「美しい色」 牧 すすむ

 いつものように車を降りると、もうすでに何人かの中年の女性がそこに待っていて手際よく荷物を部屋へ運び入れてくれた。終始笑顔の彼女らは、私が指導する「大正琴教室」の生徒さん達なのである。
 暫くの雑談の後、授業が始まると美しく澄んだ弦の音色が教室いっぱいに鳴り響き、窓のガラス越しに射し込む昼下がりの柔らかな光りと融合する。そんな中で彼女達の表情は時に初々しく、かすかに少女の面影を漂わせて気疲れ気味の私の心を和ませてくれる。
 そんな教室の風景を見続けて早や三十年近く今もたくさんの生徒に囲まれ関わりを持ちながら、人生のさまざまな機微を学ばせてもらっている。
 先日のこと、練習中の曲の一部がなかなか合わなくてどうしたものかとみんな思案に暮れていた。間近に迫った発表会の舞台に掛ける曲ということで、私も思いつく限りのアドバイスをしてきたつもりなのだが、個々の練習の不足からか、やはり上手く仕上がらない。確かに難しいフレーズだとは思うのだが─。
 みんなが押し黙ったその時、一人の生徒が笑みを浮かべながら声をあげた。
「ワシ 出来るでヨ」。
 見れば、最年長のおばあちゃんだ。今年九十歳になる。あっけに取られるメンバーを前に、そのフレーズを数回ほど繰り返して見せた。流暢(りゅうちょう)とまではいかないが、しっかりとした指運びは実に見事である。
 この教室は年齢の幅がとても広く、三十代から七十代まで、九十歳の彼女は別格的な存在となっている。そんな彼女がニコニコと笑いながら独り言のように言葉を繋いだ。
「ワシは風邪をひいてふた月くりゃー琴を触れなんだ。ほんで久しぶりに弾いたら出来なんでヨ。こりゃーいかんと思って百回くりゃーやったわナ。ほうしたら出来るようになったでヨ。指が覚えてくれたんだわナ」
 そういえば、ここしばらくおばあちゃんの顔を見ていなかったので、“どうかされたかな? ”と気にはなっていたけれどー。
 “ウンウン”とうなずく周りを見ながら笑顔を更にほころばせ、彼女は言葉を続けた。
「あんたらーも百回やりゃー。ほうしたら出来るでヨ。指が覚えてくれるでナ。ええか、百回だぜ」
 私自身も「目からウロコ」の思いであった。
 さすがに三十代の生徒だけはこのフレーズをマスターしていたけれど、いずれにしても九十歳という年齢の重さからか、誰ひとりとしてその言葉に逆らうものはいなかった。おそらく、それぞれの胸の奥底にまでズシンと音を立てて響き渡ったに違いない。
小柄で柔和な彼女が偉ぶるでもなく口にしたその言葉は、それまでの私のどんなアドバイスよりも的確であった。そして又、どんな宝石よりも美しい色と光りを放ち、他の生徒達の心の中で輝いたことだろう。

09年4月22日

「色VS私」
黒宮 涼

 いつものように車を降りると、もうすでに何人かの中年の女性がそこに待っていて手際よく荷物を部屋へ運び入れてくれた。終始笑顔の彼女らは、私が指導する「大正琴教室」の生徒さん達なのである。
 暫くの雑談の後、授業が始まると美しく澄んだ弦の音色が教室いっぱいに鳴り響き、窓のガラス越しに射し込む昼下がりの柔らかな光りと融合する。そんな中で彼女達の表情は時に初々しく、かすかに少女の面影を漂わせて気疲れ気味の私の心を和ませてくれる。
 そんな教室の風景を見続けて早や三十年近く今もたくさんの生徒に囲まれ関わりを持ちながら、人生のさまざまな機微を学ばせてもらっている。
 先日のこと、練習中の曲の一部がなかなか合わなくてどうしたものかとみんな思案に暮れていた。間近に迫った発表会の舞台に掛ける曲ということで、私も思いつく限りのアドバイスをしてきたつもりなのだが、個々の練習の不足からか、やはり上手く仕上がらない。確かに難しいフレーズだとは思うのだが─。
 みんなが押し黙ったその時、一人の生徒が笑みを浮かべながら声をあげた。
「ワシ 出来るでヨ」。
 見れば、最年長のおばあちゃんだ。今年九十歳になる。あっけに取られるメンバーを前に、そのフレーズを数回ほど繰り返して見せた。流暢(りゅうちょう)とまではいかないが、しっかりとした指運びは実に見事である。
 この教室は年齢の幅がとても広く、三十代から七十代まで、九十歳の彼女は別格的な存在となっている。そんな彼女がニコニコと笑いながら独り言のように言葉を繋いだ。
「ワシは風邪をひいてふた月くりゃー琴を触れなんだ。ほんで久しぶりに弾いたら出来なんでヨ。こりゃーいかんと思って百回くりゃーやったわナ。ほうしたら出来るようになったでヨ。指が覚えてくれたんだわナ」
 そういえば、ここしばらくおばあちゃんの顔を見ていなかったので、“どうかされたかな? ”と気にはなっていたけれどー。
 “ウンウン”とうなずく周りを見ながら笑顔を更にほころばせ、彼女は言葉を続けた。
「あんたらーも百回やりゃー。ほうしたら出来るでヨ。指が覚えてくれるでナ。ええか、百回だぜ」
 私自身も「目からウロコ」の思いであった。
 さすがに三十代の生徒だけはこのフレーズをマスターしていたけれど、いずれにしても九十歳という年齢の重さからか、誰ひとりとしてその言葉に逆らうものはいなかった。おそらく、それぞれの胸の奥底にまでズシンと音を立てて響き渡ったに違いない。
小柄で柔和な彼女が偉ぶるでもなく口にしたその言葉は、それまでの私のどんなアドバイスよりも的確であった。そして又、どんな宝石よりも美しい色と光りを放ち、他の生徒達の心の中で輝いたことだろう。

09/4/22