みが取れるという点においては有利だった。彼は最低限必要な金を稼ぎ出すと、家庭の事情で仕事に来れなくなったと派遣会社に伝えた。すでに今月の十九日付けで辞めると言ってあったのでそれは楽だった。むろん本当の理由は伏せてだが。彼は働き始めて以来、少しずつだか貯金し続けていたので運よく経済的に余裕があった。むろんたいした額ではなかったが。

  〈14〉

 新しい仕事が始まる二十日までの九日間を猫と恭平はほとんどの時間、部屋で過ごした。一度だけ会社に制服 ― 日雇い社員は私服だったが、正式雇用者には制服があった ― を合わせに行ったことと、二回ほどスーパーに行った以外に彼はどこにも行かなかった。別に何かをしてやれるわけではないがそばにいたかった。残り少ない時間を一秒でも猫といっしょに過ごしたかったのだ。天気のいい温かい日には近所の公園に出かけたりもしたが、ほとんどは部屋だった。年老いた体にバスケットの窮屈さは疲れるようだった。それにバスケットを見ると病院を連想するのか落ち着かなくなるのもかわいそうだった。猫も人間も医者と病院は嫌いなのだ。
 その九日間は単調だった。朝六時に起きて ― 体が早起きすることに慣れてしまったせいで朝寝坊ができなくなっていた ― 本を読んで自慰をするくらいで、後は猫と一緒に昼寝をするくらいだった。しかしその生活は楽しくなかった。どちらかというと憂鬱だった。何をしていても落ち着かず絶えず心の中に黒くて厚い雲が立ち込めているような感じだった。これからまた一人になると思うとつらかった。猫の体が弱っていくのを見ているうちにだんだんと心の準備ができてきてはいたものの、どうあがいても慣れることができなかった。命あるものはいつか死ぬという言葉を自分に言い聞かすなどムリだった。見ず知らずの老人や、遠くの国で勝手に戦争に巻き込まれて死んでいく人間ならそう割り切れるのだろうが家族同然となった自分の愛猫には当てはまらなかった。
 恭平は日々衰えていく猫を見ながら溜息をつくしかなかった。彼にできることはただ祈ることだけだった。他にできることは酒を飲んで現実を忘れることだが、そうする気にはなれなかった。そうしたらまた振り出しに戻るような気がしたのだ。何事にもやる気を抱けずただ自殺のことを考えてばかりいた忌まわしき数ヵ月前の自分に。それは精神的な地獄だった。ひどい匂いを放つ下痢便のようなヘドロが沈殿した底なし沼に無理やり放り込まれたようなものだった。
 いずれにしても恭平が働き始めて以来欲しいと思ってきた休暇は、彼が想像していたほど楽しくはなかった。それはちょうど体の中に、いつはぜるかわからない爆弾を埋め込まれてタイのプーケットに連れて行かれるようなものだった。彼は「いったい神様はどんなつもりなんだろう?」とよく思った。この世に平等などないということはすでに痛いほど知っていたがそう思わざるをえなかった。

  〈15〉

 そうこうしているうちに長くて憂鬱な九日間が終わり初出勤の日がやってきた。その朝彼は契約上の都合でいつもよりも少し遅く出かけた。当分の間、早出はなかった。
 仕事の内容は日雇いの頃とあまり変わらなかったが、事務的な仕事が増える分パソコンを触ったりする機会もあった。その日の午後、恭平は上司にパソコンの使い方を少し習ったが予想していたよりも楽だったので安心した。彼は生まれてこのかた満足にパソコンに触れたことがなかった。
 その日はほぼ時間通りに仕事が終った。恭平は職場の人間に新人らしく挨拶をすると部屋に飛んで帰った。昼休みにも十五分ほど帰っていたが猫のことが気がかりだった。相変わらず具合は悪かった。
 部屋に着いた彼は勢いよくドアを開けた。そして次の瞬間半ば呆れた口調で言った。
「何をやってんだ、おまえは?」
 玄関の前では猫が床に三つ指をついて彼の帰りを待っていた。まるで数百年前の女中が「おかえりなさいませ」と言わんばかりに。猫は短く歪曲した尻尾をけなげにグリグリと振っていた。恭平は昨夜から猫に言っていたことを思い出した。― 今日から俺は正式雇用の身なんだ ―
「おまえは頭がいいな」
 恭平はそう言うと猫を抱いた。かなり疲れていたがその疲れはどこかに吹き飛んでいた。正式雇用はやはり日雇いとちがって精神的にきつかった。慣れないパソコンを触ったせいか目や肩も痛かった。思っていたよりも簡単だったが、疲れることには変わりなかった。
「お出迎えしてくれてありがとうな。モモ」
 靴を脱いで部屋に上がった恭平はさっそく猫の食事を用意した。その日の猫の食事はいつもと代わり映えのしない猫用の缶詰だった。再就職の初日だし本当は何か豪華なものを用意したかったのだがスーパーに寄らずに帰ってきたので冷蔵庫の中はからっぽだった。食事を缶詰に切り替えたのはキャットフードよりも柔らかく食べやすいからだった。彼は少し前に猫の歯がだいぶなくなっていることを発見していた。人間も猫も年を重ねると歯が弱くなるというのは同じようだった。
 猫は丸一日何も食べていなかったにも関わらずあまり食べなかった。三分の一ほどを食べ終えると恭平が用意した水を少しだけ飲んで隣の部屋に行って布団の上に横たわった。相変わらずダルそうだった。
「モモ・・・・」恭平は言った。「もう少し食べなきゃダメじゃないか。食べないと自慢のトラ模様が薄くなるぞ。ただの茶色い猫になるぞ」
 猫は薄目を空けて恭平を見ていた。彼は床に置いていた餌用の皿に手を伸ばすと箸でそれを突き崩し、そこにかつおぶしを混ぜた。味を変えれば食べるかもしれないと思ったのだ。
 隣の部屋に行き猫の鼻先に皿を置くと作業着の後ろポケットに入れていた携帯電話が鳴った。彼は大家からなんじゃないかと思い身をこわばらせた。ついに誰かが猫のことを告げ口したのだと。彼に電話をしてくる人間は大家くらいだった。
 彼はポケットから電話を取り出した。しかしそれは大家ではなかった。レコード屋の男からだった。彼は前回黒猫レコードを訪れた際に携帯番号を交換していた。
「もしもし」
「あー、森本さん?」
「村林君?」
「あけましておめでとうございます」
「あー、どうも」
 恭平は男の声にあまり張りがないことに気づいた。口調はいつも通りだったが落ち込んでいる感じだった。受話器の向こうからは威勢のいい音楽が聞こえていた。
「最近来ないけど元気ですか?」
「僕はそこそこかな」恭平は床に腰を下ろした。「それより村林君は?」
「元気ですよ」
「そうは聞こえないけど」
「ああ。まあ色々とあって」
「彼女とケンカでもしたの?」
「そういうのだったらいいんですけどね」男は溜息混じりに言った。「尚美が死んだんですよ」
「尚美? サイン入りで地図を描いてくれた赤毛の子?」
「そう。その子ですよ」
「まだ若かったのに」
「そうですね・・・・」
 男は恭平に尚美という女の子が病気だったことを話した。男の話によると彼とその友人はもう一度唄いたいという尚美の夢を叶えるべく一緒にバンドをやっていたということだった。その子は元バンドマンだった。
 恭平は何と返していいのかわからなかったので黙っていた。彼は初めて黒猫レコードを訪れた夜に出会ったあの赤毛の女性のことを思った。人ごとながら悲しかった。思えば彼女は自分に優しくしてくれた最初の女性だった。男の声に含まれた悲しみが彼の涙腺を刺激した。自分も近いうちにこの男と似た悲しみを味わうことになるのだなと彼は思った。
「ところで猫はどうですか?」男は話題を変えるかのように言った。「モモは」
「相変わらず具合はよくないかな」
「そうですか・・・・」
「食欲がないんだ。それに最近は以前にもまして寝てばかりいる」
「医者には?」
「行ってるよ。でも、役には立ってない。医者は気休めに目の洗浄と注射をしてくれるだけだよ」
 今度は男が黙った。恭平は自分の声が妙な緊迫感を帯びていることに気づいた。話を聞いてもらえることがうれしかったのだ。彼には話せる人がいなかった。
「そういえば」恭平は言った。「仕事が見つかったんだ」
「おめででとうございます」男は返した。「で、どんな仕事なんですか?」
「仕事自体はこの前と同じだよ。でも日雇いから正式雇用になったんだ」
「やりましたね」
「人手不足だったみたいで」
 恭平は照れながら言った。なんだか無理やり言わせたみたいで恥ずかしかった。人に再就職を祝ってもらうのが初めてということもあったのだが。
「で、給料はいいんですか?」
「それはあまりよくないよ。でもボーナスはあるんだ」
「へー、何ヵ月分ですか?」
「三カ月分だけど」
「いいですね。うちは二ヵ月分ですよ。まあ、でもこんな仕事だから文句も言えないけど。遊んでるようなもんだから」
「勤務中に酒を飲めるんならそれでもいいように思うけど」
「いや、酒代がかかるから飲めない方がいいですよ」
「ボーナスが入ったら猫をどこかに連れて行ってやろうと思ってるんです。例えば温泉とか」
「名案ですね」
「でも、それまで猫が生きていてくれるかどうか。正直、後一月持つかも怪しいし」
 男はしばらく黙った。恭平は言うべきではなかったかなと今さらながら思った。
「森本さんは土日休みなんですか?」
「いや、日曜だけです」
「だったら日曜を利用して行けばいいんじゃないですか?」
「でも、ボーナスはまだ先だし」
「車は?」
「ないですよ。免許はあるけど」
「よかったら貸しましょうか?」

  〈16〉

 それから数日後、恭平は猫をバスケットに入れて黒猫レコードの前に立っていた。日曜日の朝八時とあって通りは静かだったが、辺りには吐瀉物や酒の瓶といった土曜の夜の名残が色濃く残っていた。黒猫レコードの前の通りが一番賑わうのは土曜の夜から日曜の朝にかけてだった。
 恭平はタバコに火をつけると空を見つめた。風は少し冷たかったが頭上には澄み渡った冬の青空が広がっていて気持ちがよかった。絶好のドライブ日よりを絵に描いたような空模様だった。この日、彼は男から車を借りてその車で猫とドライブに出かけることになっていた。
 待ち合わせの時間を十分ほど過ぎた頃に、二台の車がやってきた。一台は黒いカブトムシで、もう一台はトヨタの白いステーションワゴンだった。妙に角ばった古い形のクラウンのステーションワゴンだった。
 それらの車は恭平の前に停まった。朝日に輝くガラス越しに男の顔が見えた。男は恭平に手を振るとヨレヨレになったタバコをくわえながら車から降りてきた。エンジンはかけっぱなしでルームミラーには大きな鉄十字がぶら下がっていた。
「遅れてすいません」男は言った。「飲みに行ったらいつの間にか朝になっていて、まいりましたよ。よお、モモ元気か? 久しぶりだな」
 男は彼が今まで見た中で一番汚い顔をしていた。うっすらと髭が伸びいつもならきれいに決まっているリーゼントヘアは乱れている。まるで博打ですったみたいな風体だった。
 間もなくして後ろに停まったカブトムシからデニムのスカートに黒のロングブーツをはきジップアップ式の黒パーカーを着込んだ女の子が降りてきた。その女の子は背が低く、ぽっちゃりとしていたが美人と言ってもよかった。肩までの黒髪はきれいに手入れされていて、一重の目からは優しさと知性が感じられた。この子が優子かと恭平は思った。中嶋優子。
 その女の子は恭平と目が合うと笑みを浮かべながら会釈をした。恭平はなぜだかフローレンスナイチンゲールが頭を振りながらドラムを叩く姿を想像した。朝の空気に混じって爽やかな香水の香りがした。赤毛の女性と同様にステキな感じのする人だった。
「で、どこに行くか決まったんですか?」男は訊ねた。
「いや」恭平は返した。「でも山の方に行こうと思ってます。海はまだ寒いでしょうから」
「賢い選択ですよ。風邪を引きたいって言うんならそれもありでしょうがね」
 恭平は男の後ろに停まっている車を見つめた。久しく運転していないし本当に運転できるだろうかと今さらながら思った。恭平は夢が現実になりかけたことから何も考えずに車を借りる約束をしてしまっていた。この男もどうかしているが、自分もどうかしているのは明らかだった。きっと量だけが売りの安酒を飲みすぎたのだろう。
「ぶつけてもいいですよ」男は恭平の視線に気づいたのか言った。「すでにボコボコで廃車寸前だから。ああ、でも、もし人を轢いたらちゃんとオマワリに届けてくださいね。こいつが頼んでもないのにタイヤの下に潜り込んで来やがったって」
 女の子が車を回って恭平と男の立っている方に歩いてきた。女の子はしゃがみ込むと恭平が手にしていたバスケットの中を覗き込んだ。陽の光をあびた彼女の髪は黒曜石のように輝いていた。
「かわいい猫ですね」
「どうも」
「ずいぶんとおとなしい猫なんですね。さっきから全然鳴かない」
「もうおじいちゃんですから。人間の年にすると九十くらいなんです」
「かわいいな。モモじいちゃんは」
 恭平は自分がそう言われているような感覚を覚えた。女性に慣れていない彼はドキドキしていた。鼻毛が出ていないだろうか? ちゃんと歯は磨けているだろうか? と彼は思った。女の子は何やら猫に話しかけていた。彼はその姿を見て、この女の子が動物と人間を同じ仲間と考えていることに気づいた。なぜ、毒気の塊のようなこの男と天使のように朗らかな感じのこの女の子が恋仲なのだろうと彼は考えたが、すぐにこの男の根底に優しさがあるからだという結論に行き着いた。悪いのは口と素行だけだ。
 男は大きなあくびをすると三日月型の腕時計に目をやった。
「もうすぐ九時だ。森本さんはそろそろ行った方がいい。あんまり遅くなると道が混む。日曜日は世界中の労働者が仮釈放される日だから」
「ああ、そうだね」
「ところでどこに何がついてるかとかはわかりますか?」
 恭平はかぶりを振った。それを見た女の子は男に言った。
「普通わからないわよ」
「そりゃそうだわな」
 男はそう言って笑うと助手席側のドアを開けた。そしてシートに浅く腰を下ろすとどこにハザードがついているかや、どのようにエアコンを使うかといったことをざっと説明した。窓は今時にしては珍しい手動式だったがマニュアル車ではなかった。
 恭平はそれを聞き終えると運転席に乗り込み、助手席にバスケットを置いた。灰皿は吸殻で山盛りで、床にはビールの空き缶やワインのボトルが落ちていた。恭平は男があの世にいないことを不思議に思った。この男が生きていられるのはルームミラーにぶらさがっている十字架の御加護だろうか?
「じゃあ、気をつけて」男はドアを開けると顔を突っ込んだ。
「はい」
「何かあったら携帯に電話してください。多分走っている最中に壊れるようなことはないから。たまにエンストするけど」
「はい」
「じゃあ、よい旅を」
 男はドアを閉めた。それと同時に胸が高鳴るのを恭平は感じた。これから一人旅に出るのかと思うと少しドキドキしたのだ。傍らにいた猫が「まあ、落ち着いて」と言わんばかりに鳴いた。
 ブレーキを踏みながらシフトをPからDに入れると車が少し前に動いた。恭平は笑顔で手を振る男と女の子に手を振り返すと慎重に走り始めた。カーステレオから流れる不思議な女性グループの音楽とともに。そのグループは『アフロガール・ゴー・ア・ゴー』と歌っていた。

  〈17〉

 運転にはすぐに慣れた。その車は見た目よりも大きさを感じさせずどちらかと言うと運転しやすかった。少なくとも昔、仕事でイヤイヤ乗らされたマニュアル車のハイエースよりはずっと楽だったし楽しかった。彼は途中でカセットテープをオールディーズに変えていた。それはその時の彼の心境にピッタリと合っていた。
 恭平は寒いにも関わらず窓から腕を出して比較的ゆったりとした国道を東に走った。目的はなかったがその方角に行けばどこかに行き着くような感じがした。会社にあった地図を見る限り山はその方角だった。どこか山沿いの公園に行って日の光を浴びながら猫と昼寝をしたいと思っていたのだ。
 猫は慣れない車に最初こそ鳴いていたが、今ではすっかりおとなしくしていた。恭平は信号で停まる度にバスケットを抱えて猫に外の様子を見せた。道は運よく空いていた。
「見てみなよモモ。あのねぇちゃんすごく短いスカートをはいてるぜ。あのねぇちゃんはきっと性病持ちの娼婦だ」
 恭平は自分がいっぱしの男になったような感覚を覚えていた。自分が年代物のイカした車を操っているということが楽しかった。ダッシュボードに貼られたクリームソーダのステッカー ― そのステッカーはトランクにも貼ってあった ― とルームミラーからぶら下がる大きな鉄十字と車内に染み付いた整髪料の香りが不良っぽかった。彼は自分が向かうところ敵なしと言わんばかりの態度を身につけたあの男になったような感覚を覚えた。
 四十分も走ると視界からビルが消えその代わりに大きな民家や田んぼが見えてきた。恭平はのどかな風景に気をよくしながらさらに一時間ほど走った。すると今度は左手に海沿いの町にありがちな潮風にさらされて色あせた屋根が固まっている集落が見えてきた。目をこらすとはるか彼方に海原が見えた。ちょうど大きな坂を上りきったところだった。
 あれ?
 恭平は自分がどこかで道をまちがえたことに気づいた。その国道はどこかで枝分かれしていてまっすぐ進むと海沿いの町に出るのだった。猫に気をとられているうちに曲がるところをまちがえたのだ。
「クソッ、なんてこったい」
 恭平は思わず舌打ちをした。しかし彼はそれをよしとしてそのまま走り続けた。そしてしばらく走ると国道をそれて海に続いていそうな道に入った。もともと計画があったわけではなかったのでそれも悪くなかった。文字通りの気ままな旅だった。
 しばらく走ると海岸沿いに出た。防波堤沿いにそのまま走ると左手に大きな倉庫のような建物が見えてきた。そこには魚の名前の書かれた鮮やかなのぼりがいくつも立てられていた。観光客相手の魚市場か何かのようだった。
 恭平はハンドルを切って建物の前の大きな駐車場に車を止めた。そして猫に「少し待っててくれよ」と言うと建物の中に向かって歩き始めた。何か食べるものを仕入れたかったしトイレにも行きたかった。そろそろ昼食の時間だった。猫の餌は持ってきていたが自分の物はコンビニエンスストアーかスーパーで手にいれるつもりだったので何も持ってきていなかった。この手の場所には焼いた魚介類などが安価で売られているはずだと彼は思った。
 恭平は建物の外にあったトイレで用を足すと中に入って行った。その中は団体旅行できたと思しき老人たちでにぎわっていた。みな魚の干物やタコの干物を狂ったように買い求めていた。
 恭平はいけすのたくさん設けられた生臭い建物の中を歩き回り、マグロの切り身や牡蠣を焼いたものなどを手に入れると車に戻った。そして猫に「お待たせ」と言うとレジにいた前歯の欠けたパンチパーマのおばさんに聞いた公園に向かって走り始めた。彼は甘エビを買った際にどこかこのあたりにいい公園はないかと聞いていた。そのおばさんによるともう少し先に行った所に小さいが雰囲気のいい公園があるということだった。
 防波堤沿いにまっすぐ進むと左手に『海の見える公園』という薄汚れた小さな看板が見えてきた。恭平はハンドルを左に切って三台ほどあった駐車場の真中に車を停めた。そこはとても小さな公園で潮風にさらされて錆びたブランコとどこかの遺跡から発掘されたかのような簡易トイレしかなかったが確かに雰囲気はよかった。この辺りの地理にあかるくなければ素通りしてしまうような公園だったが、名前の通り海を見ることができた。
 恭平はドアを開けて外に出ると助手席に回った。そして猫の入ったバスケットを掴むとその中から猫を出して首にリードをした。何時間ぶりかに外に出た猫は自分がどこにいるのかわからず辺りを見渡していた。潮の香りに鼻をクンクンさせている。
「まずはトイレだな」恭平は言った。「それから食事にしようか。もらしたら大変だからな」
 恭平は猫を抱えると公園の奥にあったコンクリート製の階段を下って海岸に行き、猫を砂浜に下ろした。猫は砂の感触が気に入らないらしくさかんに足を振っていたが、海には興味があるようだった。近づこうとはしなかったが。おそらく猫は犬とちがって泳げない動物なのだろう。飼い主だか恋人だかに会うために海を泳いで渡ったという犬の話は聞いたことがあるが、猫がそうしたという話は聞いたことがない。
 恭平と猫は十分ほど砂浜を歩いた。その間、彼は持参していた使い捨てカメラで七枚ほど猫の写真をとった。風がやや強く冷たかったが気持ちはよかった。やわらかな日差しと荒涼とした感じが美しかった。それにおバカなカップルやうるさい子供がいないこともよかった。海岸は貸切り状態で聞こえるのは打ち寄せる波の音と車が公園の前を通り過ぎていく音だけだった。まるで時間が止まっているかのようだった。
 恭平は砂浜に打ち上げられた干からびた海草の塊や流木に小便をかける猫を見ながらしあわせな気分だった。猫はいつもよりも少しだけ元気があるように思えたし、遠出を楽しんでいるようにも思えた。おそらく初めて見るであろう海を。恭平は男が車を貸してくれたことと道をまちがえたことを神に感謝した。
 猫が用を足し終えると車に戻った。恭平はトランクを空けるとそこに腰をかけて食事の準備を始めた。できることなら海を見ながら外で食べたかったが、そうするには少し風が強すぎたし寒かった。彼は散歩中ずっとパーカーのポケットに手を突っ込んでいたがその指先は凍ったバナナのようなありさまになっていた。
 紙袋から餌用の皿と水を入れる茶碗を取り出した。彼は茶碗に持参してきていた水 ―普通の水道水を一度沸騰させたもの ― を注いだ。猫はノドが乾いていたのか忙しそうにそれを飲んだ。恭平はいつものように猫が水をノドにつまらせないことを祈りながらそれを見つめた。
 猫が無事に水を飲み終えると食事を皿に盛った。持参した缶詰ではなくさっき買った刺身や牡蠣を焼いたものだった。せっかく海に来たのだからこういうものの方がいいと思ったのだ。缶詰はどこででも食べられるし、いざとなったら部屋に持って帰ればいいのだから。猫は珍しくおいしそうにそれを食べた。食欲もあるようだった。恭平は試しに刺身を一口食べてみたがそれは本当においしかった。こよなく愛する近所のスーパーの魚売り場がペテン師に思えるほどだった。
「どうだ? うまいか? もっと食っていいぞ。俺の分もやるよ。ほら」
 彼は自分用の刺身のほとんどを猫にあげた。そのため食事は牡蠣を焼いたものだけとなった。しかし、それは猫に食欲があることに比べればたいしたことではなかった。それは生きようとしている証拠だった。
 食事を終えると車の中でボンヤリとした。恭平は運転席を倒して横になりながら空を見つめ、猫は助手席で丸くなった。外は寒かったが車の中は温かくて気持ちがよかった。澄み渡った青空と定期的に聞こえる波の音がなんとものどかで眠気を誘った。悩みや苦悩とは無縁な世界だった。
 猫はすぐにイビキをかき始めた。恭平は猫を見つめているうちにまどろみ始めた。これで眠るなという方が無理だった。例えコーヒーを二十杯飲んでもそれは無理だった。何かを考えるようなことはしなかった。
 目が覚めると外はだいぶ暗くなっていた。恭平は再び車を出て猫を砂浜で散歩させるとバスケットに入れた。散歩をさせたのは途中で道に迷っても大丈夫なようにだった。彼はどうやってここに辿り着いたのかをすでに忘れていた。来ようとして来たのではなく、結果的に辿り着いたので仕方のないことだが。むろん地図などという気の利いたものはなかった。
 恭平は記憶を頼りに日の落ちた通りを進んだ。二回ほど曲がる場所をまちがえたものの三十分後には無事に朝通った大きな国道にもどることができた。道は相変わらず空いていたので思ったよりも早く着けそうだった。約束通り男が仕事を終えて帰るまでに車を返せそうだった。恭平は町に戻ったらガソリンを満タンにしてどこかでお礼にスコッチを一瓶買おうと思った。特産物にしようかとも考えたが、あの男がタコの干物や干したイカでできたとっくりをもらって喜ぶとは思えなかった。
 帰りの車内は騒々しかった。猫は行きとちがってさかんに鳴いた。それはまるでもう少しここにいたいといわんばかりだった。猫はこれから帰るということを知っているようだった。楽しかった一日がもうすぐ終るということを。猫は車での旅をことのほか気に入ったようだった。
 恭平は助手席のバスケットを撫でながら名残惜しそうに鳴く猫に向かってまた来ような、とつぶやいた。もう少し温かくなったら必ず来ようと。そしてその時は必ず市場で目にした伊勢えびの刺身を食べようと。猫はそれを理解したのか鳴きやんだ。そして間もなくして寝息を立て始めた。ステレオが消してあったお陰でそれはよく聞こえた。車内は静かで聞こえるのはエンジン音と猫のいびきだけだった。
 恭平はひょっとしたらもう二度と来れないかもしれないと一瞬考えたがすぐにそれを打ち消した。その考えはこんな素敵な休日にはふさわしくなかった。はたから見ればたいしたことのない寂しい一日かもしれないが、彼にとっては何ものにもかえがたい完璧な一日だった。彼は時おり助手席のバスケットを見つめながら明日からまた頑張らなければなと思った。またこうして猫と小さな旅行に来るためにも。

  〈18〉

 あの小旅行から二カ月が過ぎた。恭平は相変わらず倉庫で働きながら猫と暮らしていた。仕事にもようやく慣れ、今ではパソコンも使うことができるようになっていた。時おりちょっとしたミスなどはしたものの相変わらず職場での評価もよかった。
 上司は「もう一人の高卒をとらずに君をとって正解だった」とよく言ったがそれはまちがいではなかった。恭平は事実よく働いた。猫を病院に連れていく必要がない時はちゃんと残業もしたし、早出をすることもよくあった。仕事は楽ではなかったが恭平はそれがうれしかった。
 生活に大きな変化はなかった。しかし女の子と話せるようになったことは大きな変化だった。恭平は職場にいるアルバイトの地味な女の子と時おり話すようになっていた。その子は大の猫好きで猫を二匹飼っていた。話すことは「猫の調子はどう?」とか「餌を変えたら食いつきがよくなった」という他愛もないものだったが、今まで緊張して女性と満足に話すことのできなかった恭平にとっては大きな進歩だった。その子はマンガ家を目指していたが恭平にはあまり興味がなかった。彼はその女の子の見た目から多分やおいものを描いているのだろうとふんでいた。義理で作品を見せてくれと言ったが、一向に見せてくれないところを見るとそのようだった。
 猫の調子は変わらずといった感じだった。病状は悪化することもなく一進一退といったところだった。寝てばかりいることとあまり食欲がないところはいつも同じだったが体調には波があった。比較的元気かと思えば翌日はひどくダルそうだったりもした。ちょうど人間の老人のように・・・・いずれにしても死の影は確実に迫っていた。それは散歩に行った時や猫が彼の問いに返事をした時などに感じることができた。鳴き声に以前ほどの張りはなかったし、目にも毛並みにもそれは表れていた。
 だからといって落ち込むようなことはもうなかった。恭平の中ではある種の覚悟ができつつあった。猫が近いうちに死ぬというのは悲しいことだがいつしかその現実を受け止められるようになっていたのだ。彼は猫と時間を過ごしているうちに何かを学んでいた。そして自分が何をすべきかもわかっていた。それは猫が与えてくれたチャンスを生かすことと残り少ない猫との時間を楽しく過ごすことだった。猫との出会いはある種の運命だと彼は考えていた。今の自分があるのはまちがいなく猫のお陰であると。もし猫と出会っていなければ彼はまちがいなくこの世にいなかった。猫が狂っていた人生を修正してくれたのだ。
 恭平は毎晩、仕事を終えるとスーパーに立ち寄って生ハムやチーズや鶏肉のささみといった高価な食材を買った。むろんそれは彼の夕食としてではなく猫の食事としてだった。どうせ長くないなら好きなものをたくさん食べさせてあげたかったのだ。それは彼にできる最大の恩返しだった。医師からは人間の老人よろしく食生活に気をつけるように言われていたがもうそれを聞く気にはならなかった。例え聞いても結末は変わらないのだから。おかげで食費が高くついたがそれはそれでよかった。猫が喜んでくれるなら惜しくもなかった。金はまた稼げるが、猫の命には限りがあるのだから。彼はその後も二度ほど海に行き ― 一度はレコード屋の店員から借りた車で行き、二度目はレンタカーで行った ― 伊勢えびや鯛の刺身を猫と一緒に食べた。残された時間を満喫すべく。

  〈19〉

 それからさらに一月が過ぎたある晩、いつものように一時間半の残業を終えた恭平はスーパーに立ち寄って猫の好物とシャンパンを一本買った。その日の食事はいつもよりも豪勢で、クリスマスの日に食べたのと同じ鶏の丸焼きだった。
 スーパーを出た恭平は雪道を早足でアパートへと向かった。その日は朝から夕方まで雪が降っていたが今は止んでキレイな月が出ていた。とても美しい夜で、外灯と月明かりに輝く通りはひどく静かだった。息を吸い込むたびに鼻腔をくすぐる冷たい雪の香りがとてもすがすがしく何もかもが輝いているようだった。その日は彼にとって特別な日だった。
 恭平は人通りのない通りを歩きながら思った。明日から俺は本当の意味での正社員なのだなと。これで俺は本当にボーナスをもらえる人間になるのだなと。この日の午後、彼は上司に呼び出され明日から正式雇用になるという旨を君には期待しているという言葉とともに伝えられていた。それはわかっていたことだがうれしかった。彼は晴れて安定を手に入れたのだ。むろん大金持ちや世にいう中流の暮らしとはちがうが安定にちがいはない。
 間もなくして部屋に着いた。恭平は鍵を開けるとドアノブに手をかけながら、百円ショップに立ち寄って紙の帽子とクラッカーも買ってこればよかったかなと思った。その方がパーティーっぽくなるのにと。彼は猫が水玉模様の帽子をかぶっている姿を想像してほほ笑んだ。かわいらしいことこのうえなかった。
「ただいまー!」恭平はドアを開けると言った。「今帰ったぞ」
 いつものことながら返事はなかった。恭平はまた寝ているのだなと思いながら雪で濡れた靴を脱いで玄関を上がった。アパートの中はレストランの大型冷蔵庫並みに寒かったが、昼休みに帰った際に電気をつけておいたので明るかった。彼は暗い中で留守番をさせるのがかわいそうだからといつもそうしていた。おかげで電気代がひどいことになっていたことは言うまでもない。
 台所にあがると布団の上に猫が横たわっているのが見えた。恭平はビニール袋を提げたままで隣の部屋に歩いて行った。ぬかるみを歩いたせいで靴下が濡れていたが気にはしなかった。彼は氷のように冷えた床と足の平が触れるのを避けるためにバレリーナよろしく爪先立ちで歩いていった。
「今帰ったぞ」恭平は上機嫌で言った。「今夜はお祝いだ。モモの好きなチキンだぞ。クリスマスに食べたやつだぞ」
 返事はなかった。猫は壁に顔を向けたままで寝ていた。恭平は買い物袋を床に置くと汚れた作業着を脱ごうとジッパーに手を伸ばした。と、その瞬間猫の口から赤い舌がだらりと出ていることに気づいた。厭な予感が胸をよぎった。まるで暗雲の塊のようなものが。
「おい!」
 恭平は気のちがった女のように叫んだ。彼は全身から血の気が引いていくのを感じながら床にひざまずいて猫の上に覆いかぶさった。あまりに激しく床にヒザをついたので五キロの鉄アレイを床に落としたような鈍い音が部屋中に響いた。死という文字がデカデカと脳裏に浮かんだ。一人ぼっちという文字とともに。
「じょうだんじゃないぞ! チクショウ! ウソだろ! ウソだろ!」
 その声は悲鳴であり祈りだった。恭平はほとんど半狂乱で猫の腹を触った。なぜ腹を触ったのかは自分でもわからなかった。彼の声は動揺のあまりところどころ裏返っていた。体中が異常な発熱で熱く、ねっとりとした汗が毛穴から噴き出すのがわかった。
「モモ! 今帰ったぞ! モモ! モモ!」
 彼の指先にゾッとするような冷たさが広がった。猫の体は部屋の気温と同じくらいに冷たかった。彼は反射的に猫を抱きあげると必死に揺すった。まるでそうすれば生き返るとばかりに激しく揺すった。しかし体はすでに硬直していて石膏で固められたかのようになっていた。カタカナのヒの字のような形に。うっすらと空けられた目が蛍光灯のわざとらしい光に寒々しく反射していたがそれはもう生のあるものの輝きではなかった。
「モモ・・・・」
 彼はそう洩らすとぺたりとその場に座り込んだ。全身から力が抜けていくような感じで立つことができなかった。頭の中が真白で目まいがしそうだった。まるで極度の貧血に見舞われたかのように真っ暗な視界の中で紅い光が点滅を繰り返した。
 なんてことだ・・・・
 なんてことだ・・・・・
 なんてことだ!
 彼はそれを言葉にして発しようとしたができなかった。さっきまで普通に話せていたというのにいつしか喉は二千日の干ばつにあったかのように干からびてしまっていた。体中の水分が背中を流れる脂汗とも冷や汗ともとれないものと共に流れ出てしまったようだった。自分の体を支えていた脊椎と一緒に。
 恭平は猫を抱いたままでしばらくその場に座り込んでいた。冷えきった部屋の中、時間だけがただ過ぎていった。まるで脳ミソを丸ごとスプーンでえぐり取られたような気分でどうすることもできなかった。彼は白痴よろしく口を開けていたが自分ではそれに気づいていなかった。感じるのは極度の静寂による吐き気と重油のような倦怠感だけだった。実際には部屋の外を行き来する車の音や隣の部屋から漏れるテレビの音が聞こえていたが彼の耳には入っていなかった。そんなものはヘロイン患者のまくし立てるタワゴトといっしょでただ勝手に鳴っているだけだった。彼にとって世界にいるのは自分だけで、そこはまさに『からっぽの世界』だった。
「何でいきなり死ぬんだよ・・・・こんな日に・・・・よりによってこんな日に・・・・」
 しばらくして恭平はつぶやいた。その声は、はたから聞けばただのうなり声だったが確かに彼はそうつぶやいた。その時ふとある考えが浮かんだ。彼は背筋に電流が流れたかのような感覚を覚えて思わず両目を見開いた。こいつは、俺が正社員になる日を待っていたんだと彼は直感的に思った。だからこそ苦しくてもそれを表に出さなかったのだと。モモは、もし俺が具合が悪いと判断したら仕事を休むことを知っていた。そしてそうすれば正式雇用の話は切られることになる・・・・
 根拠はなかったが、恭平にはそう思えた。それはいかにもモモがしそうなことだった。よくできた猫を絵に描いたようなモモが。偶然とは思えなかった。
 だがそれは決していい考えではなかった。恭平はそのせいで胸の奥を暖かく締め付けられるのを感じた。内臓を吐き出してしまうほどにきつく。その優しさは殺傷力の高い凶器となってすぐに彼を襲ってきた。熱湯と冷水の入り混じった濁流に飲み込まれたような気分だった。彼はそれにドップリと浸かった。
 恭平はたまらず頬を猫に押し付けた。二秒もしないうちに涙が溢れてきた。身震いするほど冷たく冷えた猫の体が余計に彼を悲しませた。自分の愛する猫が誰もいないこの部屋で一人息絶えたのかと思うとかわいそうでしかたがなかった。老衰で痩せ細った体の軽さがさらに拍車をかけた。彼は固く猫を抱きしめると泣き始めた。
 涙が滝のように溢れてきた。嗚咽はどんどん大きくなっていった。止めようにも止めることができなかった。恭平はこの数ヵ月の間にできた掛け替えもない思い出と、胸に残る猫の愛くるしい姿に徹底的に打ち負かされた。できていたはずの心の準備はそれほど役には立たなかった。ボール紙でできた盾で弾丸から身を守るようなものだった。
 恭平はひたすら泣き続けた。彼は涙がもう出なくなるまでそうしていた。正確にどれくらいそうしていたのかはわからないが少なくとも三十分以上はそうしていた。また一人ぼっちだと思うと憂鬱だったが気分は徐々にマシなものへとなっていった。思いっきり泣いたせいで気分がよくなったのだ。彼は目の辺りを汚れた手で拭うと深々と溜息をついた。
 恭平は、はいていた作業ズボンのポケットをまさぐってヨレヨレになった安タバコを取り出すと火をつけ、壁にもたれた。そしてそばにあったビールの空き缶をたぐりよせて灰を落とすと明日からのことを考えた。今までは猫の健康のことを考えて外に出て吸っていたがもう気にする必要はなかった。いくら吸っても猫が健康を害すことなどないのだから。そう思うとまた目に涙がにじみそうになった。気分は重かったが数ヵ月前のように自殺のことなどは考えなかった。逆に今まで通りに楽しく生きてやろうとすら思った。またあの頃にもどることはモモが授けてくれた新しい生に唾を吐きかけるようなものだった。モモだってそれを望まないのだから。それに考えてみれば彼はまるっきりの一人ぼっちではなかったし、やるべきこともあった。レコード屋の店員という友人もいるし、つい先日、定時制高校の申し込みをしたばかりだった。全てはモモが変えてくれたのだ。神に代わって・・・・
 恭平は再び腕の中の猫を見つめた。彼は右手で猫の額を優しく撫でた。猫は生前そうされるのが好きで、彼にそうされるといつも喉を鳴らした。彼はふと、いつかの晩に猫がトイレ以外の場所で小便をしていたことを思い出してほほ笑んだ。「コラ!」と言って猫を掴むと猫はかまってもらえるのだと思って目を細め喉を鳴らし始めたのだ。怒ることなどできるはずがなかった。
「いろいろありがとうな」恭平は猫の耳元に口をよせると優しく言った。「何十年後かにまた合おうな」
 恭平は猫を布団に寝かせると涙を拭いた。布団には息絶えた際に出たと思われる小便の染みができていたがそんなことはどうでもよかった。かなり臭いがそれも思い出だった。それよりも猫を弔うための道具を何点か買いに行かなければなと彼は思っていた。線香や香炉などを買わなければと。猫の亡骸を入れるためのダンボール箱も必要だった。今夜は一緒に眠って明日の晩、この近くの寺に連れて行こう。明日は残業もないはずだし。
 ふと昔、祖母が死んだ時のことを思い出して台所に行った。そしてふちの欠けた茶碗に水を入れて持ってくると指をそこに浸して猫の口にそれをつけた。彼はまたしばらく猫を見つめた。周りには彼が買い与えた猫用のおもちゃがバカみたいに散乱していた。それらは愛猫の死とともに色を失ってしまったように思えた。
「すぐにもどるから、いい子でお留守番しててくれよ」
 恭平は立ち上がると玄関に行って濡れた靴をはいた。本当なら涙が完全に乾いてから行きたかったがそうも言っていられなかった。スーパーの閉店時間が迫っていた。目覚まし時計に目をやるともうだいぶいい時間だった。
 足の平に冷たさを感じながら部屋を出た。通りに出るとキレイな満月が路面を覆う雪を銀色に輝かせていた。ふと顔を上げると空は汚れを知らぬ少女の瞳のようにどこまでも澄み渡っていた。雲はなく無数の星が瞬いていた。恭平にとってはなつかしい雪の匂いと静寂が辺りを包み込んでいた。美しい夜だった。
 恭平は立ち止まるとじっと月を見つめた。彼はふと幼い頃に祖母から聞いた命あるものは死ぬと全て月に行くという話を思い出した。馬鹿げた話しだがそうであって欲しかった。猫が空から自分の姿を見ていて欲しかった。いつものように面倒くさそうに体を半分起した状態で。彼はしばらくの間、月にいる猫が自分を心配そうに見ている姿を想像した。彼の大好きなその姿勢でときおり大きなあくびをしている姿を。
 恭平は再び涙を拭くとできるだけニッコリと笑った。そして心の中で俺のことは心配しなくてもいいからなとつぶやくと優しく降りそそぐ月明かりの元を再び歩き始めた。

                      完       

08/4/26