小説「あたたかに、手のひら」

 世の中には、完璧な人間なんか一人もいない。と、先日十六歳の誕生日を迎えた宮本桜は思う。
 運動音痴、成績もまぁまぁ。これと言って何の取りえもない。そして絶望的に、桜は不器用である。
 美術も家庭科の授業も、桜にとっては地獄のような時間だった。
 小学校の時は、まだ自分がそんなに不器用だなんて気づいていなくて、手芸部に入部したりして、周りの素晴らしい作品に、目を丸くして、心躍らせて。自分も練習すればあれぐらい作れるようになるのかなとか勘違いしたりしていた。
 中学に上がれば、文化部は一つもなく、渋々テニス部に入った。だけど運動が苦手なことはとっくの昔に自覚してたので、当たり前のようにすぐ音を上げた。
 そして桜はある時気づいたのだ。家庭科の授業中に。
「私、実は不器用だったのか……っ」
 小学校時代からの親友、浅川由紀が、え、今更気づいたの?というような目で桜を見ているような気がした。
 そして今年の春、桜と由紀は同じ高校に進学した。クラスも離れずにすみ、楽しいスクールライフの幕開け、のはずだった。
 そう、あの時までは。
「桜ちゃん、せっかくだから何か部活入ろーよ」
「え、部活? でも私……」
「分かってるよ、運動系も文科系もダメって言うんでしょ? でも桜ちゃん、私パソコン部に入りたいんだ。そこね、別に特別な活動も何もしてなくて、インターネットとかで遊びたい放題なんだって。ね? だから、桜ちゃんでも大丈夫だと思うんだ。家でパソコンやってるんでしょ?」
「あ……うん」
 桜が頷くと、由紀はにこりと笑う。
 本当は帰宅部でいいやと思っていたのに、由紀が急にそんなことを言い出すとは、予想外だった。親友の頼みでは、断りづらいじゃないか。
 桜と由紀は早速その日の放課後、入部届けをパソコン部の部室まで持って行った。
 中に入ると、みんな楽しそうにおしゃべりをしながら、それぞれの時間を過ごしていた。
「あのっ」
 由紀が果敢にも、顧問の先生と思われる男性に声をかけ、二枚の入部届けをその人に渡す。先生はそれを笑顔で受け取り、とある生徒に声をかけた。
「こいつは川崎早人。パソコン部の部長だ。まぁ、先輩だが仲良くやってくれ」
「よろしく」
 川崎早人は小さな声で呟くと、軽く頭を下げた。
 桜も由紀も、慌てて頭を下げる。
「そこ使って」
 川崎が指定した場所は、日光を遮る暗幕が掛けてある窓側の席だった。部員は桜と由紀を入れて、十人だそうだ。
「電源の入れ方教えるから、あとは適当にやって。できるでしょ?」
 川崎の言葉に、桜も由紀も頷くしかなかった。
 川崎の説明はすごく淡々としていて無駄がなく、すぐ終わった。あとは本当に放置だ。
「ね? 言った通り何も特別なことはしないみたいでしょ?」
 由紀の耳打ちに、桜は頷きながら安心感を抱いた。
 これだったら大丈夫だ。
 あの中学校三年間の地獄の日々からようやく解放される日が来たのだと、桜が新たな気持ちでパソコンの電源を教えてもらった通り入れた瞬間だった。
 突然、部室の扉が開いた。
「早人先輩、ちょっと使わしてー。調べたいことあんだけどー」
 入ってきたのは、金属を体の至る所に付けた、まるでヤンキーみたいな少年だった。しかし髪の毛は黒く、ピアスも見当たらない。ただシルバーアクセサリーがやたらキラキラと光っていた。
「今日は何だ」
 川崎は少し鬱陶しそうに、その少年を見ながらずり落ちてきた黒縁眼鏡を人差し指でくいっと上げた。
「やー、ちょっとこの間駅前の店行ったら取り扱ってないとか言われて、業者に頼むしかねーかなーって」
「……勝手に使え」
「おー! やりー! あんがと先輩!」
 少年は川崎の了解を得ると、桜の隣の席に座った。桜は少し気になったが、少年と目を合わせないように必死で画面に視線を向けていた。
 インターネットに繋ぐと、桜は何のページを開こうかと、由紀の方を見る。由紀は大好きなアニメの公式サイトを見ているようで、顔がにやけていた。
 桜は仕方がなく、検索サイトのトップページのニュースを流し読みする。
 特に興味を惹かれず、桜は見ないようにしていた左隣をふと見てしまった。
 少年が見ていたのは、ペーパークラフト関連のページだった。
 写真で作品が紹介されていて、桜はついそれに見入ってしまっていた。どれも完成度が高かったのだ。
「何?」
 画面に釘付けになっていると、少年が桜を一瞥した。
 桜ははっと我に返り、何でもないですと、首を横に振った。
変に思われただろうか。
「もしかして、興味あんの?」
「え? な……ないです」
「ふーん」
 それきり、だんまり。
 桜は居心地の悪さを我慢して、先程の続きを読む。
『四歳の女児殺害……』
 そんな見出しを見て、なんとなく物騒な世の中になったなぁと思う。
 左隣が立ち上がりそうな気配を感じたので、桜は思わず身構える。
「……なぁ、ちょとこいつ借りてくぞ」
「へ?」
 少年は、突然そう宣言すると桜の左腕を掴んできた。
 桜は驚愕して目を丸くする。
「え、え?」
 桜は動揺していた。
 こんな、誰かも分からない怖そうなお兄さんに突然そんなことを言われたのだ。どうしろと言うのだろう。
 誰かに助けて欲しくて、桜は右手を伸ばす。
 由紀も驚いた顔で、その手を掴もうとしてくれているが、少年に制止される。
「ちょっと!」
 無理矢理立ち上がらされた桜は、少年を見た。
「行くぞっ」
 少年はそう言うと、桜の手を引っ張って、どこかへ連れて行く。
 パソコン部に由紀を残したまま。

 桜が半ば引きずられるようにして連れてこられたのは場所は、校庭だった。
 グラウンドでは野球部とサッカー部が仲良く分け合って活動している。
「そーいや、名前聞き忘れてた。俺は如月楓。君は? 一年だよな」
「あ……はい。宮本桜です」
「しっかし小っせえなー。とてもいっこ違いとは思えん」
 如月がまるで品定めするように、桜のことを下から上までじろじろと見てくる。
 一体何だと言うのだろう。
 背のことを言われて、桜が少しムッとした時だった。
「おい、そこで何やってんの楓。あんたアレ調べに行ったんじゃなかったのか? 随分早いな」
 少し言葉遣いの荒い、綺麗な顔だちの少女だった。髪の毛はセミロングで、光沢のある栗色をしている。
「おー、丁度よかった。倫、紹介したい奴がいるんだ。宮本桜ちゃん、一年生。手芸部に興味があるんだって」
「えっ、違います」
 如月の言葉に、桜は急いで否定した。
 

 校庭の隅っこに、その部はあった。
 校舎の軒下に、木製の長机とパイプ椅子が一つと三つ。机の上には大きな紙と、裁縫道具と何枚かの布。そして編みかけのレース。
 これはどう見ても、手芸部だった。
 しかし何故こんな校庭の隅で活動しているのだろうか。
「あらー、可愛らしい一年生ね。私こんな可愛い子なら大歓迎よ。私はこの手芸部の部長、三年の星井透。よろしくね」
 髪の毛が肩まで届きそうな程長い、妙に女言葉の男だった。
 これは所謂、オカマってやつか?
 握手を求められたので、桜はとりあえずその手を軽く握る。
「さっ、遠慮しないで桜ちゃん。ここに座って。ようこそ、手芸部へ」
 桜は星井にパイプ椅子に座らされた。
 目の前には、先程声を掛けてきた少女が、針と糸と布を持って座っていた。
「倫ちゃん、体験者用のビーズセット、どこにあったかしら」
「えーと……。確かカンカンの中だろ」
 言いながら、倫と呼ばれた少女は、桜に興味なさそうに布に通した針を引いていた。
「大月倫」
「え?」
 突然ポツリと言われたので、桜は思わず聞き返す。
「あたしの名前。楓の馬鹿が言わなかったから。それよりお前、ホントは楓に無理矢理連れてこられただけだろ。嫌だったら帰っていいぞ」
 大月の言葉に、桜は少し安心した。
 如月に連れてこられたこの場所で、桜は不安で仕方がなかった。
 けれど味方がいた。という事実に、桜は安心したのだ。
 帰ってもいい。
 早くパソコン部に戻らないといけない。由紀がきっと心配している。
「おい倫、お前余計なこと言うなって。お前はこの部が無くなってもいいってのかよ」
「それは困るけど、本人の自由だしなぁ」
 大月がそう言って、桜の方を見る。
 桜は大月と目が合うと、すぐさま目を逸らした。
 手芸は……今は桜にとって嫌なことでしかない。
 昔は確かに憧れていた。
テディベアとか、キャラクターの縫いぐるみとか。そういうの、自分で作れたら素敵だなぁって思っていた。
だけど今は――。
「あの……っ私……か、帰ります。勝手に出てきて、迷惑掛けちゃったと思うし、私もう、パソコン部に入部したんで、無理です」
「えー、帰っちゃうの? 寂しいなぁ。でも仕方ないわね、パソコン部の人には色々お世話になってるし、迷惑掛けられないわよね。もー、ダメじゃない楓君」
 星井が丁度探し出せたのか、持っていた缶の箱で、如月を軽く叩いた。
 バコッという音と共に、缶の箱の底が少し凹む。
「いってー」
 如月が頭を押さえるのを見ると、桜はゆっくりと椅子から立ち上がり、じっと如月を見た。
「部活は二つでも三つでも入っていいんだよ。何でやらないんだよ、やりたくねーのかよ」
 桜は、肩を震わせ、拳に力を入れた。
「私……っ手芸なんか興味ないです。むっ……むしろ嫌いです」
 それだけ言って、桜はパソコン部に戻ろうと、小走りで校舎の中に入って行った。
 手芸なんか嫌いだ。やりたくなんかない。
 まるで自分に言い聞かせるように、何度も何度も心の中で復唱する。
 パソコン部の部室に戻ると、扉が全開だった。
 中を覗いてみると、部員が帰り始めていた。どうやら誰かが扉を全開にしたまま帰って行ったらしい。
「あ! 桜ちゃん、大丈夫? よかった無事に帰ってきて。心配してたんだよ」
「うん。ちょっと大丈夫じゃなかったけど、大丈夫。心配掛けてごめんね」
 桜が言うと、由紀は安心したように微笑した。
「二人とも、今日はもう帰っていいぞ」
 川崎部長が、眼鏡をくいっと持ち上げて、少し面倒臭そうに言った。

「桜。今日もお母さん遅いから、夕食作っといてってさ。あんたが」
 自室でお気に入りの小説を読んでいると、桜の二番目の姉、椿が戸を開けて言った。
「えー。ダメ、絶対! 料理は無理」
 桜は本を右手に持ちながら、両手を交差させてバッテンを作る。
「んなこと言われてもさー。あたしだって今忙しいんだよ。姉ちゃんまだ帰ってこないしさ。あんた暇でしょ?」
「ひ……暇じゃないよぉ」
 桜は三人姉妹の末っ子だ。一番甘やかされて育ってしまった。
 両親は共働きで、今日のように頼まれることは多々ある。
 昔はやる気が少しはあり、作ろうとしていたが、料理も下手だと気づき、それ以来余りやろうとしなくなってしまった。
 どうして皆、やれやれと言うのだろうか。
 桜は何も出来ないのに。
「……ったくう。いいからあたしの手伝いをしなさい」
 椿の命令に、頬を膨らませ、桜は渋々本を閉じた。
「椿姉、何作るの?」
「んー、酢豚。ほら、ぼさっとしてないであんたも冷蔵庫からレタス出して、サラダ作りな。それぐらい出来るでしょ?」
「うん」
 言われたとおり桜がレタスを千切っていると、突然玄関の呼び鈴が鳴った。
「ちょっと出てー」
「えー」
「今手が離せないんだっつーの。さっさと出ろ!」
 軽く怒鳴られたので、桜は渋々玄関へ向かう。
 椿は怒らせると怖いのだ。それは十六年間妹をやっている桜が一番知っているつもりだ。
 呼び鈴がせかすようにもう一度鳴る。
「はーい」
 ガチャリ、と少し重たい扉を開けた。
「こんばんは」
 そう言って、右手をあげて立っていたのは、もう二度と会いたくないと思っていた人物。如月楓だった。
「な……何で……ここに」
 突然のことに、桜は呆気にとられた。
「いや、瑞穂ちゃんにダメもとで調べてもらったら、案外家近くてさ。あ、瑞穂ちゃんっ
てのは、白上先生のことだ。あの人手芸部の顧問でさ、実は俺の従姉妹で」
「か……っ帰って下さい。何しに来たんですか」
 桜は扉の取っ手を強く握る。
「どうしても諦めきれなくてな。何で嘘吐くの」
「何のことですか」
「興味ないとか、何で嘘吐くの。何か理由でもあんのかよ?」
 桜は絶対に如月と目を合わせなかった。
 怖いのだ。目を合わせたら全て見透かされそうで。
 扉の隙間から、夕焼けの光が差し込んでくる。
「……何で、嘘だと思うんですか」
「……だったら、何であの時興味津々にパソコンの画面、見てたの?」
「……っ」
「俺にはあの時のお前の目が、キラキラしてるように見えた」
 図星で、桜は何も言い返せなくなった。
 しばらくの沈黙。それを破ったのは、キッチンから妹の様子を見にきた椿だった。
「桜―、あんたいつまで何やって……って」
「ん?」
「やだー、あたしてっきり隣のおばさんが回覧板でも回しに来たのかと思ってたのに。
あらまぁ、桜ちゃん、もしかしてお友達? それとも知らない間に彼氏でも出来ちゃっ
たのかしらん? お姉ちゃんに紹介してー」
 椿が猫なで声で桜の肩に手を置いてくる。
 この猫被りめ。
「あー、もしかしてお姉さん? やー、美人ですね。どうも、自分は如月楓って言います。ちなみに、彼氏でも友達でもなく、ただの学校の先輩ですから」
 二人とも、急に態度が変わったなぁと思いながら、桜はこのままフェードアウトしよ
うと後ずさる。
「そうだ、楓君夕食まだ? よかったら食べてく?」
「え、いいんすか?」
 椿の突然の申し出を、承諾する如月。
 おいおい、そこは断ろうよ。
 図々しくも宮本家ヘ上がり込んだ如月は、キッチンの長テーブルの椅子に我が物顔で
座っていた。
 如月に今日の騒動を聞いた椿は、桜のことを呆れたように見えてくる。
「いいじゃない、手芸部入っちゃえば。何でそんなに嫌なの? あんた」
 桜は配膳をしながら、ずっと口を噤んでいた。
 言えるわけがない。もし言ったら、きっと椿と如月に盛大に笑われるだろう。
「おねーちゃんにも言えない理由なの?」
 椿が桜の顔をじっと見てくる。
 桜は目を逸らした。
 何とか。何とかこの場から今すぐ逃げ出したかった。
 席に着くと、如月がじっと桜のことを見てくる。
 きっと今、桜の目玉は右往左往しているだろう。
「な……っ何……ですか」
 桜は恐る恐る聞く。
「いや……もしかして、怖いのかなって思って」
「怖い……? あー……楓君が?」
 言いながら、椿も桜の隣の席に座った。
「え、俺? いや、違くて」
 椿の発言に首を横に振る如月。言葉を続ける。
「物を作るのって、確かに楽しいけど、実はすごく勇気がいることで。これは俺が思うこ
となんだけど、簡単な作りに見えるものほど、何か難しくて、上手く作れなくて。でも、
それがすごく俺は楽しい。こういうの人それぞれだから、もしかして桜には、それがすご
く怖くて、やろうとしても、怖くて手が出せずにいるんじゃないかって思うんだけど……
違うか?」
 如月の問いに、桜はゆっくりと頷いた。
「けど……少し違う。私……私が、手芸が嫌いなのは」
 そこまで言って、桜はまた黙った。
 少し違う……本当に? 本当に少し違うのだろうか。如月の言うことは、本当は的を射
ているのではないだろうか。
「……っ」
 桜が急に立ち上がったので、椿と如月が驚いて目を丸くしている。
 桜は決心した。
この状況を打破するための方法を思いついたのだ。けれどそれは、自分の恥だと思うこ
とを二人にさらけ出さなければならない。
だから桜は覚悟を決めた。
とことん逃げるために、二人にあれを見せると、決めたのだ。
「ちょっと、待ってて」
 急ぎ足で桜は自室に向かった。そして机の引き出しを必死に探る。
ずっと封印してきた、あの時からずっと封印してきたものが、そこにあった。
右手がふわふわした何かに触れる。見なくてもすぐ分かる。
桜の、嫌な思い出。
「……はい」
 桜は沈んだ顔をして、如月にそれを渡した。
「……何これ。……ブタ?」
 それはピンク色の、本来ならウサギの小さなマスコット。
 桜が手作りしたものだ。
「やっぱり、ブタに見える?」
 如月の反応に、桜は椿を見る。
「どー見てもこれはブタだねぇ」
「もしかして、自分で作ったの? これ」
 如月の問いに、桜は静かに頷く。
 やっぱり見せるんじゃなかった……っと、桜が後悔しかけた時だった。
「やっぱ、俺の思った通りだ。なかなか上手いじゃねーか。このブタ」
 そう言って、如月が笑ったのだ。
 馬鹿にするような、そんな笑いじゃなく、まるで何か愛おしいものを見つけた時のような、そんな優しい微笑みを、如月が見せたのだ。
「な……ブ、ブタじゃなくて、ウサギを作ったつもりなんですけど……」
「え、ウサギ? いやブタだろ。でもウサギがブタになって、ブタとして見ると上手いってことは、ある意味才能だ」
 うんうんと、如月は一人で納得していた。
「はぁ? これのどこが才能なんですか。見ての通り、それぐらい下手くそだってことですよ? 私はそれぐらい不器用で、何も出来ないんです。私は、普通以下の人間なんです。だからもう……」
「よし! お前、明日手芸部に来い!」
「へ?」
 如月は糸が解れまくって、隙間から綿が出まくっているピンクのウサギ(ブタ)をテーブルの上に置くと、出された料理を一気に食堂へかっ込み始めた。
「ちょっ……ちょっと待って下さい、話聞いてっ」
「いいじゃない、行きなさいよ。それと、とりあえず今は食べな。せっかく作ったんだから。ね」
 椿にそう言われ、桜はひとまず食事をすることにする。

 次の日の放課後、桜は由紀に協力してもらい、如月から逃げることにした。
「じゃあ、部長さんにも上手いこと言っておくから、安心して」
「うん、ありがとう由紀ちゃん」
 正直、今日一日はずっと冷や冷やしていた。
 放課後が来てほしくなくて、由紀と話すことで気を紛らわせたりしていた。
 昨夜のことを由紀に話すと、由紀は快く桜に協力してくれると言った。
 桜は、良い親友に巡り合えて良かったなぁと思う。
 由紀はたった一人の桜の理解者だ。
『こっちにはまだ来てない』
 由紀からのメールだった。
 学校内でメールをするのは、本来なら校則違反なのだが、意外にチェックは緩いので見つからなければOKだ。
 桜は今、女子トイレの中にいる。
 そこが一番安全だと踏んだのだ。
『ありがとう。来たらメールして』
 メッセージを送信すると、桜は一息吐く。
「……ヴ」
 トイレというのは、異臭のする場所だ。いくら消臭剤が置いてあるとは言え、臭い。
 便器が凄く汚れているわけでもないのに、何なのだこの臭いは。
 桜はついに耐えられなくなり、戸を開ける。
「あれ、お前昨日の……」
 声がしたので横を見ると、丁度トイレに入ろうとしていたのか、そこには昨日会った手芸部の部員、大月倫の姿があった。
 予想外のことに、桜は軽くパニックになり、再び戸を閉めようとするが、トイレの戸を大月ががっしりと掴む。
「ちょっと落ち着けって、あたしゃ何もしねーから。出てきたんじゃねーのかよ。おい、ちょーどよかったぜ、話したいことがあるんだ」
「は、話?」
 桜は戸を掴んでいた手の力を抜く。
 大月はその長い黒髪をなびかせながら頷いた。
「瑞穂ちゃんに聞いたんだ。昨日の夜、楓の奴お前の家に押し掛けたんだって? まさかそこまで真剣だったとは思わなかった。瑞穂ちゃんが迷惑掛けたって、謝ってたぞ」
「あ……いえ……」
「お前、今楓から逃げてんだろ? 悪いな。あたしからも謝っとく。楓には、首に縄付けて動けなくしておくから、もうパソコン部戻りな」
 ――あっさりだった。
 昨日までのこの不安を、彼女はこんなにもあっさりと解いてくれたのだ。
「じゃあな」と言う彼女の後姿に、桜は思わず見惚れてしまっていた。
 と、突然桜の胸ポケットに入っていた携帯電話が振動を伝える。
『やばい、来た』
 メールの文面は、それだけ。
「ん? どうした?」
 振動の小さな音に気付いたのか、大月が振り向いていた。
「……あの人が、パソコン部に私を迎えに来たそうです」
 胸が、携帯の振動と同じに震えていた。
 大月がそれを聞いて、溜息を吐く。
「……ったく、あの馬鹿」
 そう言って、恐らく大月は如月を止めにトイレから出ていく。
桜は大月の後ろを付いていった。

「帰って下さい。桜ちゃんはご覧の通りここにはいません」
 あそこの角を曲がればパソコン部の部室の前だ。というところだった。
 突然桜の前を歩いていた大月が立ち止まる。
「?」
「ちょっと様子見ようぜ」
 立ち止まったことに、桜が首を傾げると、大月が言う。
 壁から二人で顔を覗かせて、高みの見物でもしようじゃないかと大月は言う。
 如月と由紀は、部室の前で対峙していた。
 桜たちから見ると、如月の背に、由紀の顔が見えるという立ち位置だ。だから由紀に見ていることを気づかれないようにしなければならなかった。
 いや、由紀は気づいているのかもしれない。
「じゃあ、戻ってくるまでここで待ってるよ」
「帰って下さい」
「嫌だ」
「……っいい加減にして下さい! 何で分からないんですか!」
 如月のわがままに耐えきれなくなったのか、普段は大人しい子で通っていたはずの由紀がついに叫んだ。
「桜ちゃんはパソコン部に入ったんです。パソコン部員なんです! 何でそこまでこだわるんですか。はっきり言って迷惑してるんです、こっちは!」
「……じゃあ何で?」
「え?」
「何であいつがパソコン部に入ったのか、あんたは知ってる? 俺にはどうしても納得いかない」
「それは……」
 きっと自分が言ったから。と、由紀が言おうとしているのが分かった。
 一瞬だけ、桜は由紀と目が合った。
「あいつはここに入りたくて入ったんじゃねーよな? 大方、あんたが誘ったんだろ? 親友に誘われたんじゃ、断るわけにゃいかんよな。あいつはそういう奴だ」
 どうして如月は自分のことがああも分かるのか。
 桜は少しだけ胸が痛んだ。
「あの時……。あいつが、すげー真剣に見てたのが俺の画面じゃなったら、俺はあいつと全く関わることなくいたかもしれねー。けど、あの目を見て確信した。あいつは嘘吐いたけど、本当は手芸がすげー好きなんだって」
 如月の言葉に、桜はあの時のことを思い出していた。
 ペーパークラフトの、あの素敵な作品たち。
 どうやって作ったんだろうという、あのワクワクする気持ち。もう、堪らなかった。
「あんたは、あいつが手芸部に入るの反対してるわけ? あんたは俺より、もっとあいつのこと分かってるはずだろ? あんたは見てきたんだろ? あいつのこと」
 そう、見てきたはずだ。
 由紀は知ってる。桜がどれだけ楽しそうに物を作っていたか。自分が不器用だって自覚して、桜がどれだけ落ち込んでいたのか。
 由紀は見てきたはずだ。
「私……。桜ちゃんのためにって、パソコン部に誘っておいて、あなたが現れたとき、何も出来なくて、悔しくて……。本当は分かってる、桜ちゃんが逃げてること。本当は……逃げてちゃダメなこと」
 由紀の視線が、桜の方に向けられているのが分かった。
「ダメだよ……。ダメなんだよ、いつまでも逃げてたら、一歩も前に進めないよ……ねぇ、桜ちゃん」
「ん?」
 由紀が桜を呼び掛けたので、如月が由紀の視線を追うように、振り向く。
 如月が振り向き、桜と大月の姿に気づいた。
桜は大月に背中を押され、二人の前に全身を見せる。
「あ……」
「私っ桜ちゃんが本当にやりたいことを、やればいいと思うよ。本当は、桜ちゃんだってやりたいんでしょ? 手芸」
 由紀の瞳が、真っ直ぐに桜を捉えていた。
 桜は拳に力を入れて、目を伏せる。
 桜のやりたいこと。
 手芸をやるのは、正直言ってまだ怖い。
桜は不器用だ。
絶望的に不器用だ。
けれど、そんな自分でも、本当にやっていいのだろうか。
「器用とか、不器用とか関係ねーよ。やりたければやればいい」
 如月が言う。
「今からでも……遅くないかな?」
 やっと、桜は顔を上げる。上げられた。
「ああ。年齢なんて関係ねーよ」
 如月が頷く。
「じゃあ、体験入部だけなら……」
 桜が言うと、後方にいた大月が、桜の頭の上に右手を優しく乗せてきた。
 そしてそのまま頭を撫でられる。
「だけ、だけじゃ済まなくなるぞ」
「それでもいいです。やっぱり、やりたいです」
 そう、やっと認められる。認めてやろう。
 手芸が、好きだ。
「あーあ。あなたは私から桜ちゃんを奪っていくんですね。ムカつく。知ったかぶって」
「あれー、もしかして嫌われちゃったかな? 別にいいけど」
 由紀が如月を睨むと、如月は悪戯に笑う。
 まったくこいつは……というような目で如月を見ている大月。そんな大月を見上げている桜は、どこか清々しい顔をしている。
 今の桜には、不安とかそういうものは一切なかった。ただ、もう一度好きなものが出来るのだという気持ちで一杯で、すごくワクワクしていた。
 ビーズで何を作るのだろう。
 動物かな? 人間かな? はたまた星とかハート型のネックレス? 指輪でもいいな。
 そんなことを思いながら、桜は軽い足取りで校庭にある手芸部まで歩いて行った。

09年4月19日

小説「天の神様の言うとおり」後編

 世の中には、完璧な人間なんか一人もいない。と、先日十六歳の誕生日を迎えた宮本桜は思う。
 運動音痴、成績もまぁまぁ。これと言って何の取りえもない。そして絶望的に、桜は不器用である。
 美術も家庭科の授業も、桜にとっては地獄のような時間だった。
 小学校の時は、まだ自分がそんなに不器用だなんて気づいていなくて、手芸部に入部したりして、周りの素晴らしい作品に、目を丸くして、心躍らせて。自分も練習すればあれぐらい作れるようになるのかなとか勘違いしたりしていた。
 中学に上がれば、文化部は一つもなく、渋々テニス部に入った。だけど運動が苦手なことはとっくの昔に自覚してたので、当たり前のようにすぐ音を上げた。
 そして桜はある時気づいたのだ。家庭科の授業中に。
「私、実は不器用だったのか……っ」
 小学校時代からの親友、浅川由紀が、え、今更気づいたの?というような目で桜を見ているような気がした。
 そして今年の春、桜と由紀は同じ高校に進学した。クラスも離れずにすみ、楽しいスクールライフの幕開け、のはずだった。
 そう、あの時までは。
「桜ちゃん、せっかくだから何か部活入ろーよ」
「え、部活? でも私……」
「分かってるよ、運動系も文科系もダメって言うんでしょ? でも桜ちゃん、私パソコン部に入りたいんだ。そこね、別に特別な活動も何もしてなくて、インターネットとかで遊びたい放題なんだって。ね? だから、桜ちゃんでも大丈夫だと思うんだ。家でパソコンやってるんでしょ?」
「あ……うん」
 桜が頷くと、由紀はにこりと笑う。
 本当は帰宅部でいいやと思っていたのに、由紀が急にそんなことを言い出すとは、予想外だった。親友の頼みでは、断りづらいじゃないか。
 桜と由紀は早速その日の放課後、入部届けをパソコン部の部室まで持って行った。
 中に入ると、みんな楽しそうにおしゃべりをしながら、それぞれの時間を過ごしていた。
「あのっ」
 由紀が果敢にも、顧問の先生と思われる男性に声をかけ、二枚の入部届けをその人に渡す。先生はそれを笑顔で受け取り、とある生徒に声をかけた。
「こいつは川崎早人。パソコン部の部長だ。まぁ、先輩だが仲良くやってくれ」
「よろしく」
 川崎早人は小さな声で呟くと、軽く頭を下げた。
 桜も由紀も、慌てて頭を下げる。
「そこ使って」
 川崎が指定した場所は、日光を遮る暗幕が掛けてある窓側の席だった。部員は桜と由紀を入れて、十人だそうだ。
「電源の入れ方教えるから、あとは適当にやって。できるでしょ?」
 川崎の言葉に、桜も由紀も頷くしかなかった。
 川崎の説明はすごく淡々としていて無駄がなく、すぐ終わった。あとは本当に放置だ。
「ね? 言った通り何も特別なことはしないみたいでしょ?」
 由紀の耳打ちに、桜は頷きながら安心感を抱いた。
 これだったら大丈夫だ。
 あの中学校三年間の地獄の日々からようやく解放される日が来たのだと、桜が新たな気持ちでパソコンの電源を教えてもらった通り入れた瞬間だった。
 突然、部室の扉が開いた。
「早人先輩、ちょっと使わしてー。調べたいことあんだけどー」
 入ってきたのは、金属を体の至る所に付けた、まるでヤンキーみたいな少年だった。しかし髪の毛は黒く、ピアスも見当たらない。ただシルバーアクセサリーがやたらキラキラと光っていた。
「今日は何だ」
 川崎は少し鬱陶しそうに、その少年を見ながらずり落ちてきた黒縁眼鏡を人差し指でくいっと上げた。
「やー、ちょっとこの間駅前の店行ったら取り扱ってないとか言われて、業者に頼むしかねーかなーって」
「……勝手に使え」
「おー! やりー! あんがと先輩!」
 少年は川崎の了解を得ると、桜の隣の席に座った。桜は少し気になったが、少年と目を合わせないように必死で画面に視線を向けていた。
 インターネットに繋ぐと、桜は何のページを開こうかと、由紀の方を見る。由紀は大好きなアニメの公式サイトを見ているようで、顔がにやけていた。
 桜は仕方がなく、検索サイトのトップページのニュースを流し読みする。
 特に興味を惹かれず、桜は見ないようにしていた左隣をふと見てしまった。
 少年が見ていたのは、ペーパークラフト関連のページだった。
 写真で作品が紹介されていて、桜はついそれに見入ってしまっていた。どれも完成度が高かったのだ。
「何?」
 画面に釘付けになっていると、少年が桜を一瞥した。
 桜ははっと我に返り、何でもないですと、首を横に振った。
変に思われただろうか。
「もしかして、興味あんの?」
「え? な……ないです」
「ふーん」
 それきり、だんまり。
 桜は居心地の悪さを我慢して、先程の続きを読む。
『四歳の女児殺害……』
 そんな見出しを見て、なんとなく物騒な世の中になったなぁと思う。
 左隣が立ち上がりそうな気配を感じたので、桜は思わず身構える。
「……なぁ、ちょとこいつ借りてくぞ」
「へ?」
 少年は、突然そう宣言すると桜の左腕を掴んできた。
 桜は驚愕して目を丸くする。
「え、え?」
 桜は動揺していた。
 こんな、誰かも分からない怖そうなお兄さんに突然そんなことを言われたのだ。どうしろと言うのだろう。
 誰かに助けて欲しくて、桜は右手を伸ばす。
 由紀も驚いた顔で、その手を掴もうとしてくれているが、少年に制止される。
「ちょっと!」
 無理矢理立ち上がらされた桜は、少年を見た。
「行くぞっ」
 少年はそう言うと、桜の手を引っ張って、どこかへ連れて行く。
 パソコン部に由紀を残したまま。

 桜が半ば引きずられるようにして連れてこられたのは場所は、校庭だった。
 グラウンドでは野球部とサッカー部が仲良く分け合って活動している。
「そーいや、名前聞き忘れてた。俺は如月楓。君は? 一年だよな」
「あ……はい。宮本桜です」
「しっかし小っせえなー。とてもいっこ違いとは思えん」
 如月がまるで品定めするように、桜のことを下から上までじろじろと見てくる。
 一体何だと言うのだろう。
 背のことを言われて、桜が少しムッとした時だった。
「おい、そこで何やってんの楓。あんたアレ調べに行ったんじゃなかったのか? 随分早いな」
 少し言葉遣いの荒い、綺麗な顔だちの少女だった。髪の毛はセミロングで、光沢のある栗色をしている。
「おー、丁度よかった。倫、紹介したい奴がいるんだ。宮本桜ちゃん、一年生。手芸部に興味があるんだって」
「えっ、違います」
 如月の言葉に、桜は急いで否定した。
 

 校庭の隅っこに、その部はあった。
 校舎の軒下に、木製の長机とパイプ椅子が一つと三つ。机の上には大きな紙と、裁縫道具と何枚かの布。そして編みかけのレース。
 これはどう見ても、手芸部だった。
 しかし何故こんな校庭の隅で活動しているのだろうか。
「あらー、可愛らしい一年生ね。私こんな可愛い子なら大歓迎よ。私はこの手芸部の部長、三年の星井透。よろしくね」
 髪の毛が肩まで届きそうな程長い、妙に女言葉の男だった。
 これは所謂、オカマってやつか?
 握手を求められたので、桜はとりあえずその手を軽く握る。
「さっ、遠慮しないで桜ちゃん。ここに座って。ようこそ、手芸部へ」
 桜は星井にパイプ椅子に座らされた。
 目の前には、先程声を掛けてきた少女が、針と糸と布を持って座っていた。
「倫ちゃん、体験者用のビーズセット、どこにあったかしら」
「えーと……。確かカンカンの中だろ」
 言いながら、倫と呼ばれた少女は、桜に興味なさそうに布に通した針を引いていた。
「大月倫」
「え?」
 突然ポツリと言われたので、桜は思わず聞き返す。
「あたしの名前。楓の馬鹿が言わなかったから。それよりお前、ホントは楓に無理矢理連れてこられただけだろ。嫌だったら帰っていいぞ」
 大月の言葉に、桜は少し安心した。
 如月に連れてこられたこの場所で、桜は不安で仕方がなかった。
 けれど味方がいた。という事実に、桜は安心したのだ。
 帰ってもいい。
 早くパソコン部に戻らないといけない。由紀がきっと心配している。
「おい倫、お前余計なこと言うなって。お前はこの部が無くなってもいいってのかよ」
「それは困るけど、本人の自由だしなぁ」
 大月がそう言って、桜の方を見る。
 桜は大月と目が合うと、すぐさま目を逸らした。
 手芸は……今は桜にとって嫌なことでしかない。
 昔は確かに憧れていた。
テディベアとか、キャラクターの縫いぐるみとか。そういうの、自分で作れたら素敵だなぁって思っていた。
だけど今は――。
「あの……っ私……か、帰ります。勝手に出てきて、迷惑掛けちゃったと思うし、私もう、パソコン部に入部したんで、無理です」
「えー、帰っちゃうの? 寂しいなぁ。でも仕方ないわね、パソコン部の人には色々お世話になってるし、迷惑掛けられないわよね。もー、ダメじゃない楓君」
 星井が丁度探し出せたのか、持っていた缶の箱で、如月を軽く叩いた。
 バコッという音と共に、缶の箱の底が少し凹む。
「いってー」
 如月が頭を押さえるのを見ると、桜はゆっくりと椅子から立ち上がり、じっと如月を見た。
「部活は二つでも三つでも入っていいんだよ。何でやらないんだよ、やりたくねーのかよ」
 桜は、肩を震わせ、拳に力を入れた。
「私……っ手芸なんか興味ないです。むっ……むしろ嫌いです」
 それだけ言って、桜はパソコン部に戻ろうと、小走りで校舎の中に入って行った。
 手芸なんか嫌いだ。やりたくなんかない。
 まるで自分に言い聞かせるように、何度も何度も心の中で復唱する。
 パソコン部の部室に戻ると、扉が全開だった。
 中を覗いてみると、部員が帰り始めていた。どうやら誰かが扉を全開にしたまま帰って行ったらしい。
「あ! 桜ちゃん、大丈夫? よかった無事に帰ってきて。心配してたんだよ」
「うん。ちょっと大丈夫じゃなかったけど、大丈夫。心配掛けてごめんね」
 桜が言うと、由紀は安心したように微笑した。
「二人とも、今日はもう帰っていいぞ」
 川崎部長が、眼鏡をくいっと持ち上げて、少し面倒臭そうに言った。

「桜。今日もお母さん遅いから、夕食作っといてってさ。あんたが」
 自室でお気に入りの小説を読んでいると、桜の二番目の姉、椿が戸を開けて言った。
「えー。ダメ、絶対! 料理は無理」
 桜は本を右手に持ちながら、両手を交差させてバッテンを作る。
「んなこと言われてもさー。あたしだって今忙しいんだよ。姉ちゃんまだ帰ってこないしさ。あんた暇でしょ?」
「ひ……暇じゃないよぉ」
 桜は三人姉妹の末っ子だ。一番甘やかされて育ってしまった。
 両親は共働きで、今日のように頼まれることは多々ある。
 昔はやる気が少しはあり、作ろうとしていたが、料理も下手だと気づき、それ以来余りやろうとしなくなってしまった。
 どうして皆、やれやれと言うのだろうか。
 桜は何も出来ないのに。
「……ったくう。いいからあたしの手伝いをしなさい」
 椿の命令に、頬を膨らませ、桜は渋々本を閉じた。
「椿姉、何作るの?」
「んー、酢豚。ほら、ぼさっとしてないであんたも冷蔵庫からレタス出して、サラダ作りな。それぐらい出来るでしょ?」
「うん」
 言われたとおり桜がレタスを千切っていると、突然玄関の呼び鈴が鳴った。
「ちょっと出てー」
「えー」
「今手が離せないんだっつーの。さっさと出ろ!」
 軽く怒鳴られたので、桜は渋々玄関へ向かう。
 椿は怒らせると怖いのだ。それは十六年間妹をやっている桜が一番知っているつもりだ。
 呼び鈴がせかすようにもう一度鳴る。
「はーい」
 ガチャリ、と少し重たい扉を開けた。
「こんばんは」
 そう言って、右手をあげて立っていたのは、もう二度と会いたくないと思っていた人物。如月楓だった。
「な……何で……ここに」
 突然のことに、桜は呆気にとられた。
「いや、瑞穂ちゃんにダメもとで調べてもらったら、案外家近くてさ。あ、瑞穂ちゃんっ
てのは、白上先生のことだ。あの人手芸部の顧問でさ、実は俺の従姉妹で」
「か……っ帰って下さい。何しに来たんですか」
 桜は扉の取っ手を強く握る。
「どうしても諦めきれなくてな。何で嘘吐くの」
「何のことですか」
「興味ないとか、何で嘘吐くの。何か理由でもあんのかよ?」
 桜は絶対に如月と目を合わせなかった。
 怖いのだ。目を合わせたら全て見透かされそうで。
 扉の隙間から、夕焼けの光が差し込んでくる。
「……何で、嘘だと思うんですか」
「……だったら、何であの時興味津々にパソコンの画面、見てたの?」
「……っ」
「俺にはあの時のお前の目が、キラキラしてるように見えた」
 図星で、桜は何も言い返せなくなった。
 しばらくの沈黙。それを破ったのは、キッチンから妹の様子を見にきた椿だった。
「桜―、あんたいつまで何やって……って」
「ん?」
「やだー、あたしてっきり隣のおばさんが回覧板でも回しに来たのかと思ってたのに。
あらまぁ、桜ちゃん、もしかしてお友達? それとも知らない間に彼氏でも出来ちゃっ
たのかしらん? お姉ちゃんに紹介してー」
 椿が猫なで声で桜の肩に手を置いてくる。
 この猫被りめ。
「あー、もしかしてお姉さん? やー、美人ですね。どうも、自分は如月楓って言います。ちなみに、彼氏でも友達でもなく、ただの学校の先輩ですから」
 二人とも、急に態度が変わったなぁと思いながら、桜はこのままフェードアウトしよ
うと後ずさる。
「そうだ、楓君夕食まだ? よかったら食べてく?」
「え、いいんすか?」
 椿の突然の申し出を、承諾する如月。
 おいおい、そこは断ろうよ。
 図々しくも宮本家ヘ上がり込んだ如月は、キッチンの長テーブルの椅子に我が物顔で
座っていた。
 如月に今日の騒動を聞いた椿は、桜のことを呆れたように見えてくる。
「いいじゃない、手芸部入っちゃえば。何でそんなに嫌なの? あんた」
 桜は配膳をしながら、ずっと口を噤んでいた。
 言えるわけがない。もし言ったら、きっと椿と如月に盛大に笑われるだろう。
「おねーちゃんにも言えない理由なの?」
 椿が桜の顔をじっと見てくる。
 桜は目を逸らした。
 何とか。何とかこの場から今すぐ逃げ出したかった。
 席に着くと、如月がじっと桜のことを見てくる。
 きっと今、桜の目玉は右往左往しているだろう。
「な……っ何……ですか」
 桜は恐る恐る聞く。
「いや……もしかして、怖いのかなって思って」
「怖い……? あー……楓君が?」
 言いながら、椿も桜の隣の席に座った。
「え、俺? いや、違くて」
 椿の発言に首を横に振る如月。言葉を続ける。
「物を作るのって、確かに楽しいけど、実はすごく勇気がいることで。これは俺が思うこ
となんだけど、簡単な作りに見えるものほど、何か難しくて、上手く作れなくて。でも、
それがすごく俺は楽しい。こういうの人それぞれだから、もしかして桜には、それがすご
く怖くて、やろうとしても、怖くて手が出せずにいるんじゃないかって思うんだけど……
違うか?」
 如月の問いに、桜はゆっくりと頷いた。
「けど……少し違う。私……私が、手芸が嫌いなのは」
 そこまで言って、桜はまた黙った。
 少し違う……本当に? 本当に少し違うのだろうか。如月の言うことは、本当は的を射
ているのではないだろうか。
「……っ」
 桜が急に立ち上がったので、椿と如月が驚いて目を丸くしている。
 桜は決心した。
この状況を打破するための方法を思いついたのだ。けれどそれは、自分の恥だと思うこ
とを二人にさらけ出さなければならない。
だから桜は覚悟を決めた。
とことん逃げるために、二人にあれを見せると、決めたのだ。
「ちょっと、待ってて」
 急ぎ足で桜は自室に向かった。そして机の引き出しを必死に探る。
ずっと封印してきた、あの時からずっと封印してきたものが、そこにあった。
右手がふわふわした何かに触れる。見なくてもすぐ分かる。
桜の、嫌な思い出。
「……はい」
 桜は沈んだ顔をして、如月にそれを渡した。
「……何これ。……ブタ?」
 それはピンク色の、本来ならウサギの小さなマスコット。
 桜が手作りしたものだ。
「やっぱり、ブタに見える?」
 如月の反応に、桜は椿を見る。
「どー見てもこれはブタだねぇ」
「もしかして、自分で作ったの? これ」
 如月の問いに、桜は静かに頷く。
 やっぱり見せるんじゃなかった……っと、桜が後悔しかけた時だった。
「やっぱ、俺の思った通りだ。なかなか上手いじゃねーか。このブタ」
 そう言って、如月が笑ったのだ。
 馬鹿にするような、そんな笑いじゃなく、まるで何か愛おしいものを見つけた時のような、そんな優しい微笑みを、如月が見せたのだ。
「な……ブ、ブタじゃなくて、ウサギを作ったつもりなんですけど……」
「え、ウサギ? いやブタだろ。でもウサギがブタになって、ブタとして見ると上手いってことは、ある意味才能だ」
 うんうんと、如月は一人で納得していた。
「はぁ? これのどこが才能なんですか。見ての通り、それぐらい下手くそだってことですよ? 私はそれぐらい不器用で、何も出来ないんです。私は、普通以下の人間なんです。だからもう……」
「よし! お前、明日手芸部に来い!」
「へ?」
 如月は糸が解れまくって、隙間から綿が出まくっているピンクのウサギ(ブタ)をテーブルの上に置くと、出された料理を一気に食堂へかっ込み始めた。
「ちょっ……ちょっと待って下さい、話聞いてっ」
「いいじゃない、行きなさいよ。それと、とりあえず今は食べな。せっかく作ったんだから。ね」
 椿にそう言われ、桜はひとまず食事をすることにする。

 次の日の放課後、桜は由紀に協力してもらい、如月から逃げることにした。
「じゃあ、部長さんにも上手いこと言っておくから、安心して」
「うん、ありがとう由紀ちゃん」
 正直、今日一日はずっと冷や冷やしていた。
 放課後が来てほしくなくて、由紀と話すことで気を紛らわせたりしていた。
 昨夜のことを由紀に話すと、由紀は快く桜に協力してくれると言った。
 桜は、良い親友に巡り合えて良かったなぁと思う。
 由紀はたった一人の桜の理解者だ。
『こっちにはまだ来てない』
 由紀からのメールだった。
 学校内でメールをするのは、本来なら校則違反なのだが、意外にチェックは緩いので見つからなければOKだ。
 桜は今、女子トイレの中にいる。
 そこが一番安全だと踏んだのだ。
『ありがとう。来たらメールして』
 メッセージを送信すると、桜は一息吐く。
「……ヴ」
 トイレというのは、異臭のする場所だ。いくら消臭剤が置いてあるとは言え、臭い。
 便器が凄く汚れているわけでもないのに、何なのだこの臭いは。
 桜はついに耐えられなくなり、戸を開ける。
「あれ、お前昨日の……」
 声がしたので横を見ると、丁度トイレに入ろうとしていたのか、そこには昨日会った手芸部の部員、大月倫の姿があった。
 予想外のことに、桜は軽くパニックになり、再び戸を閉めようとするが、トイレの戸を大月ががっしりと掴む。
「ちょっと落ち着けって、あたしゃ何もしねーから。出てきたんじゃねーのかよ。おい、ちょーどよかったぜ、話したいことがあるんだ」
「は、話?」
 桜は戸を掴んでいた手の力を抜く。
 大月はその長い黒髪をなびかせながら頷いた。
「瑞穂ちゃんに聞いたんだ。昨日の夜、楓の奴お前の家に押し掛けたんだって? まさかそこまで真剣だったとは思わなかった。瑞穂ちゃんが迷惑掛けたって、謝ってたぞ」
「あ……いえ……」
「お前、今楓から逃げてんだろ? 悪いな。あたしからも謝っとく。楓には、首に縄付けて動けなくしておくから、もうパソコン部戻りな」
 ――あっさりだった。
 昨日までのこの不安を、彼女はこんなにもあっさりと解いてくれたのだ。
「じゃあな」と言う彼女の後姿に、桜は思わず見惚れてしまっていた。
 と、突然桜の胸ポケットに入っていた携帯電話が振動を伝える。
『やばい、来た』
 メールの文面は、それだけ。
「ん? どうした?」
 振動の小さな音に気付いたのか、大月が振り向いていた。
「……あの人が、パソコン部に私を迎えに来たそうです」
 胸が、携帯の振動と同じに震えていた。
 大月がそれを聞いて、溜息を吐く。
「……ったく、あの馬鹿」
 そう言って、恐らく大月は如月を止めにトイレから出ていく。
桜は大月の後ろを付いていった。

「帰って下さい。桜ちゃんはご覧の通りここにはいません」
 あそこの角を曲がればパソコン部の部室の前だ。というところだった。
 突然桜の前を歩いていた大月が立ち止まる。
「?」
「ちょっと様子見ようぜ」
 立ち止まったことに、桜が首を傾げると、大月が言う。
 壁から二人で顔を覗かせて、高みの見物でもしようじゃないかと大月は言う。
 如月と由紀は、部室の前で対峙していた。
 桜たちから見ると、如月の背に、由紀の顔が見えるという立ち位置だ。だから由紀に見ていることを気づかれないようにしなければならなかった。
 いや、由紀は気づいているのかもしれない。
「じゃあ、戻ってくるまでここで待ってるよ」
「帰って下さい」
「嫌だ」
「……っいい加減にして下さい! 何で分からないんですか!」
 如月のわがままに耐えきれなくなったのか、普段は大人しい子で通っていたはずの由紀がついに叫んだ。
「桜ちゃんはパソコン部に入ったんです。パソコン部員なんです! 何でそこまでこだわるんですか。はっきり言って迷惑してるんです、こっちは!」
「……じゃあ何で?」
「え?」
「何であいつがパソコン部に入ったのか、あんたは知ってる? 俺にはどうしても納得いかない」
「それは……」
 きっと自分が言ったから。と、由紀が言おうとしているのが分かった。
 一瞬だけ、桜は由紀と目が合った。
「あいつはここに入りたくて入ったんじゃねーよな? 大方、あんたが誘ったんだろ? 親友に誘われたんじゃ、断るわけにゃいかんよな。あいつはそういう奴だ」
 どうして如月は自分のことがああも分かるのか。
 桜は少しだけ胸が痛んだ。
「あの時……。あいつが、すげー真剣に見てたのが俺の画面じゃなったら、俺はあいつと全く関わることなくいたかもしれねー。けど、あの目を見て確信した。あいつは嘘吐いたけど、本当は手芸がすげー好きなんだって」
 如月の言葉に、桜はあの時のことを思い出していた。
 ペーパークラフトの、あの素敵な作品たち。
 どうやって作ったんだろうという、あのワクワクする気持ち。もう、堪らなかった。
「あんたは、あいつが手芸部に入るの反対してるわけ? あんたは俺より、もっとあいつのこと分かってるはずだろ? あんたは見てきたんだろ? あいつのこと」
 そう、見てきたはずだ。
 由紀は知ってる。桜がどれだけ楽しそうに物を作っていたか。自分が不器用だって自覚して、桜がどれだけ落ち込んでいたのか。
 由紀は見てきたはずだ。
「私……。桜ちゃんのためにって、パソコン部に誘っておいて、あなたが現れたとき、何も出来なくて、悔しくて……。本当は分かってる、桜ちゃんが逃げてること。本当は……逃げてちゃダメなこと」
 由紀の視線が、桜の方に向けられているのが分かった。
「ダメだよ……。ダメなんだよ、いつまでも逃げてたら、一歩も前に進めないよ……ねぇ、桜ちゃん」
「ん?」
 由紀が桜を呼び掛けたので、如月が由紀の視線を追うように、振り向く。
 如月が振り向き、桜と大月の姿に気づいた。
桜は大月に背中を押され、二人の前に全身を見せる。
「あ……」
「私っ桜ちゃんが本当にやりたいことを、やればいいと思うよ。本当は、桜ちゃんだってやりたいんでしょ? 手芸」
 由紀の瞳が、真っ直ぐに桜を捉えていた。
 桜は拳に力を入れて、目を伏せる。
 桜のやりたいこと。
 手芸をやるのは、正直言ってまだ怖い。
桜は不器用だ。
絶望的に不器用だ。
けれど、そんな自分でも、本当にやっていいのだろうか。
「器用とか、不器用とか関係ねーよ。やりたければやればいい」
 如月が言う。
「今からでも……遅くないかな?」
 やっと、桜は顔を上げる。上げられた。
「ああ。年齢なんて関係ねーよ」
 如月が頷く。
「じゃあ、体験入部だけなら……」
 桜が言うと、後方にいた大月が、桜の頭の上に右手を優しく乗せてきた。
 そしてそのまま頭を撫でられる。
「だけ、だけじゃ済まなくなるぞ」
「それでもいいです。やっぱり、やりたいです」
 そう、やっと認められる。認めてやろう。
 手芸が、好きだ。
「あーあ。あなたは私から桜ちゃんを奪っていくんですね。ムカつく。知ったかぶって」
「あれー、もしかして嫌われちゃったかな? 別にいいけど」
 由紀が如月を睨むと、如月は悪戯に笑う。
 まったくこいつは……というような目で如月を見ている大月。そんな大月を見上げている桜は、どこか清々しい顔をしている。
 今の桜には、不安とかそういうものは一切なかった。ただ、もう一度好きなものが出来るのだという気持ちで一杯で、すごくワクワクしていた。
 ビーズで何を作るのだろう。
 動物かな? 人間かな? はたまた星とかハート型のネックレス? 指輪でもいいな。
 そんなことを思いながら、桜は軽い足取りで校庭にある手芸部まで歩いて行った。

08/9/18