小説「残酷な贈り物」

 絵美子は十九歳になる地味でややぽっちゃりとした女の子だった。彼女は田舎の出身で今は町中の大学に通いながら週に三日ほど洋食屋でウェイトレスのアルバイトをしていた。そこは『マーブル・シープ』という六人がけのカウンター席と、四人がけのテーブル席が七つほどの小さな店だった。
 絵美子は店のそばにアパートを借りて一人暮らしをしていたが、これといった趣味や、友人を持ち合わせていないために孤独な毎日を送っていた。彼女は昔から友達を作るのが苦手で、割ときれいであるにも関わらずに今まで恋人がいたことはなかった。一九歳というすてきな年頃であるにも関わらずに毎日が学校と家、家とバイト先の洋食屋の往復で、恋人など夢のまた夢だった。バイトをしていたのは生活費やお小遣いのためではなく時間をつぶすためだった。つまり家にいてもやることがなかったのである。彼女は裕福な家の出身で実家から十分な仕送りをもらっていたので金銭的には不自由がなかった。
 そんな絵美子にも一つ気になっていることがあった。それは二ヶ月前から毎週金曜日の晩になると訪れるある男性客のことだった。その男は三十代前半くらいの背の高い美男子で少し長めの黒い髪を真中でわけていつも細身のスーツをかっちりと着ていた。賢そうだがどこかほの暗い感じの痩せた男だったが、そのほの暗さがかえって男を魅力的にしていた。絵美子は少女時代に二歳ちがいの兄の部屋にあった少年マンガを読んで育ったせいか影のある知的な感じのする男が好みだったのである。男は絵美子の理想を絵に描いたようであった。
 その男は毎週金曜日の午後九時を過ぎたくらいにカッチリとしたスーツ姿でやってきた。注文するものはデミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグセットを二人前と決まっていた。一人なのに。別に大食漢というわけではない。むしろその男は小食で、出された料理を全て平らげたことは絵美子の知る限り一度もなかった。男はどういう理由からかハンバーグを二つ頼んでその一つをただ目の前に置いておくのである。
 男はいつも無理やりクギを食わされているかのような暗い面持ちでそれを食べた。そして食べ終わると勘定の際に「ごちそうさま」と力ない笑みを浮かべて出て行くのだった。思わず憐れみをかけたくなるような寂しげな笑みをうかべて。絵美子はその男のそんな笑顔が好きだった。彼女はその男の会計を担当する度にこう思うのだった。きっとこの男の人は、病気や事故で奥さんか恋人を失くしたんだわ。それで毎週、その人の命日になるとここにきてハンバーグを二つ頼むんだわ。きっとここはその人との思い出の場所なんだわ。初デートで来たとか。結婚記念日を祝うために来たとか。私がここで働き始めたのは八ヶ月前だけど、その前はきっとその人と二人で来てたんだわ。ひょっとしたら子供はいるのかしら? 私みたいな女は好みかしら? でも年がちがいすぎるかしら?
 彼女が死別した恋人なり奥さんなりのためにそうしていると思うのにはわけがあった。それは一度、他にもう一人だけいるアルバイトの女が彼に「どうして食べないのに二人前も頼むのですか?」と尋ねたという話を耳に挟んだからだった。その女が店の奥さんに話していたことによると男はチラッと女を見て溜息交じりに「聞かないで下さい」と言ったということだった。悲しげな笑みをたたえて。こう言うとその女もその男に好意を持っていたように聞こえるがそれはちがう。女が男にそう尋ねたのは誰しもが持つであろう純粋な疑問を気まぐれにぶつけてみたに過ぎなかった。その女は二十八歳の醜い女方のレズビアンで男に興味はなかったのである。
 一方、店の経営者であり料理人である中年夫婦はこの世にごまんといるであろう奇人の一人くらいにしか思っていなかった。せっかく作った料理をまるまる残されても勘定さえちゃんと払ってくれればどうでもよかった。ありがちな友情から連帯保証人になったばかりに背負い込んだ多額の借金のために他人のことをかまうには疲れすぎていたのである。この店の従業員の仲があまりよくなく、必要最低限のことしか話さないのは容易に想像がつくだろう。『マーブル・シープ』は割と繁盛しているにも関わらず、店の空気はあまりよくなく従業員はいつも胃痙攣を起しているような笑みを浮かべていた。しかし、これは何もこの洋食屋だけではあるまい。生計を立てるための場所というのは少なからずそういうものなのである。
 むろん絵美子もこの店の雰囲気と仕事が好きではなかった。前にここで働いていたフリーターや、学生と同様に辞めようと思うことも多々あった。しかし、日に日に大きくなっていく恋心がそれを隠した。彼女はどんどん金曜の晩を心待ちにするようになり、昼夜を問わずにその客のことを考えるようになった。孤独な生活がなおさらそうさせたのである。彼女は男と自分が肩をよりそいながら歩く姿を想像して天に昇り、やはり自分には無理だと思って地獄に落ち、日に何度も破滅と再生を繰り返していた。心愉しい『地獄の季節』だった。
 当然彼女は男を見る度にもう一人の女のように男に話しかけようとした。しかし、実際にはただ注文を聞いて、それをテーブルに運んで、レジを打つだけだった。兄と父以外の男に自分から話しかけるというのは絵美子にとって、素手でライオンと戦うようなものだったのである。だが、ある金曜の晩、絵美子はとうとう勘定の際に男に話しかけた。持てる勇気を振り絞って。彼女は話そうとして、話せないでいる自分に対してガマンができなくなっていた。膨らみすぎた妄想がはけ口を求めていたのかもしれない。
「あの・・・・」
 絵美子がうわずった声でそう言うと男は驚いた様子で彼女を見つめた。目があった絵美子は感じたことのないような衝撃が背筋に走るのを感じて何を話していいのかがわからなくなった。頭に血が上るような、頭の中が真っ白になるような感じだった。
「何か?」と男は言った。
「あの・・・・」彼女は時間稼ぎのために再び同じ言葉を繰り返した。言うべきことを探すために。「どうしていつも二人分も頼まれるんですか・・・・」
 彼女は言ってからハッとした。そんなことはこの男の勝手じゃないかと思った。何で、ここら辺にお住まいなのですか? といったことを聞かなかったのか?
 男は一瞬、うつむいた。しかし、絵美子がしまったと思う間もなく顔を上げるとニッコリとほほ笑んだ。イタズラのばれた腕白少年を思わせる、うれしいようなバツが悪いような笑みだった。
「実は・・・・」と男は言った。「あなたが、そう聞いてくれるのを待っていたんです」
 絵美子は一瞬、自分の耳を疑った。驚きのあまり何も返すことができなかった。
「前に偶然ここに来た時に、あなたを見て一目惚れしたんです」と男は続けた。「それであなたの気を引こうとしていたんです」
 絵美子は呆然としていた。うれしかったが実感がわからなかった。まるで一夜にしてロスチャイルド家をしのぐ富豪になってしまったような気分だった。なったのではなくて。
 男は店内を見渡した。奥の厨房から汚れたエプロンをつけた店長がいぶかしげにこっちを見ているのがわかった。そこで何をしてやがるんだ! 俺はおまえが客とおしゃべりをするために時給七五〇円もの高い金を払ってるわけじゃないんだぞ! と言わんばかりに。この店では従業員と客が親しく話すことを禁じていた。それは以前ここで働いていた香村慎一というバンドマンの男が客の女性に手を出して問題になったことがあったからだった。寝取られた男が店に押しかけてきて、客がいるにも関わらずにのべつまくなしの暴言を吐いたのである。ありがちな話だが。
「よかったら」と男は言った。「店が終ってからゆっくりお話しませんか?」
「はい・・・・」と絵美子は夢の中にいるような気持ちで言った。「でも、終るのは、十一時過ぎですよ。後片付けがありますから・・・・・」
「待ってます。終ったらそこの酒屋の前に来てください」
男は右手の親指で小さく外の通りを指さした。絵美子の店の斜め前には十台分の駐車場を兼ね備えた大きな酒屋があった。彼女の住む地域は町なかからいくらか離れた比較的落ち着いた場所だった。
「わかりました・・・・」
「では、お待ちしております」
 男はほほ笑むと店を出て行った。絵美子はしばらくジッとドアを見つめてから再び仕事に戻った。夢の中で起こっていたようなことが徐々に現実だとわかってくるにつれて彼女はドキドキしてきた。男が自分の注意を引くためにずっとハンバーグを二人分注文していたというのがとてもドラマティックに思えた。彼女は時計の針が早く進むことを祈りながらいつもよりも夢中に後片付けをした。この日、バイトは彼女一人だったが、その働きは二人分をはるかに上回っていた。下らない仕事が楽しく思えた。彼女がこんな気持ちを味わうのは初めてだった。
 運よく店はいつもよりも少しだけ早く終った。彼女はさっさと着替えを終えると、通りを渡って約束の場所に行った。その店はもう何時間も前に閉店していたが駐車場には一台だけ車が停まっていた。車種はわからなかったが白くて高そうな車だった。
絵美子があの車かしら? と思う間もなく中から男が降りてきた。男は絵美子に手を振りながら言った。
「おつかれさまでした」
 絵美子は頭を下げると男の元に歩いていった。薄暗がりの中で見る男は店の中で見る時よりもずっとハンサムに思えた。夜の闇と、青白い外灯の光が男のほの暗い魅力をいっそう輝かせていた。彼女は男がいい匂いのする香水をつけているのに気づいて自分の匂いが気になった。厨房の中のように油臭くなければいいんだけど・・・・こんなことならスカートでもはいてくればよかった。ジーンズに安物のブラウスじゃなくて・・・・・せめてコンバースじゃなくて一足だけ持っているパンプスにしておけば・・・・
「食事はまだですか?」と男は優しい口調で言った。
「はい」と絵美子は言った。店にはまかないがあったが彼女は食べたことがなかった。有料だった上に値引きもなかったからだ。
「では、食事に行きましょう」
 男はそう言うと車の反対側に歩いて行ってドアを開けた。絵美子はなんと素敵な人なんだろうと思いながら助手席に乗り込んだ。まるで名だたる女優かお姫さんにでもなったかのような気分だった。「でも、さっき食事をされたのでは?」という言葉は浮かばなかった。男性に優しくされることに慣れていなかったのでのぼせあがってしまったのだ。
 男はそっとドアを閉めると運転席に乗り込んでエンジンをかけた。そして手慣れた感じで人通りの絶えた通りに出るとハンドルとダッシュボードの間を指して言った。
「耳障りじゃありませんか?」
「いえ」
 カーステレオからは小さな音でビートルズが流れていた。どのアルバムか、なんという曲かはわからなかったがビートルズだった。
「ビートルズはお好きですか?」
「はい」
 ビートルズをまともに聞いたことはなかったが、彼女はそう言った。本当は犬神サーカス団が好きとは言えなかった。彼女は二歳年上の根暗な兄の影響でそういった音楽が好きだった。彼女は今日も出がけにそのバンドの『自殺の唄』という曲を聴いていた。鏡の前でそのバンドの女性ボーカリストの真似をしながら。憧れていたのである。
「よかった」男はそう言うと笑顔で彼女を見やった。「ところでお名前をうかがってもよろしいですか?」
「大西絵美子です」
「いい名前ですね。どんな字ですか?」
「絵に美しいに子供の子です」
「ますますステキだ」と男は言った。「あなたによく似合ってます」
 絵美子はうつむいた。うれしかったが恥ずかしかった。世慣れた女性なら冗談の一つも言えただろうが、彼女にはどうすることもできなかった。彼女は一瞬、男に下心があるのではないかと思ったが、自分にそれだけの魅了かあるのかを疑問に思い、すぐにその考えを捨てた。
「僕は村上隆一郎と言います」
「ステキな名前ですね・・・・・」
「ありがとう」と男は言った。「ところで、おいくつですか?」
絵美子は一瞬ためらってから言った。「十九です」
「若いですね、僕より五つも若い」
「えっ、じゃあまだ二十代半ばなんですか?」
「そうです。二十四です。よく三十代と思われえますけどね」
 絵美子は驚いた。しかし、同時に親近感を覚えた。五つほどの年の差ならたいしたことがないように思えたのだ。言われてみれば男の肌や髪の質感は二十代になったばかりの兄と大差がなかった。
「ところで食べれないものは何かありますか?」と男は言った。
「いえ」と彼女は返した。
「パスタは好きですか?」
「はい」
「よかった。じゃあ、あそこに行きましょう。たまに食べに行くところがあるんです」
 男が向かった先は『バンビーノ』という小さいが雰囲気のいいイタリアンレストランだった。そこは眺めのいい小高い丘の上にあって深夜まで営業していた。外壁はイギリスのコテージを思わせるレンガ造りだが、内装は日本の古民家を思わせる白い漆喰とチョコレート色の板でできていて、天井からは古めかしいガラス製の傘をかぶった裸電球がいくつもたれていた。値段は張るがその価値は十二分にあるという、その辺りでは知る人ぞ知る隠れた名店だった。
 男は手馴れた感じで店の前の駐車場に車を停めた。絵美子は「着きましたよ」と言う男に続いて車から降りた。砂利がひかれた駐車場には高そうな車ばかりが停まっていた。車に興味のない絵美子にもそれはわかった。
ドアを開けると蝶ネクタイをしたハンサムなボーイが寄ってきた。ボーイの「二名様ですか」という見ればわかるような問いに男が「はい」と返すと二人は窓際の席に通された。そこは町を一望することができるこの店で一番の人気席だった。注文はすぐに決まった。絵美子は男のススメでカルボナーラのスパゲティーを頼み、男は小腹が空いたからと、生ハムのピザを頼んだ。飲み物は二人ともアイスティーだった。絵美子がすぐにその店を気に入ったことは言うまでもない。こういう場所に初めて来た彼女はいっきに大人の女性になったような錯覚を起していた。
「いつもはワインを頼むんですけどね」と男は言った。「ここのワインはおいしいんです。ところで絵美子さんはお酒が好きですか?」
「いえ」と絵美子は言った。「まだ、未成年ですから」
 男は人なつっこい笑みを浮かべた。「そうでしたね。あやうく忘れるところでした」
 絵美子はほほ笑んだ。二十分ほどのドライブとおしゃべりが彼女の緊張をほぐしていた。男の話し方にはユーモアと優しさが溢れていた。
「飲めばいいのに」と彼女は言った。
「いや」と男は言った。「あなたを横に乗せているのにそんなことはできません。あなたを無事に部屋に届けなければいけませんから。それに万が一事故に遭ったら僕だけでなくあなたにも火の粉が飛びます」
 優しい人だなと彼女は思った。でもこれこそが大人の男なのかもしれない。
 絵美子はこの気づかいに対してさらに男に好意を覚えた。学校の派手な女生徒達が講義室の隅や食堂の隅で話す男の子達とは大違いだった。彼女達の口にする男の子達は話しを立ち聞きする限り、サナダムシ程度の知能しかなさそうだった。飲み会でへべれけに酔って全裸で救急車に乗ったり、ささいなことでバイト先の店長を殴ってみたりと本当にただのガキだった。
「学生ですよね?」と男は訊ねた。
「はい」と絵美子は返した。
「どうですか? 学校は楽しいですか?」
「あまり」と絵美子は返した。「友達がいないんです」
「僕もそうでした。僕も絵美子さんくらいの頃は友達が少なかった」
「えっ?」
「人と話せるようになったのは、大学を出て就職してからなんです」と男は言った。「自動車部品の営業をしてるから、イヤでも人と話さなければいけないんです。最初は苦手だったけど、今としてはよかったのかもしれません」
 絵美子はさらなる親近感を覚えた。自分が好意をよせている人間が同じ境遇であったとことがうれしかった。
「絵美子さんはお休みの日は何をしてるんですか?」
「テレビを見たり、音楽を聴いたり」と彼女は答えた。「あの、村上さんは?」
「部屋の掃除や洗濯です。あまり趣味がないんで」
「ビートルズをかけながらですか?」
「いや、ビートルズを聴くのは車の中だけなんです。運転するにはちょうどいいから」男はそう言うと相手の出方をうかがうかのように少し間を置いてから続けた。「家では主にビジュアルバンドを聴いてるんです。エックス世代なんで」
「どんなものをですか?」
「そうですね・・・・犬神サーカス団とか・・・・」
「ええっ!」
 絵美子は思わず叫んだ。彼女にとってそれは奇跡だった。身の回りにその手の音楽が好きな人がいたことがなかったのである。兄以外は。なんたる偶然だろう! これでこの人が私の運命の人でなければ世の中はおかしい! と彼女は思った。店内にいた数組の客が気でもふれたのかといった感じで一瞬彼女を見やった。
「どうかしましたか?」
「実は私も好きなんです」と彼女は興奮気味に言った。「アルバムもシングルもDVDもビデオも全部持ってます。『御霊前』も。ついでに言えば犬神モデルのゾーさんギターも持ってます。弾けないけど」
 男は一瞬驚いた表情を浮かべた。しかし、すぐに元の笑顔に戻ると言った。「奇遇ですね。僕も全作品持ってます。唯一無二の本当にいいバンドですよね。ところでライブは見たことがありますか?」
「それはありません。行きたいとは思ってるんですけど・・・・・」
「よかったら、一緒に行きますか。ライブは最高ですよ。知っているとは思いますが再来週来るんですよ」
「行きます! 絶対に!」
「よかった」と男は言った。「今回は絵美子さんのようなきれいな人といけるし、いつもよりも楽しくなりそうです。いっしょに最前列でヘッドバンギングをしましょう」
「ぜひ!」
 そこにさっきのボーイが料理を持って現れた。ボーイはまるで哲学者のような口ぶりで料理の説明をするとお辞儀をして去って行った。
 二人は楽しいおしゃべりをしながら料理を食べた。料理は言うまでもなく最高で、そのことが二人の会話をさらに盛り上げた。話の内容は多岐におよんだが、だいたいは二人の好きなバンドについてや、男の仕事のことについてだった。仕事の話しというのは、おそらくこの世で最も退屈な話の一つだが、絵美子は決して退屈をしなかった。男のユーモアと、男への好奇心がそうさせたのである。本能的に男のことを少しでも知ろうという好奇心が。知れば知るほど男はステキな人に思えた。男には年上にありがちな『俺が人生を教えてやる!』といった感じの押し付けがましい部分や、自分のことを神格化して話すような部分がなかった。楽しい夜だった。
 二人は何杯も飲み物をお代わりしながら閉店の二時少し前までおしゃべりを続けた。絵美子も男もよく笑い、席を立つころにはアゴが痛いほどだった。絵美子は普段の生活であまり笑うことがなかったのである。むろんここは男のおごりだった。
 男は紳士的な態度で会計を済ますと絵美子に手を差し出した。絵美子は一瞬、ためらったが男に手を差し出した。男は彼女の手を握ると笑みを浮かべて車へと歩き始めた。絵美子初めて握る兄以外の男の手の感触にどぎまぎした。まるで男の体から微量の電流が流れているかのように感じられた。恋の痺れだった。彼女は男の手の冷たさを感じながら、手の冷たい人は心が優しいという話を思い出し、多分それは本当なのだろうと思った。しかし、なんと実りの多い一日だろう! つい数時間前まで客と店員だったとは思えなかった。
車に着くと男はまた助手席のドアを開けた。そして絵美子が乗り込むのを待って静かにドアを閉めると車を回って運転席に乗り込んだ。男はエンジンをかけると言った。
「今日は本当に楽しかったです」
「私も楽しかったです」
「後で、電話番号を教えてもらってもいいですか?」
「はい」
 車は無数の星がまたたく夜空の下を走り始めた。五月の暖かい夜だった。
「ところで、おうちは?」
「バイト先のそばです」
 彼女はそう言うとあくびを噛み殺した。なんだか眠たかった。人使いの荒いバイト、緊張と安堵、それに初めてのことを多く繰りかえしたせいか疲れが出たのだろう。昨夜は深夜に放送されていた映画を見ていたのであまり寝ていなかったし、今朝は今朝で学校に行くために早く起きていた。 
 男は絵美子のそんな様子に気づいたのか言った。「寝てもいいですよ。あの辺りについたら起しますから」
「いえ、だいじょうぶです・・・・」
「いつもは何時くらいに寝てるんですか?」
「十二時くらいです」
「遅くまですいません」
「いえ・・・・」
 だんだんと男の声がぼやけてきた。男との時間を寝て過ごすなどとんでもないことだった。しかし絵美子は襲いかかる睡魔に耐え切れずに間もなくして寝てしまった。口を開けて。
「着きましたよ」
 男は彼女の肩を揺すった。目を覚ました絵美子は男の顔の向こうの白い壁と蛍光灯の灯りをボンヤリと見つめた。そこはビルかオフィスの一室のようだった。彼女は寝ぼけた頭で自分の行動を反芻した。車の中にいるはずだったような気がしたがあれは夢だったのだろうか? でも男の声がするし、男は目の前にいる。
 彼女は目をこすろうとしてハッとした。どういうわけだか身動きができなかった。彼女は手を後ろにした状態でパイプイスにグルグル巻きにされていたのである。彼女は眠気が一気に消え去るのと同時にパニックにも似た恐怖につかれて叫んだ。本能的に殺されると思ったのである。
絵美子は立ち上がろうとして横に転がった。足首をロープで縛られていたのでうまく立つことができなかった。彼女は悲鳴を上げながらなんとか縄を逃れようと身をよじられたが、それは何の役にも立たなかった。逆に動けば動くほどその縄は締まっていくように感じられた。
「ムダですよ」男は絵美子の下にしゃがみこむと落ち着いた感じで言った。「その縄は刃物でもなかなか切れないんです。それにこの部屋は防音だからいくら騒いでも誰にも聞こえません」
 絵美子は顔を上げて男を見やった。恐怖のあまり息がつまった。彼女は動転するあまり自分の目に涙がにじんでいることにすら気づけなかった。
 男は笑みを浮かべるとポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し刃を開いた。十センチほどの刃が蛍光灯の灯りに反射してギラリと光った。ひどく冷酷なその輝きに絵美子は思わず失禁しそうになった。肋骨の下で破裂しそうなほどに心臓が暴れまわった。
「思ったよりも効いてよかった」と男は言った。「睡眠薬があまりなかったから、しばってる最中に起きたらどうしようかと思って内心ヒヤヒヤしてたんです。ああいうのは分量が難しいんでね。ご存知でしたか?」
 絵美子は何も言えなかった。ノドが乾きすぎていたせいで声を出すことができなかった。悲鳴を上げようにもノドがつまるほどだった。
「冥土の土産に僕の正体を教えてあげましょうか」と男は言った。「僕は連続強姦魔であると同時に、連続殺人犯なんです」
 男は絵美子が好きだった笑顔を浮かべていた。しかし、今の彼女にとってこの男の笑顔は悪魔の微笑以外の何物でもなかった。絵美子はなんらかの理由でこの男がいきなり木端微塵に吹っ飛んでくれるなり、自然発火して灰になってくれることを神に祈った。悪い夢かもしれないと彼女は恐怖のあまり思った。
「例の事件は知ってるでしょう」と男は続けた。「各地で顔も知らない男についていった女の子がずたずたに切り裂かれて発見されるって事件を。あれは僕の仕業なんです。マスコミはあまりの残虐性に報道を控えてますが、実は先日殺された十八歳の女の子の肝臓はフライにするために切り取っておいたんです。思ったよりもまずかったので猫にあげましたがね」男はそう言うとジッと彼女を見つめた。「さて、あなたはどう料理すべきだろう? やはりいつものようにペンチで肉をちぎっていきましょうか? そして臓器の一部をあなたのご両親に贈り物として郵送・・・・・」
「助けてください!」彼女は男をさえぎって言った。「何でもしますから!」
「それはできません。そんなことをするほど僕はバカじゃない」
「なんで私なんですか! なんで他の人じゃないんですか!」
 彼女は叫んだ。それはほとんど悲鳴だった。男はうれしそうに涙で頬を濡らす彼女を見つめた。彼女はまだ自分が泣いていることに気づいていなかった。
「簡単なことですよ」と男は言った。「バカみたいにノコノコとついてきたからですよ。どこの馬の骨ともわからないような男に。きっとあなたはこういう事件が自分の身には起こりえないと思っていたのでしょう。もっともそれは誰しもが思っていることでしょうがね。でも、本当のところはわからない。物事はただ起こるんです」
 絵美子はすすり泣きを始めた。今さらながら自分のバカさ加減が悔しかった。確かに彼女は男の身なりから、この男のことをすっかり信用していた。人を見かけで判断するなという言葉が恐怖とともに脳裏をかけめぐった。人が何を考えているかなんてわかったものじゃない。疑うべきだったのだ。 
「通り魔のようなことは好みじゃないんです」と男は言った。「あれには手法を考えるという楽しみがないし、芸術的な要素がない。そう思いませんか?」
 絵美子は返事をしなかった。ただすすり泣くのみだった。
「僕はいつもしばらく様子を見てからやるんです」と男は続けた。「狩りと同じでどうやって獲物をおびき出すかも楽しみの一つなんです。でも・・もし、今日、あなたが話しかけてこなければ目をつけていた他の子にするつもりでした」男はそう言うと彼女の頭を数回撫でた。「残念でしたね。せいぜい神を呪いなさい」
 男は立ち上がると背後にあったデスクの上に置かれた洋酒の瓶を掴んだ。そしてそれをグッとあおるとタバコに火をつけて、デスクの端に腰を下ろした。絵美子はもう何も考えることができなかった。ただ後悔と絶望の海に浸かるだけだった。ひょっとしたら助けてくれるかもしれないという甘い考えは浮かばなかった。
 男はタバコを吸い終えると再び絵美子の元にもどってきた。そして床に転がった彼女を起すと、今度は部屋の隅に置かれたテレビとビデオが一緒になった機械の電源を入れてガチャガチャといじり始めた。絵美子はテレビの雑音の中に彼女の嫌いなお笑い芸人の声が混じっていることに気づいてさらに泣いた。もし助かるのなら猿人のようなこの芸人に抱かれてもいいとすら思った。普段は耳障りとしか言えないその芸人の声がひどくなつかしく感じられた。「ウソやろー!」というトンマな声が聞こえた。
 しばらくして男が絵美子の元にもどってきた。男は彼女の後ろに立つと右手で彼女のアゴを掴んで画面に向けさせた。画面は相変わらず砂嵐の状態だった。絵美子は男が何をしたいのかわからなかったがそれを聞く勇気はなかった。相変わらずの冷たい手だった。
 やがて画面が変わった。砂嵐が一瞬、青くなって、その後に見覚えのある風景と、見覚えのある人物が映し出された。それは彼女の実家の居間のソファに座る父と母だった。
 彼女は思わず息を飲んだ。背後にいた男はクックッと笑うと手にしていたリモコンでテレビの音声をあげた。まさかこの男は父と母まで殺したのではないかと絵美子は思った。なんたる『残酷暗黒劇場』だ!
 しかし、そうではなかった。父も母もただ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてソファに座っているだけだった。その端には飼い猫のペペロンチーノがいる。太りすぎであまり動かないオスのトラ猫だった。母が猫を抱き上げると腕組みをしていた父が口を開いた。
「絵美子・・小さい頃に、教えなかったか? 知らない人についていってはいけないと」
「最近変な事件が多いでしょ」と母は心配そうに言った。「それで、知り合いの探偵さんに頼んで調べてもらったの。絵美ちゃんはだいじょうぶかって」
「でも・・もし、おまえがこのビデオを見てるとしたら、おまえは知らない男について行ったということだな・・むろんそうなことにはならない方がいいんだが」
「なんだか悲しいわね」と母は言った。「もし、そうなら。お母さんは絵美ちゃんを、郵便ポスト並みの脳ミソしかないようなバカには思いたくない・・」
「えええっー!」
 彼女は叫んだ。背後にいた男は絵美子から離れて再びデスクの端に腰を下ろすとナイフの刃をしまった。
「そういうことなんですよ」と男は言った。「今回の件は全てあなたのお父様からの依頼なんです。もし、知らないような男にノコノコとついてくるようなことがあれば、二度とそういうことをしないように恐怖を植えつけろということだったんです。ああ、そうだ。申し送れましたが僕の本名は村林影虎です。あなたのお父様の知り合いに安田隆文という警官がいるでしょう。その人の親戚なんです」
 絵美子は男に顔を向けた。父と母はまだしゃべっていたが頭には入ってこなかった。
「ここ二ヶ月ほどあなたの身辺も調査させてもらいました」。
 男はそう言うと再びデスクの上にあった酒のボトルに手を伸ばした。
「あくびが出るほど退屈な調査でしたよ。家、学校、バイト、それ以外に何もなかった。正直あなたの場合はもう少し外に出るべきかもしれないと思いました」
「私は助かるんですか・・」
「当然です。このビデオが終わったら、あなたを下宿先までお送りします。そこまでが僕の仕事なんで」
「じゃあ、年齢とかは?」
「全部ウソですよ。本当の年は二十九です」
 絵美子はしばらく男を見つめた。安堵感とともに怒りが込みあげてきた。
「こんなことのために・・」と彼女は言った。「こんなことのために毎回ハンバーグを二人前も頼んだんですか!」
「あれは気がひけました。本当はもったいなくてタッパにつめて持って帰りたいくらいでしたよ。食べ物を粗末にするのは気がすすまないんです。いくら仕事とはいえ」
「この縄をほどいてください!」
 彼女はきつい口調で言った。
「非常に不愉快です!」
「ああ、そうでしたね」
「まったく! なんなのよ! あの人達は!」
「怒ってはいけません。親御さんはあなたのためを思ってやったのですから。ところで、きつくなかったですか?」
「とってもきつかったです」
「すいませんね。こういうことはあまりしたことがないので加減がわからなくて。普段は浮気調査やら、いなくなった猫を探したりしてるんです。あとは子供がいじめられてるかどうかを調べたり。ところで、二度とよく知らない男についていかないと約束してくれますか? 『はい』と言うまで縄をほどくなと依頼主様から言われてますので」
「ええ・・」と絵美子は言った。「二度と行きません・・」
「わかりました。では縄をほどきましょう」
男はデスクから飛び降りると縄を外しにかかった。「なんで外れないなんだ?」とか「どうなってるんだこれは?」と洩らしながら。男は見かけによらず不器用だった。
「あの・・」と彼女は言った。「さっきの話は本当に全部ウソなんですか?」
「犬神サーカス団が好きってことは本当です」
「じゃあ、いっしょにライブに行くっていうのは?」
「ああ、よかったら一緒に行きますか。多分まだチケットもあるでしょうし」
「お願いします・・」
                         (完)

08年11月15日

小説「冷たい初恋」

 絵美子は十九歳になる地味でややぽっちゃりとした女の子だった。彼女は田舎の出身で今は町中の大学に通いながら週に三日ほど洋食屋でウェイトレスのアルバイトをしていた。そこは『マーブル・シープ』という六人がけのカウンター席と、四人がけのテーブル席が七つほどの小さな店だった。
 絵美子は店のそばにアパートを借りて一人暮らしをしていたが、これといった趣味や、友人を持ち合わせていないために孤独な毎日を送っていた。彼女は昔から友達を作るのが苦手で、割ときれいであるにも関わらずに今まで恋人がいたことはなかった。一九歳というすてきな年頃であるにも関わらずに毎日が学校と家、家とバイト先の洋食屋の往復で、恋人など夢のまた夢だった。バイトをしていたのは生活費やお小遣いのためではなく時間をつぶすためだった。つまり家にいてもやることがなかったのである。彼女は裕福な家の出身で実家から十分な仕送りをもらっていたので金銭的には不自由がなかった。
 そんな絵美子にも一つ気になっていることがあった。それは二ヶ月前から毎週金曜日の晩になると訪れるある男性客のことだった。その男は三十代前半くらいの背の高い美男子で少し長めの黒い髪を真中でわけていつも細身のスーツをかっちりと着ていた。賢そうだがどこかほの暗い感じの痩せた男だったが、そのほの暗さがかえって男を魅力的にしていた。絵美子は少女時代に二歳ちがいの兄の部屋にあった少年マンガを読んで育ったせいか影のある知的な感じのする男が好みだったのである。男は絵美子の理想を絵に描いたようであった。
 その男は毎週金曜日の午後九時を過ぎたくらいにカッチリとしたスーツ姿でやってきた。注文するものはデミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグセットを二人前と決まっていた。一人なのに。別に大食漢というわけではない。むしろその男は小食で、出された料理を全て平らげたことは絵美子の知る限り一度もなかった。男はどういう理由からかハンバーグを二つ頼んでその一つをただ目の前に置いておくのである。
 男はいつも無理やりクギを食わされているかのような暗い面持ちでそれを食べた。そして食べ終わると勘定の際に「ごちそうさま」と力ない笑みを浮かべて出て行くのだった。思わず憐れみをかけたくなるような寂しげな笑みをうかべて。絵美子はその男のそんな笑顔が好きだった。彼女はその男の会計を担当する度にこう思うのだった。きっとこの男の人は、病気や事故で奥さんか恋人を失くしたんだわ。それで毎週、その人の命日になるとここにきてハンバーグを二つ頼むんだわ。きっとここはその人との思い出の場所なんだわ。初デートで来たとか。結婚記念日を祝うために来たとか。私がここで働き始めたのは八ヶ月前だけど、その前はきっとその人と二人で来てたんだわ。ひょっとしたら子供はいるのかしら? 私みたいな女は好みかしら? でも年がちがいすぎるかしら?
 彼女が死別した恋人なり奥さんなりのためにそうしていると思うのにはわけがあった。それは一度、他にもう一人だけいるアルバイトの女が彼に「どうして食べないのに二人前も頼むのですか?」と尋ねたという話を耳に挟んだからだった。その女が店の奥さんに話していたことによると男はチラッと女を見て溜息交じりに「聞かないで下さい」と言ったということだった。悲しげな笑みをたたえて。こう言うとその女もその男に好意を持っていたように聞こえるがそれはちがう。女が男にそう尋ねたのは誰しもが持つであろう純粋な疑問を気まぐれにぶつけてみたに過ぎなかった。その女は二十八歳の醜い女方のレズビアンで男に興味はなかったのである。
 一方、店の経営者であり料理人である中年夫婦はこの世にごまんといるであろう奇人の一人くらいにしか思っていなかった。せっかく作った料理をまるまる残されても勘定さえちゃんと払ってくれればどうでもよかった。ありがちな友情から連帯保証人になったばかりに背負い込んだ多額の借金のために他人のことをかまうには疲れすぎていたのである。この店の従業員の仲があまりよくなく、必要最低限のことしか話さないのは容易に想像がつくだろう。『マーブル・シープ』は割と繁盛しているにも関わらず、店の空気はあまりよくなく従業員はいつも胃痙攣を起しているような笑みを浮かべていた。しかし、これは何もこの洋食屋だけではあるまい。生計を立てるための場所というのは少なからずそういうものなのである。
 むろん絵美子もこの店の雰囲気と仕事が好きではなかった。前にここで働いていたフリーターや、学生と同様に辞めようと思うことも多々あった。しかし、日に日に大きくなっていく恋心がそれを隠した。彼女はどんどん金曜の晩を心待ちにするようになり、昼夜を問わずにその客のことを考えるようになった。孤独な生活がなおさらそうさせたのである。彼女は男と自分が肩をよりそいながら歩く姿を想像して天に昇り、やはり自分には無理だと思って地獄に落ち、日に何度も破滅と再生を繰り返していた。心愉しい『地獄の季節』だった。
 当然彼女は男を見る度にもう一人の女のように男に話しかけようとした。しかし、実際にはただ注文を聞いて、それをテーブルに運んで、レジを打つだけだった。兄と父以外の男に自分から話しかけるというのは絵美子にとって、素手でライオンと戦うようなものだったのである。だが、ある金曜の晩、絵美子はとうとう勘定の際に男に話しかけた。持てる勇気を振り絞って。彼女は話そうとして、話せないでいる自分に対してガマンができなくなっていた。膨らみすぎた妄想がはけ口を求めていたのかもしれない。
「あの・・・・」
 絵美子がうわずった声でそう言うと男は驚いた様子で彼女を見つめた。目があった絵美子は感じたことのないような衝撃が背筋に走るのを感じて何を話していいのかがわからなくなった。頭に血が上るような、頭の中が真っ白になるような感じだった。
「何か?」と男は言った。
「あの・・・・」彼女は時間稼ぎのために再び同じ言葉を繰り返した。言うべきことを探すために。「どうしていつも二人分も頼まれるんですか・・・・」
 彼女は言ってからハッとした。そんなことはこの男の勝手じゃないかと思った。何で、ここら辺にお住まいなのですか? といったことを聞かなかったのか?
 男は一瞬、うつむいた。しかし、絵美子がしまったと思う間もなく顔を上げるとニッコリとほほ笑んだ。イタズラのばれた腕白少年を思わせる、うれしいようなバツが悪いような笑みだった。
「実は・・・・」と男は言った。「あなたが、そう聞いてくれるのを待っていたんです」
 絵美子は一瞬、自分の耳を疑った。驚きのあまり何も返すことができなかった。
「前に偶然ここに来た時に、あなたを見て一目惚れしたんです」と男は続けた。「それであなたの気を引こうとしていたんです」
 絵美子は呆然としていた。うれしかったが実感がわからなかった。まるで一夜にしてロスチャイルド家をしのぐ富豪になってしまったような気分だった。なったのではなくて。
 男は店内を見渡した。奥の厨房から汚れたエプロンをつけた店長がいぶかしげにこっちを見ているのがわかった。そこで何をしてやがるんだ! 俺はおまえが客とおしゃべりをするために時給七五〇円もの高い金を払ってるわけじゃないんだぞ! と言わんばかりに。この店では従業員と客が親しく話すことを禁じていた。それは以前ここで働いていた香村慎一というバンドマンの男が客の女性に手を出して問題になったことがあったからだった。寝取られた男が店に押しかけてきて、客がいるにも関わらずにのべつまくなしの暴言を吐いたのである。ありがちな話だが。
「よかったら」と男は言った。「店が終ってからゆっくりお話しませんか?」
「はい・・・・」と絵美子は夢の中にいるような気持ちで言った。「でも、終るのは、十一時過ぎですよ。後片付けがありますから・・・・・」
「待ってます。終ったらそこの酒屋の前に来てください」
男は右手の親指で小さく外の通りを指さした。絵美子の店の斜め前には十台分の駐車場を兼ね備えた大きな酒屋があった。彼女の住む地域は町なかからいくらか離れた比較的落ち着いた場所だった。
「わかりました・・・・」
「では、お待ちしております」
 男はほほ笑むと店を出て行った。絵美子はしばらくジッとドアを見つめてから再び仕事に戻った。夢の中で起こっていたようなことが徐々に現実だとわかってくるにつれて彼女はドキドキしてきた。男が自分の注意を引くためにずっとハンバーグを二人分注文していたというのがとてもドラマティックに思えた。彼女は時計の針が早く進むことを祈りながらいつもよりも夢中に後片付けをした。この日、バイトは彼女一人だったが、その働きは二人分をはるかに上回っていた。下らない仕事が楽しく思えた。彼女がこんな気持ちを味わうのは初めてだった。
 運よく店はいつもよりも少しだけ早く終った。彼女はさっさと着替えを終えると、通りを渡って約束の場所に行った。その店はもう何時間も前に閉店していたが駐車場には一台だけ車が停まっていた。車種はわからなかったが白くて高そうな車だった。
絵美子があの車かしら? と思う間もなく中から男が降りてきた。男は絵美子に手を振りながら言った。
「おつかれさまでした」
 絵美子は頭を下げると男の元に歩いていった。薄暗がりの中で見る男は店の中で見る時よりもずっとハンサムに思えた。夜の闇と、青白い外灯の光が男のほの暗い魅力をいっそう輝かせていた。彼女は男がいい匂いのする香水をつけているのに気づいて自分の匂いが気になった。厨房の中のように油臭くなければいいんだけど・・・・こんなことならスカートでもはいてくればよかった。ジーンズに安物のブラウスじゃなくて・・・・・せめてコンバースじゃなくて一足だけ持っているパンプスにしておけば・・・・
「食事はまだですか?」と男は優しい口調で言った。
「はい」と絵美子は言った。店にはまかないがあったが彼女は食べたことがなかった。有料だった上に値引きもなかったからだ。
「では、食事に行きましょう」
 男はそう言うと車の反対側に歩いて行ってドアを開けた。絵美子はなんと素敵な人なんだろうと思いながら助手席に乗り込んだ。まるで名だたる女優かお姫さんにでもなったかのような気分だった。「でも、さっき食事をされたのでは?」という言葉は浮かばなかった。男性に優しくされることに慣れていなかったのでのぼせあがってしまったのだ。
 男はそっとドアを閉めると運転席に乗り込んでエンジンをかけた。そして手慣れた感じで人通りの絶えた通りに出るとハンドルとダッシュボードの間を指して言った。
「耳障りじゃありませんか?」
「いえ」
 カーステレオからは小さな音でビートルズが流れていた。どのアルバムか、なんという曲かはわからなかったがビートルズだった。
「ビートルズはお好きですか?」
「はい」
 ビートルズをまともに聞いたことはなかったが、彼女はそう言った。本当は犬神サーカス団が好きとは言えなかった。彼女は二歳年上の根暗な兄の影響でそういった音楽が好きだった。彼女は今日も出がけにそのバンドの『自殺の唄』という曲を聴いていた。鏡の前でそのバンドの女性ボーカリストの真似をしながら。憧れていたのである。
「よかった」男はそう言うと笑顔で彼女を見やった。「ところでお名前をうかがってもよろしいですか?」
「大西絵美子です」
「いい名前ですね。どんな字ですか?」
「絵に美しいに子供の子です」
「ますますステキだ」と男は言った。「あなたによく似合ってます」
 絵美子はうつむいた。うれしかったが恥ずかしかった。世慣れた女性なら冗談の一つも言えただろうが、彼女にはどうすることもできなかった。彼女は一瞬、男に下心があるのではないかと思ったが、自分にそれだけの魅了かあるのかを疑問に思い、すぐにその考えを捨てた。
「僕は村上隆一郎と言います」
「ステキな名前ですね・・・・・」
「ありがとう」と男は言った。「ところで、おいくつですか?」
絵美子は一瞬ためらってから言った。「十九です」
「若いですね、僕より五つも若い」
「えっ、じゃあまだ二十代半ばなんですか?」
「そうです。二十四です。よく三十代と思われえますけどね」
 絵美子は驚いた。しかし、同時に親近感を覚えた。五つほどの年の差ならたいしたことがないように思えたのだ。言われてみれば男の肌や髪の質感は二十代になったばかりの兄と大差がなかった。
「ところで食べれないものは何かありますか?」と男は言った。
「いえ」と彼女は返した。
「パスタは好きですか?」
「はい」
「よかった。じゃあ、あそこに行きましょう。たまに食べに行くところがあるんです」
 男が向かった先は『バンビーノ』という小さいが雰囲気のいいイタリアンレストランだった。そこは眺めのいい小高い丘の上にあって深夜まで営業していた。外壁はイギリスのコテージを思わせるレンガ造りだが、内装は日本の古民家を思わせる白い漆喰とチョコレート色の板でできていて、天井からは古めかしいガラス製の傘をかぶった裸電球がいくつもたれていた。値段は張るがその価値は十二分にあるという、その辺りでは知る人ぞ知る隠れた名店だった。
 男は手馴れた感じで店の前の駐車場に車を停めた。絵美子は「着きましたよ」と言う男に続いて車から降りた。砂利がひかれた駐車場には高そうな車ばかりが停まっていた。車に興味のない絵美子にもそれはわかった。
ドアを開けると蝶ネクタイをしたハンサムなボーイが寄ってきた。ボーイの「二名様ですか」という見ればわかるような問いに男が「はい」と返すと二人は窓際の席に通された。そこは町を一望することができるこの店で一番の人気席だった。注文はすぐに決まった。絵美子は男のススメでカルボナーラのスパゲティーを頼み、男は小腹が空いたからと、生ハムのピザを頼んだ。飲み物は二人ともアイスティーだった。絵美子がすぐにその店を気に入ったことは言うまでもない。こういう場所に初めて来た彼女はいっきに大人の女性になったような錯覚を起していた。
「いつもはワインを頼むんですけどね」と男は言った。「ここのワインはおいしいんです。ところで絵美子さんはお酒が好きですか?」
「いえ」と絵美子は言った。「まだ、未成年ですから」
 男は人なつっこい笑みを浮かべた。「そうでしたね。あやうく忘れるところでした」
 絵美子はほほ笑んだ。二十分ほどのドライブとおしゃべりが彼女の緊張をほぐしていた。男の話し方にはユーモアと優しさが溢れていた。
「飲めばいいのに」と彼女は言った。
「いや」と男は言った。「あなたを横に乗せているのにそんなことはできません。あなたを無事に部屋に届けなければいけませんから。それに万が一事故に遭ったら僕だけでなくあなたにも火の粉が飛びます」
 優しい人だなと彼女は思った。でもこれこそが大人の男なのかもしれない。
 絵美子はこの気づかいに対してさらに男に好意を覚えた。学校の派手な女生徒達が講義室の隅や食堂の隅で話す男の子達とは大違いだった。彼女達の口にする男の子達は話しを立ち聞きする限り、サナダムシ程度の知能しかなさそうだった。飲み会でへべれけに酔って全裸で救急車に乗ったり、ささいなことでバイト先の店長を殴ってみたりと本当にただのガキだった。
「学生ですよね?」と男は訊ねた。
「はい」と絵美子は返した。
「どうですか? 学校は楽しいですか?」
「あまり」と絵美子は返した。「友達がいないんです」
「僕もそうでした。僕も絵美子さんくらいの頃は友達が少なかった」
「えっ?」
「人と話せるようになったのは、大学を出て就職してからなんです」と男は言った。「自動車部品の営業をしてるから、イヤでも人と話さなければいけないんです。最初は苦手だったけど、今としてはよかったのかもしれません」
 絵美子はさらなる親近感を覚えた。自分が好意をよせている人間が同じ境遇であったとことがうれしかった。
「絵美子さんはお休みの日は何をしてるんですか?」
「テレビを見たり、音楽を聴いたり」と彼女は答えた。「あの、村上さんは?」
「部屋の掃除や洗濯です。あまり趣味がないんで」
「ビートルズをかけながらですか?」
「いや、ビートルズを聴くのは車の中だけなんです。運転するにはちょうどいいから」男はそう言うと相手の出方をうかがうかのように少し間を置いてから続けた。「家では主にビジュアルバンドを聴いてるんです。エックス世代なんで」
「どんなものをですか?」
「そうですね・・・・犬神サーカス団とか・・・・」
「ええっ!」
 絵美子は思わず叫んだ。彼女にとってそれは奇跡だった。身の回りにその手の音楽が好きな人がいたことがなかったのである。兄以外は。なんたる偶然だろう! これでこの人が私の運命の人でなければ世の中はおかしい! と彼女は思った。店内にいた数組の客が気でもふれたのかといった感じで一瞬彼女を見やった。
「どうかしましたか?」
「実は私も好きなんです」と彼女は興奮気味に言った。「アルバムもシングルもDVDもビデオも全部持ってます。『御霊前』も。ついでに言えば犬神モデルのゾーさんギターも持ってます。弾けないけど」
 男は一瞬驚いた表情を浮かべた。しかし、すぐに元の笑顔に戻ると言った。「奇遇ですね。僕も全作品持ってます。唯一無二の本当にいいバンドですよね。ところでライブは見たことがありますか?」
「それはありません。行きたいとは思ってるんですけど・・・・・」
「よかったら、一緒に行きますか。ライブは最高ですよ。知っているとは思いますが再来週来るんですよ」
「行きます! 絶対に!」
「よかった」と男は言った。「今回は絵美子さんのようなきれいな人といけるし、いつもよりも楽しくなりそうです。いっしょに最前列でヘッドバンギングをしましょう」
「ぜひ!」
 そこにさっきのボーイが料理を持って現れた。ボーイはまるで哲学者のような口ぶりで料理の説明をするとお辞儀をして去って行った。
 二人は楽しいおしゃべりをしながら料理を食べた。料理は言うまでもなく最高で、そのことが二人の会話をさらに盛り上げた。話の内容は多岐におよんだが、だいたいは二人の好きなバンドについてや、男の仕事のことについてだった。仕事の話しというのは、おそらくこの世で最も退屈な話の一つだが、絵美子は決して退屈をしなかった。男のユーモアと、男への好奇心がそうさせたのである。本能的に男のことを少しでも知ろうという好奇心が。知れば知るほど男はステキな人に思えた。男には年上にありがちな『俺が人生を教えてやる!』といった感じの押し付けがましい部分や、自分のことを神格化して話すような部分がなかった。楽しい夜だった。
 二人は何杯も飲み物をお代わりしながら閉店の二時少し前までおしゃべりを続けた。絵美子も男もよく笑い、席を立つころにはアゴが痛いほどだった。絵美子は普段の生活であまり笑うことがなかったのである。むろんここは男のおごりだった。
 男は紳士的な態度で会計を済ますと絵美子に手を差し出した。絵美子は一瞬、ためらったが男に手を差し出した。男は彼女の手を握ると笑みを浮かべて車へと歩き始めた。絵美子初めて握る兄以外の男の手の感触にどぎまぎした。まるで男の体から微量の電流が流れているかのように感じられた。恋の痺れだった。彼女は男の手の冷たさを感じながら、手の冷たい人は心が優しいという話を思い出し、多分それは本当なのだろうと思った。しかし、なんと実りの多い一日だろう! つい数時間前まで客と店員だったとは思えなかった。
車に着くと男はまた助手席のドアを開けた。そして絵美子が乗り込むのを待って静かにドアを閉めると車を回って運転席に乗り込んだ。男はエンジンをかけると言った。
「今日は本当に楽しかったです」
「私も楽しかったです」
「後で、電話番号を教えてもらってもいいですか?」
「はい」
 車は無数の星がまたたく夜空の下を走り始めた。五月の暖かい夜だった。
「ところで、おうちは?」
「バイト先のそばです」
 彼女はそう言うとあくびを噛み殺した。なんだか眠たかった。人使いの荒いバイト、緊張と安堵、それに初めてのことを多く繰りかえしたせいか疲れが出たのだろう。昨夜は深夜に放送されていた映画を見ていたのであまり寝ていなかったし、今朝は今朝で学校に行くために早く起きていた。 
 男は絵美子のそんな様子に気づいたのか言った。「寝てもいいですよ。あの辺りについたら起しますから」
「いえ、だいじょうぶです・・・・」
「いつもは何時くらいに寝てるんですか?」
「十二時くらいです」
「遅くまですいません」
「いえ・・・・」
 だんだんと男の声がぼやけてきた。男との時間を寝て過ごすなどとんでもないことだった。しかし絵美子は襲いかかる睡魔に耐え切れずに間もなくして寝てしまった。口を開けて。
「着きましたよ」
 男は彼女の肩を揺すった。目を覚ました絵美子は男の顔の向こうの白い壁と蛍光灯の灯りをボンヤリと見つめた。そこはビルかオフィスの一室のようだった。彼女は寝ぼけた頭で自分の行動を反芻した。車の中にいるはずだったような気がしたがあれは夢だったのだろうか? でも男の声がするし、男は目の前にいる。
 彼女は目をこすろうとしてハッとした。どういうわけだか身動きができなかった。彼女は手を後ろにした状態でパイプイスにグルグル巻きにされていたのである。彼女は眠気が一気に消え去るのと同時にパニックにも似た恐怖につかれて叫んだ。本能的に殺されると思ったのである。
絵美子は立ち上がろうとして横に転がった。足首をロープで縛られていたのでうまく立つことができなかった。彼女は悲鳴を上げながらなんとか縄を逃れようと身をよじられたが、それは何の役にも立たなかった。逆に動けば動くほどその縄は締まっていくように感じられた。
「ムダですよ」男は絵美子の下にしゃがみこむと落ち着いた感じで言った。「その縄は刃物でもなかなか切れないんです。それにこの部屋は防音だからいくら騒いでも誰にも聞こえません」
 絵美子は顔を上げて男を見やった。恐怖のあまり息がつまった。彼女は動転するあまり自分の目に涙がにじんでいることにすら気づけなかった。
 男は笑みを浮かべるとポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し刃を開いた。十センチほどの刃が蛍光灯の灯りに反射してギラリと光った。ひどく冷酷なその輝きに絵美子は思わず失禁しそうになった。肋骨の下で破裂しそうなほどに心臓が暴れまわった。
「思ったよりも効いてよかった」と男は言った。「睡眠薬があまりなかったから、しばってる最中に起きたらどうしようかと思って内心ヒヤヒヤしてたんです。ああいうのは分量が難しいんでね。ご存知でしたか?」
 絵美子は何も言えなかった。ノドが乾きすぎていたせいで声を出すことができなかった。悲鳴を上げようにもノドがつまるほどだった。
「冥土の土産に僕の正体を教えてあげましょうか」と男は言った。「僕は連続強姦魔であると同時に、連続殺人犯なんです」
 男は絵美子が好きだった笑顔を浮かべていた。しかし、今の彼女にとってこの男の笑顔は悪魔の微笑以外の何物でもなかった。絵美子はなんらかの理由でこの男がいきなり木端微塵に吹っ飛んでくれるなり、自然発火して灰になってくれることを神に祈った。悪い夢かもしれないと彼女は恐怖のあまり思った。
「例の事件は知ってるでしょう」と男は続けた。「各地で顔も知らない男についていった女の子がずたずたに切り裂かれて発見されるって事件を。あれは僕の仕業なんです。マスコミはあまりの残虐性に報道を控えてますが、実は先日殺された十八歳の女の子の肝臓はフライにするために切り取っておいたんです。思ったよりもまずかったので猫にあげましたがね」男はそう言うとジッと彼女を見つめた。「さて、あなたはどう料理すべきだろう? やはりいつものようにペンチで肉をちぎっていきましょうか? そして臓器の一部をあなたのご両親に贈り物として郵送・・・・・」
「助けてください!」彼女は男をさえぎって言った。「何でもしますから!」
「それはできません。そんなことをするほど僕はバカじゃない」
「なんで私なんですか! なんで他の人じゃないんですか!」
 彼女は叫んだ。それはほとんど悲鳴だった。男はうれしそうに涙で頬を濡らす彼女を見つめた。彼女はまだ自分が泣いていることに気づいていなかった。
「簡単なことですよ」と男は言った。「バカみたいにノコノコとついてきたからですよ。どこの馬の骨ともわからないような男に。きっとあなたはこういう事件が自分の身には起こりえないと思っていたのでしょう。もっともそれは誰しもが思っていることでしょうがね。でも、本当のところはわからない。物事はただ起こるんです」
 絵美子はすすり泣きを始めた。今さらながら自分のバカさ加減が悔しかった。確かに彼女は男の身なりから、この男のことをすっかり信用していた。人を見かけで判断するなという言葉が恐怖とともに脳裏をかけめぐった。人が何を考えているかなんてわかったものじゃない。疑うべきだったのだ。 
「通り魔のようなことは好みじゃないんです」と男は言った。「あれには手法を考えるという楽しみがないし、芸術的な要素がない。そう思いませんか?」
 絵美子は返事をしなかった。ただすすり泣くのみだった。
「僕はいつもしばらく様子を見てからやるんです」と男は続けた。「狩りと同じでどうやって獲物をおびき出すかも楽しみの一つなんです。でも・・もし、今日、あなたが話しかけてこなければ目をつけていた他の子にするつもりでした」男はそう言うと彼女の頭を数回撫でた。「残念でしたね。せいぜい神を呪いなさい」
 男は立ち上がると背後にあったデスクの上に置かれた洋酒の瓶を掴んだ。そしてそれをグッとあおるとタバコに火をつけて、デスクの端に腰を下ろした。絵美子はもう何も考えることができなかった。ただ後悔と絶望の海に浸かるだけだった。ひょっとしたら助けてくれるかもしれないという甘い考えは浮かばなかった。
 男はタバコを吸い終えると再び絵美子の元にもどってきた。そして床に転がった彼女を起すと、今度は部屋の隅に置かれたテレビとビデオが一緒になった機械の電源を入れてガチャガチャといじり始めた。絵美子はテレビの雑音の中に彼女の嫌いなお笑い芸人の声が混じっていることに気づいてさらに泣いた。もし助かるのなら猿人のようなこの芸人に抱かれてもいいとすら思った。普段は耳障りとしか言えないその芸人の声がひどくなつかしく感じられた。「ウソやろー!」というトンマな声が聞こえた。
 しばらくして男が絵美子の元にもどってきた。男は彼女の後ろに立つと右手で彼女のアゴを掴んで画面に向けさせた。画面は相変わらず砂嵐の状態だった。絵美子は男が何をしたいのかわからなかったがそれを聞く勇気はなかった。相変わらずの冷たい手だった。
 やがて画面が変わった。砂嵐が一瞬、青くなって、その後に見覚えのある風景と、見覚えのある人物が映し出された。それは彼女の実家の居間のソファに座る父と母だった。
 彼女は思わず息を飲んだ。背後にいた男はクックッと笑うと手にしていたリモコンでテレビの音声をあげた。まさかこの男は父と母まで殺したのではないかと絵美子は思った。なんたる『残酷暗黒劇場』だ!
 しかし、そうではなかった。父も母もただ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべてソファに座っているだけだった。その端には飼い猫のペペロンチーノがいる。太りすぎであまり動かないオスのトラ猫だった。母が猫を抱き上げると腕組みをしていた父が口を開いた。
「絵美子・・小さい頃に、教えなかったか? 知らない人についていってはいけないと」
「最近変な事件が多いでしょ」と母は心配そうに言った。「それで、知り合いの探偵さんに頼んで調べてもらったの。絵美ちゃんはだいじょうぶかって」
「でも・・もし、おまえがこのビデオを見てるとしたら、おまえは知らない男について行ったということだな・・むろんそうなことにはならない方がいいんだが」
「なんだか悲しいわね」と母は言った。「もし、そうなら。お母さんは絵美ちゃんを、郵便ポスト並みの脳ミソしかないようなバカには思いたくない・・」
「えええっー!」
 彼女は叫んだ。背後にいた男は絵美子から離れて再びデスクの端に腰を下ろすとナイフの刃をしまった。
「そういうことなんですよ」と男は言った。「今回の件は全てあなたのお父様からの依頼なんです。もし、知らないような男にノコノコとついてくるようなことがあれば、二度とそういうことをしないように恐怖を植えつけろということだったんです。ああ、そうだ。申し送れましたが僕の本名は村林影虎です。あなたのお父様の知り合いに安田隆文という警官がいるでしょう。その人の親戚なんです」
 絵美子は男に顔を向けた。父と母はまだしゃべっていたが頭には入ってこなかった。
「ここ二ヶ月ほどあなたの身辺も調査させてもらいました」。
 男はそう言うと再びデスクの上にあった酒のボトルに手を伸ばした。
「あくびが出るほど退屈な調査でしたよ。家、学校、バイト、それ以外に何もなかった。正直あなたの場合はもう少し外に出るべきかもしれないと思いました」
「私は助かるんですか・・」
「当然です。このビデオが終わったら、あなたを下宿先までお送りします。そこまでが僕の仕事なんで」
「じゃあ、年齢とかは?」
「全部ウソですよ。本当の年は二十九です」
 絵美子はしばらく男を見つめた。安堵感とともに怒りが込みあげてきた。
「こんなことのために・・」と彼女は言った。「こんなことのために毎回ハンバーグを二人前も頼んだんですか!」
「あれは気がひけました。本当はもったいなくてタッパにつめて持って帰りたいくらいでしたよ。食べ物を粗末にするのは気がすすまないんです。いくら仕事とはいえ」
「この縄をほどいてください!」
 彼女はきつい口調で言った。
「非常に不愉快です!」
「ああ、そうでしたね」
「まったく! なんなのよ! あの人達は!」
「怒ってはいけません。親御さんはあなたのためを思ってやったのですから。ところで、きつくなかったですか?」
「とってもきつかったです」
「すいませんね。こういうことはあまりしたことがないので加減がわからなくて。普段は浮気調査やら、いなくなった猫を探したりしてるんです。あとは子供がいじめられてるかどうかを調べたり。ところで、二度とよく知らない男についていかないと約束してくれますか? 『はい』と言うまで縄をほどくなと依頼主様から言われてますので」
「ええ・・」と絵美子は言った。「二度と行きません・・」
「わかりました。では縄をほどきましょう」
男はデスクから飛び降りると縄を外しにかかった。「なんで外れないなんだ?」とか「どうなってるんだこれは?」と洩らしながら。男は見かけによらず不器用だった。
「あの・・」と彼女は言った。「さっきの話は本当に全部ウソなんですか?」
「犬神サーカス団が好きってことは本当です」
「じゃあ、いっしょにライブに行くっていうのは?」
「ああ、よかったら一緒に行きますか。多分まだチケットもあるでしょうし」
「お願いします・・」
                         (完)

08/4/26