小説「天の神様の言うとおり」中編

 バーケ達が去って、しばらく経ってからだった。
「ジ……ジジ……ジ……ジン君……?」
 後ろから声がした。ジンには、誰が声を掛けてきたのか、今度はすぐに分かった。
 いつも吃るしゃべり方だからだ。
 ジンはゆっくりと振り向いた。予想どうり、そこにはエリナ・サカシタが居た。
「エリナ……っ」
「……ど……ど……どど……どうしたの? こ……こんな所で……っ」
 エリナが、おどおどしながら聞いてくる。
「いや……っ」
 ジンが説明しようとした時だった。エリナの後ろから、金髪で、右耳にピアスをした少年が、出てきた。
「何こいつ。知り合い?」
 少年が、エリナに聞いた。エリナは少年が怖いのか、さらにおどおどしだした。
「え……っえと……その……っこ……この人は……私と同じ神見習いで……っジ……ジン君って言うの……っ」
 エリナの答えに、少年は、ふーんとだけ言った。
「ジ……ジ……ジ……ジン君……この子は……っその……私の……試験対象の……天枷春樹君で……す」
 エリナは、春樹の機嫌を窺いながら、ジンに紹介する。
「初めまして」
 そう言って、ジンは春樹に右手を差し出し、握手を求めたが、その手は無惨にも、振り払われた。
 ジンは少し怒りを覚えたが、必死に平静を装った。
「……エリナ……。俺、こいつ嫌い」
 春樹は、そう言ってから、学校とは、反対の方面を見て、どこかへ行こうとしていた。
「え……っちょ……っちょ……っとは……春樹君!? ど……ど……どこ行くんですかっ……が……がが……学校は!?」
「ふけるんだよ。もう、行く気無くした」
 必死で止めようとするエリナに、春樹はうんざりした様子で、溜め息を吐いた。
「ダ……ダダ……ダ……ダメですよ! は……春……っ」
 そう言って、エリナが春樹の腕を掴もうとしたが、春樹がそれを許すはずも無く、伸ばした手は、鈍い音を立てた。
「お前、うぜぇ」
 春樹の何気ない一言で、エリナは負けじと、もう一度伸ばした手を、引っ込めた。
「あ……」
 春樹の目は、エリナを睨んでいた。
 エリナは怯んだ。春樹が怖かったのだ。
「……春樹君」
「あ……?」
 今まで黙っていたジンが、呼びかけに振り向いた春樹の顔を、突然平手打ちした。
「……っな」
 春樹は即座に、ジンを睨んだ。
 エリナは慌てて、春樹の肩を掴んだ。
「あ……っあの……っジ……ジジ……ジン君、は……春樹君も……っお……おち……っ落ち着いて……下ささ……い」
「ホントはグーで殴りたかったけど……平手打ちで勘弁してやる……今の言葉、取り消せ」
「はぁ!? 何で?」
 春樹は眉をひそめた。
「今の言葉で、エリナが傷付いたから。……何より、俺自身が、すっげぇムカついたからだ」
 ジンの言葉に、エリナが、自分の胸に、先程から少し感じていた痛みに気付いた。
「?うぜぇ?って言葉はな、人に向かって言う言葉じゃない。自分に言う言葉だ」
 ジンは、すごい形相で、春樹を睨んでいた。
 春樹は目を逸らせなかった。
 ジンはただならぬ空気をかもし出していたのだ。
 取り消さないと本当に、平手打ちじゃ済まないかもと、春樹は思った。
「わ……っ分かった、分かったよ、取り消しゃいーんだろ、取り消す、取り消すから」
 ジンは、春樹のその言葉を聞くと、睨んでいた目を、今度は優しく見つめた。
 春樹は、ほっと胸を撫で下ろした。
「悪い、エリナ。試験対象に手ぇ出しちまって」
 ジンは、エリナに、両手を合わせて謝った。
 エリナは春樹の肩から手を離し、ジンに向かって、笑顔を見せる。
「な……な……何か、少し……変わった……ね」
「……え?」
 エリナの言葉に、ジンは少し、首を傾げた。
「ジ……ジン君……前は……もっと、人のことには……む……無関心って……か……感じ……だったのに。の……のんびりしてた……と言うか……何て言うか……そ……その。さっきは、びっくりし……した」
 ジンは、目を丸くした。
 エリナも、ジンのことを、見ていてくれたのだ。
 カイルと、ジーナみたいに、自分のことを、存在を、認めてくれていたのだ。
 ジンは、そのことがすごく嬉しく思えた。
「……そうだ、エリナ! お前、俺を、人間から見えなくすること、出来るか? 学校が終わるまでで良いんだ」
「え……い……いい……良いけど……私の……し……神力が持つか……わ……分からないけど……」
「あ……それは多分、大丈夫。術を掛けてくれるだけで良いんだ。もしばれた時は……言い訳でもして逃げ出してくる」
 ジンは少なからず、やる気に満ちていた。
 それはとても珍しいことだったが、ジンは、紗絵のことを考えていたのだ。
 ジンは思った。
 紗絵のような女の子は、死んではいけないと。
 自分の方が、風邪を引きそうなのに、マフラーを、気を使って、巻いてくれた紗絵。
 ちょっと……心配なんだよな……。
 エリナは、ジンに言われた通りに、人間に見えなくする、神術を掛けた。
 掛けた後、エリナは、ジンの額に押し付けていた右の手の平を、ゆっくりと離した。
 その光景を見ていた春樹は、驚いていた。
 本当に、さっきまで見えていた男……ジンが、消えていたのだ。春樹は目を、ぱちくりさせた。
「は……!? マジで消えた……っすげぇ。神見習いとか、やっぱマジ話だったわけ!?」
 春樹が、エリナの肩を掴んで、揺さぶった。
 エリナはあわあわ言いながら、小さく頷いた。

 ジンは、エリナにお礼を言うと、颯爽と走り出した。
「紗絵ちゃんは、どこだ?」
 ジンは校内に入り、紗絵の姿を探す。
 その頃、丁度、お昼休み中だったらしく、廊下には生徒がたくさん居たが、ジンの姿は、誰にも見られない。ジンはそれが嬉しくて、少し笑った。
 ジンが、誰かとぶつかっても、相手には誰とぶつかったのかが分からないのだ。
 ジンが、三階……四階の階段を登ろうとした時だった。
 女生徒が何人か、よってたかって、一人の女の子を、いじめているように思えた。
 ジンは、その女の子に、見覚えがあった。
 そして、その女の子の後ろには、あのバーケ・ポルラドが居た。
「バーケ……!? じゃあ、あの子はさっきの」
 バーケは、ジンの姿に、気付いていないようだった。
 何をするでもなく、バーケはあのちっちゃくて暗い女の子の後ろで、ぼやいていた。
 バーケも、姿を消しているようだ。
 ジンは、階段を登ろうとして、思いとどまった。
 バーケのことだ、ジンが行ったら、また何を言われるか、何をするか分からない。
 それにあの場は、バーケがどうするのか、ジンはライバルとして、見守らなければならないような、そんな気がするのだ。
 ジンがそんなことを思っていると、女生徒達の声のボリュームが、次第に大きくなっていく。
「ねぇ、だから、どこ行くのって聞いてんの! 答えなよ! は!? 聞こえねっつの。何? ノート? お前字汚いよな!」
 馬鹿にしたような笑い声。
 小さくて聞こえない少女の声。
 何もしないバーケ・ポルラド……。
 ジンの心も、次第に不安定になっていく。
 世界が、色あせる瞬間。
 落書きだらけの、ひどい言葉が連なった、恐らく少女のものと思われる、A4ノートが、ジンのところまで降ってくる。
 ジンは、それから目を離した。
 見たくなかった。忌まわしい、人間の記憶。
 そうして、しばらく、ジンは一部始終を見ていた。
 そう、少女が、女生徒達に、階段から突き落とされそうになる、まさにその時まで。
 ジンは一瞬、何が起きたのか、分からなかった。
 モップが降ってきた。
 少女が……嫌、違う、紗絵が落ちてくる。
「紗絵ーー!」
 ジンには、全てがスローモーションのように見えた。
 キバが紗絵の頭の上で、空に浮きながら、手足をバタつかせている。
(……っ! ジン!)
 キバがジンに気付いて、助け舟を出してくれとでも言いたげな目をする。
 何であの少女じゃなく、紗絵が落ちているのか、今はそんなことはどうでも良かった。
 助ける……っ
 ジンはそう思い、紗絵を力一杯受け止めた。
 と、ホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
「い……たたた……って、あれ……ジンさん……?」
 紗絵は、無傷で起き上がると、ジンを見下ろしていた。
「何でここに……って……大丈夫ですか!?」
 ジンは放心していた。
 紗絵の目には、ジンが映っていた。
 そう、ジンに掛かっていた、人間に見えなくなる神術が、解けていたのだ。
「な……っあれ誰!?」
「さぁ……怪しい人じゃないの?」
「あたし先生呼んでくる」
「え……っちょと!」
 そう言って、去っていこうとした女生徒達を、キバは見逃さなかった。
 空中で即座に、彼女達に神術をかける。
(てめぇら。俺の声が聞こえるか?)
 それは、テレパシーのようなものだった。キバは、彼女達の心に、話しかけたのだ。
「い……っ今の何!? 何か聞こえなかった?」
 一人が、もう一人に聞く。
「うん。聞こえた! 何なのこれ……気持ち悪い」
「ああんた! なんかしたの!?」
 少女が、暗い女の子に向かって怒鳴る。
 女の子は必死で首を振る。
「気味が悪い」
(まぁそう、がなるなっての。お前らは何だ? あの子が嫌いか?)
「もう! しゃべんじゃねぇ!」
 女生徒の一人が、自分の胸の辺りを押さえる。
(嫌いか?)
「ああ! 嫌いだよ!」
「あたしは……そういうわけじゃ」
「あ……あたしも」
 二人の女生徒が、否定する。
「お前ら! 今何て!」
 信じられないことを聞いたらしい一人の女生徒が、他の生徒に掴みかかる。
「だ……っだって……。あたし達……あなたに脅されて……ねぇ」
 掴みかかられた生徒は、もう一人に同意を求め、その子も同意した。
「そうだよ。あたし達……別にその子が嫌いなわけじゃないし……」
「裏切る気!?」
「別に……そういうわけでもないけどさ」
「確かに……時々うざいけどさ……めちゃくちゃ嫌いってわけじゃ」
(どうやら、お前が親玉のようだな)
 キバが、一人の女の子にめぼしをつけたらしい。不適に笑う。
(こんなことでしか自分を出せないなんて……お前、寂しい奴だな。寂しくて寂しくて、あの子みたいに甘やかされて育った、気の弱い奴が、むかつくんだろ。大嫌いなんだろ。いい加減認めちまえよ。一人じゃ度胸が無いくせに。強がって、強がって、強がって。それで自我を保とうとしてたんだろ)
「煩い……」
 少女は呟く。
(哀れだよ。醜いよ。八つ当たりは最低だよ?)
「煩い煩い煩い煩い、うるさーい!」
 少女は叫ぶと、他二人の女生徒の腕を掴んで、突然歩き出した。
「行くよ! あの怪しい男、先生に言いつけなきゃ!」
「え!? ちょっと!」
「うえぇ」
 キバは、少女の後姿を見ながら、もう一度不適に笑った。
 その場にいた紗絵達は、何が起こったのか全く分からない。
 少女達の行動を、ただただ、不思議に思うしか、無かった。

女生徒達は、どこかへ行ってしまったが、あの少女は、バーケと共に、その場に立ち尽くしていた。
「ジンさん……!?」
「……っバーケ!」
ジンは起き上がった。
 紗絵を後ろに隠れさせ、キバを頭の上に乗せたジンは、階段の上のバーケを、睨みつけた。
「ちょっと、ジンさん!? 白上さん以外に、そこに誰か居るの?」
「バーケ・ポルラド! やりにくいから、姿を見せろ! こいつは俺の試験対象だ!」
 ジンにそう言われたバーケは、しばらくして、紗絵の目に映った。
「! ジンさん……ってことは、白上さんがあの人の試験対象なの……!?」
 紗絵が、驚きの声を上げる。
(……白上彩子、紗絵のクラスメイトか。……ったくよぉ、紗絵、いきなり走り出すなよ。落ちるかと思ったぞ)
「……っごめん、居ること忘れてた」
 キバは溜め息を吐き、紗絵は苦笑い。
 どうやら紗絵は、通りがかった所を、彩子を助けるために、走ってきたらしい。
 そして、自分が身代わりに、階段から落ちたのだ。
 彩子は、床に膝を突いた。
「……で……」
 彩子は、震えていた。
「……私の……せい……で……」
 必死に声を、絞り出そうとしているようだった。
 バーケは無言で、彩子を抱き上げる。
 いわゆる、お姫様抱っこをしたまま、バーケは階段を、舞い降りた。
 バーケは、ジンの目の前に来ると、ゆっくりと彩子を、床に降ろした。
「ごめ……なさい……」
 彩子は震えた声で、紗絵に謝る。
 そんな彩子に、紗絵は、優しく微笑み、そして優しく大丈夫と、声を掛けた。
「これは、あたしが勝手にやったことだもの。それより、また何かあったら、あたしに言ってね、助けてあげる」
 紗絵の言葉に、嬉しく思った彩子は、あんどの表情を見せようとしたが、それはすぐに消えた。
「甘やかすな」
 バーケの一言で、その場の空気は一瞬、凍りついた。
「これだから、人間は嫌いだ。そんな甘いことばかり言って、自分は味方だと信じ込ませて、結局は裏切るんだ」
「はぁ!? 何であたしがそんなことしなくちゃいけないんですか!?」
 紗絵が、眉をひそめて、バーケに怒鳴る。
「あたしはただ! 純粋に!」
「うるさい。そんなものは、綺麗ごとだ。」
 冷静沈着なバーケは、淡々と言った。
「バーケ……お前……。何でさっき、何もしなかったんだ」
 ジンは、ずっと気になっていた。
 先程のバーケの行動に、疑問を抱いていたのだ。
「助けようと思えば、助けられたはずだろ、それは、自分が出来なかったことに対する、僻みじゃねーのか?」
 ジンが、バーケを真っ直ぐに見つめる。
 バーケは、ジンから目を逸らせなかった。
「違うな。俺は、何もしなかったわけではない。俺は、見ていただけだ」
「見ていた……って、だから何で!」
 ジンは、さらに深く聞き出そうとした。
「本人が頑張ることだから。何も言えない。言わない、こいつ自身が悪いんだ」
「は!?」
 バーケの言葉に、ジンは激しく嫌悪感を抱いていた。
 それはキバも、紗絵も同様で、ただ彩子は、俯いてしまい、何も言わない。
「反撃でも何でもすれば良かったのさ。自分で。俺はそういうことで手助けなんかしてやらない。それが俺のやり方だ。最初から諦めて何もしない奴は、出来ないんじゃなくて、やらないんだ。逃げてるだけなんだよ」
 ジンは、バーケの言うことにも、一理あると感じたが、それでも、その言い方が気に入らなかった。
「大体……お前は人のことが言えるのか? お前だって、ずっと下から見てただけじゃないか。お前も逃げたんだろ」
 紗絵が、ジンを見た。
 それは本当かと、問いている目だった。
「違う! あれは、バーケの試験だったから……っ」
「言い訳か。見苦しい」
「……バーケ……。お前、今……何考えてる……」
 ジンは、腕を震わせた。
「別に何も?」
 バーケの含み笑いと、その言葉に、ついに我慢しきれなくなったジンは、バーケの左頬を殴った。ジンは、思いっきり殴ったのだが、バーケは平然としている。
「あれー? 痛くないよ? 馬鹿だなお前、普通に殴ったって、痛みは感じないって、知ってんだろ?」
「俺がすっきりしたんだから、別にいいだろ」
 バーケの頬は、赤くはならず、痛みも感じなかった。
 ジンの拳は、握られたままで、とても満足しているとは思えない。
 紗絵と彩子は、怯えながら、一部始終を見ていた。キバは、呆れているようだ。
 神見習いになって得したことと言えば、ジンにとっては、殴られても、痛くない、血が流れないことだった。
 神見習いは、いわば死人の魂を、特別な器に移しただけのもの。痛みや体温を、感じるはずがないのだ。
 ジンとバーケは、それからしばらく、睨みあっていた。

 四階へ登る、階段のすぐ下の廊下。お昼休み中だというのに、嘘のように誰の声も聞こえてこない。誰かが来る気配も無い。
 そんな状況下に、四人と一頭。
 先程の女生徒達が、先生を連れて来る気配もしない。どうやらそのまま逃げたようだ。
 睨みあっているバーケとジンを、紗絵と彩子は二人とも、どんなに頑張っても、それを止めさせることは出来ないと、思っていた。
 バーケの口が動く。
「お前、神見習いにダメージを与える方法、知ってるか? こうするんだよ」
 そう言った後、バーケの右手が、何かを引くような動きをした。
 次の瞬間、ジンの体に、激痛が走った。
「う……っ」
 ジンが、呻き声を上げた。
「ジンさん……!? どうしたの?」
 紗絵が心配して、ジンの腕に触れようとする。
(触るな!)
 いつの間にか、紗絵の頭の上に乗っていたキバが、驚愕な顔をして、叫んだ。
 紗絵はその声に驚いて、手を引っ込める。
(……バーケと言ったか……。貴様……もしや、その神術……古文書を読んだのか!?)
 紗絵にも、彩子にも見えない、ジンの体に巻きついた、極細の白い糸のようなものを、キバの瑠璃色の瞳は、しっかりと捉えていた。
(攻撃系の神術は禁術で、それは古文書にしか載っていないはず……っまさか……っ十年前に、突然噴出した古文書は……っまさか……っ)
 キバが、何故だか震えているのを、紗絵は頭の上の小さな振動で、感じ取った。
「キバ……?」
 心配そうに、目玉を上げる紗絵。
「そう言えば……」
 バーケが、おもむろに話し出す。
「確か古文書は……龍神見習いが厳重に、監視なんかつけて、保管してたなぁ……。間抜けな監視龍神見習いだったよ」
 バーケは、浅く含み笑いをした。
 キバは小さく、顔を歪ませる。
 バーケは、さらに話を続けた。
「龍神見習いの中でも、優秀だったみたいだが……大したことなかったよ。だってさぁ……少量の睡眠草を焼いて、煙を嗅がせただけで、まさか爆睡するとは……あの龍、あの後どうなったかなぁ。きっと、たっぷり叱られたんだろうね。龍神様に」
 バーケはわざとらしく、キバの方を見た。
 キバは目を逸らして、平常心を保とうとしていたが、動揺は隠し切れない。
「バーケ……っ黙れバーケ……っ」
 ジンが、苦々しい声を出した。
 そこに居た、誰もが気付いていた。
 バーケの言う、龍神見習いが、キバだということを。
「……を……おちょくって……っ楽しいか……っお前……最低だよ……」
 ジンは、体を抉るような痛みを、必死に堪えながら、バーケを睨んでいた。
「黙るのは、お前の方だ」
 そう言うとバーケは、右手拳に、さらに力を入れる。
 さらなる激痛が、ジンを襲う。
「く……っああ!」
「ジンさん!!」
 呻くジンを、心配する紗絵。だが触るなと言われては、何も出来ない。
 悔しくて、涙が出そうになる。
「止めて……っバーケさん!」
 紗絵の言葉を、バーケは聞き入れなかった。
「知っているか、ジン。何故、攻撃系の神術が、禁術になっているか。何故、その禁術の書かれた古文書が、龍神見習いによって、保管されていたのか。……答えは全て、古文書に書かれていたよ」
 彩子は、ずっと体の震えが、止まらなかった。
 今、目の前のこの光景が、恐ろしく思えた。
「昔々、まだ人間が、地球が生まれる前、神見習い達は、存在していた。そして、地球を創造しようとして、誰が、何の神様になるかで、揉めていたんだ」
 バーケは、ジンの呻き声に構わず、話を続ける。
「それは、次第にとても醜い、争いになっていった。……そこで彼らは、攻撃するすべを編み出した。物を創造する力は、時に凶器になる。……だが、最後に残った者は、今までの自分達の行動に、絶望したそうだ。そして、攻撃系の神術は、全て禁術として、二度と使うことの無いように、古文書に書き記し、龍神見習いに、それを守らせた」
 ジンが、痛みの中、ゆっくりと口を開く。
「お……前……みたいな奴に……悪用されないため……にか」
 ジンは、紗絵が言っていたことを、思い出していた。
『ジンさんて……全然神様って感じがしないし……何か、普通の人みたい』
 今思えば、神見習いとは、自分達が思っているよりずっと、人間に近い存在なのかもしれないな。
 ジンは、溜め息混じりの笑顔を、バーケに見せる。
「……何だ、その顔は……っ」
「……バーケ……っお前、一体何が目的なんだ……? ……そこまでして……何がしたいんだ……?」
 バーケを挑発するかのような、ジンの笑み。
 バーケは、苛立ちを隠せない。
「いいだろう、教えてやるよ!」
 そう言うと、バーケは、右手の拳を、勢いよく、前方に突き出す。
 それと同時に、ジンの体は、後方の壁に叩きつけられ、全身を殴打した。
 ジンの後方に隠れるようにして立っていた紗絵は、巻き込まれる寸前で、倒れ込むように、横へ避けた。
「キャアァァ!」
 叫ぶ紗絵。避ける瞬間、体が軽く感じたので、キバが助けてくれたのだと、紗絵は思った。
「がはっ」
 ジンは、体の中から何かを出しそうな程の痛みに、気を失いかけた。
 彩子は、歯を食いしばって、眉をひそめた。
「俺はな、どうしても、天の神になりたいんだよ。こんな姑息な真似をしてでも……っ分かってるよ、こんなことして、ただじゃ済まないことぐらい……だが……」
 ジンは何とか、バーケを見つめた。
 視界が少し、ぼやけていた。
「もう後には引けない。俺はこの世の全てを憎んでる。この、不条理な世界を、一新する。そのために……っ俺は天の神になる……!」
 バーケは、強い目をした。
 まるで、固い決心をしたような、その強い目を、ジンは、しっかりと見ていた。
「一……新……?」
 ジンは、呟く。
「そうだ。世界の一新を、俺は望む。正直言って、今の天の神のやり方には、納得が行かない。この腐った世の中を直すなど、不可能だ。今のままのやり方で、この先、何百年、何千年……ふざけた話だ」
 バーケが不気味に笑うと、キバがとうとう、口を開いた。
(貴様……っ言わせておけば……っ天の神様を悪く言うな!!)
 キバはそのまま、バーケの所まで飛んで行き、思い切り、炎を口から吐き出した。
 するとバーケは、その炎を、左手で掴んだ。
 しばらくすると、キバの炎を掴んだ、その左手の隙間から、煙が昇っていった。
(な……っ)
 キバが、驚きの声を上げる。
 バーケは左手を広げた。
「古文書に書かれてたのが、攻撃系の神術だけだと思うか?」
 バーケは広げた左手で、キバの額に、人差し指を向けた。
 キバは、何かされると思い、目を瞑った。
「キバにまで、何かするつもりなんですか!?」
 紗絵はそう言うと、キバの小さな体を、自分の方に引き寄せる。
 キバが目を開けると、紗絵の顔が、頭上にあった。
(紗絵……っ)
「……紗絵ちゃん……っ」
 紗絵はバーケを、睨みつけていた。

 バーケは、行き場の無くした左手を、降ろした。
「……何故、邪魔をする」
 紗絵の腕に拘束されているキバは、必死で、その腕から逃れようとしているが、紗絵は腕の力を抜こうとしない。
(……っこら紗絵! 離せ! 止めろ!)
 キバの叫びを、紗絵は聞こうとしなかった。
「ジンさんを離して下さい」
 紗絵は、どうにかして、ジンを助けたいと思っていた。
 だから一歩も引かなかった。
「質問に答えろ」
「誰にも、何もしないで欲しいんです」
(紗絵! そいつには、何言っても無駄だ!)
 キバは、紗絵の腕の中でもがきながら、叫んだ。
(そいつは俺達の大事な古文書を盗んで、悪用して、その上、天の神様を愚弄しやがった! 俺がこんなちっこい姿なのも、全部そいつのせいなんだ! 許さねぇ! 許されるはずねぇんだ!)
 キバは、バーケを睨んだ。
 バーケはキバに、冷たい眼差しを向けた。
(……天の神様はな……優しいお方なんだ。十年前……古文書が盗まれて、俺が龍神様に咎められて、消滅させられそうになった時、あの方は、俺を助けて下さった。そのおかげで、俺は消える代わりに、こんな姿にさせられたが、消えずに済んだこと……ものすごく感謝してるんだ。だから俺は絶対……っお前を許さない!)
 紗絵は、キバを見た。
 その瑠璃色の瞳は、真っ直ぐにバーケを捉えていた。
「……だから甘いんだよ、それが」
 バーケが、小さく呟いた。
「天の神が、今していることは、全部無駄だ。すぐ無駄になる……俺が世界を造り返る……最高の世界を造るんだよ」
 バーケは不気味に笑う。
 その笑い声を制したのは、紗絵だった。
「……あなたは……あなたは何も分かってないんですね」
 紗絵は、真っ直ぐにバーケを見つめた。
「……何……?」
 バーケも、紗絵の方を見る。
「確かに、一度全て壊して、また一から作り直すのは簡単です。……けど……苦労してでも、傷付いたものを、一つ一つ直して行くことは、とても素敵なことだと思うんです」
 ジンは、紗絵のその言葉に、不思議な気持ちを感じた。
「直した所を……また直さないといけなくなるかもしれない……そんな面倒くさいことをいちいち……って思うかも知れないですけど……でも……それをあえて選んだ、その、天の神様はきっと……最初に造ったその世界を……きっと愛していたから……愛していたから、壊せなかったんだと……あたしは思います」
 それは紗絵の、真っ直ぐな意見だった。
「……愛……だと……?」
 バーケは少し震えながら、左手を、紗絵の目線まで上げた。
「そんなもの……っ知ったことか……!!」
 バーケの左手が、広げられる瞬間だった。
(……っ紗絵!)
 キバと彩子は、目を見開いた。
「止めろバーケ!!」
 ジンが叫んだ。同時に拳に力を入れて、力一杯、呪縛から逃れようとする。
「ぐああ~~!!」
 ただならぬ激痛に、奇声を上げる。
 バーケは、ジンの奇声に、思わずそっちに気を取られた。
「無駄なことを!」
 バーケはジンの行動を、鼻で笑った。
「無駄なことなんて……っ無い……っこの世に無駄なことなんて……っ一つも無い……っ無駄にしなきゃ良いだけだあ!」
 次の瞬間、キバとバーケは、信じられないものを見た。
 ジンの体に巻きついていた白い糸が、床に落ちて、次々と消えていくではないか。
「……っそんな……っまさか!」
 バーケは、うろたえた。そして頭を抱えた。
 自分の術には、絶対に破られないという自信があったのだ。
「ジンさん……っ大丈夫!?」
 痛みから解放されて、よろけたジンに、紗絵は駆け寄った。
 キバは、やっと紗絵から解放され、ジンの頭の上に乗る。
 ジンは、何とか立ち上がると、バーケに向かって言い放った。
「……お前は、天の神様になるべきじゃない」
 バーケの中で、何かが壊れる音がした。

「うおおお~~~!!」
 バーケの叫び声は、三階の廊下に、響き渡った。
 床に膝を突いたバーケは、自分の両手を見て、さらに驚愕した。
 指先から、何か黒いものが、自分の体を、侵食していくのだ。
「……何だ……何だこれは……っ」
 バーケの全身が、震えていた。
「おい……っ大丈夫か!?」
 ジンが、バーケの肩に触れようとする。
(待て、触るな!)
 キバの静止が掛かる。
「一体……っ俺は、どうなるんだ……? 嫌だ……消えるのは嫌だ……っ」
(……闇だ……っこいつの心の中にあった闇が、とうとう、こいつ自身を飲み込み始めたんだ……こうなるともう……っ誰にも、止められない……っ)
「そんな……っ」
 バーケの体はもう、左半分が、闇に包まれていた。
 バーケは、ジンを見つめた。
「お願いだ……助けて……くれ……っ」
「バーケ……っ」
(無理だ……っジン、お前まで飲まれるぞ……っ)
 ジンも、キバも、紗絵も彩子も、バーケが闇に飲まれていくのを、ただ見ているしかなかった。
 バーケは、全身が闇に飲まれる、最後の瞬間まで、ジンに助けを求めていたが、やがて闇と共に、バーケの姿は、消えていった。
「バー……ケ……っ」
 ジンは、ショックで、放心していた。
(仕方ない……あいつの闇は、もう限界まできていたんだろうよ。そして溢れ出した)
「……闇に飲まれて……その後は……どうなるんだ……?」
 ジンは、俯いていて、表情が見えない。
(分からん……ただ……もしかしたら二度と……)
「その先を言うな!」
(……っ)
 キバは分からなかった。
 ジンが気を落としている理由が。
(自分が聞いたんだろう)
 キバは少し、機嫌を損ねたみたいだった。
「……あの……さ……助けられないの……? 助けてあげなくて良いの……!?」
 紗絵は、ジンに問いた。
 だが、ジンは何も答えない。
 代わりにキバが、首を横に振った。
(例え助けられたとしても、俺は気が乗らないな。あんな奴……自業自得なんだよ)
「……っちょっとキバ!」
 紗絵が、キバに掴みかかろうとした時だった。
 今まで、黙りこくっていた彩子が、呟くように言った。
「……助けて……助けて……あげて下さい」
 彩子の、意外な言葉に、目をぱちくりさせる、紗絵とキバ。ジンは俯いたまま、少し反応しただけだった。
「もし……可能性が、一%でも……あるんだったら……あの人を……助けてあげて……欲しいんです……お願い……します……」
 彩子はゆっくりと、頭を下げた。
(……何で……? 何であんな奴、助けたいわけ? 彩子も、紗絵も……)
 キバは、呆れた顔をした。
「あたしは……ただのお人よしかもしんない……」
 紗絵は、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
(神経図太いんじゃねーの?)
「何ー!?」
 紗絵が再びキバに掴みかかる。
「私……っあの人は、私と似てると……思うんです!」
 彩子が少し大きな声を出したので、紗絵は驚いて、動きを止める。
「……似てる……?」
 ジンが、彩子の方を見る。
「……はい……。あの人も……きっと、思ったことを……上手く口に出して……言えないんです……。私は……話すのが苦手で……上手く言えないけど……あの人はきっと……ああいう言い方しか……出来ない人なんだと……思います」
 しばらくの沈黙の後、キバが、ジンの頭の上から、階段の手すりに飛び移る。
(……ったく、仕方ねぇな……。協力してやるよ)
 キバが、呆れたように、溜め息を吐く。
「……どの道、あいつを助けられるのは、俺と、お前だけだ。……ジン、あとはお前次第だ……。お前は、どうしたい……?」
 キバは、真っ直ぐにジンを見つめる。
「はっきり言って……あいつは昔から、あんなだし……。ただ今回は……やり過ぎだ……。それが、あいつの中にあった闇のせいだとしたら……」
 ジンは、キバの瑠璃色の瞳を、見返した。
「俺は……バーケを助ける!」
 それは、固い決意の目だった。
 キバはその目を見て、呟く。
(まったく……同じ目をしやがるんだから……)
「え?」
(何でもねぇよ)
 キバは、溜め息を吐いた。
 溜め息ばっかだな……と思いながら、キバは自分の考えを、話し出した。
(彩子が、あの野郎と自分が似てると感じるってことは、天の神様が試験対象として並んだのは、それが理由なんじゃないかって、思うんだが……。もし……そうだとして……彩子の闇と、あの野郎の闇は繋がっていると考えても……良い)
「それじゃぁ……っ」
 紗絵の目が、輝いた。
 キバは頷く。
(彩子の闇からなら……あいつの闇に入れる。……入ってからどうするかは……ジン。お前に掛かってる)
「……って、俺!?」
 ジンが、驚きの声を上げる。
(俺は正直言って、あいつが嫌いだ。……それに……お前しか居ないだろう……あいつを……連れ戻して来れる奴は……)
 キバは断言した。紗絵と彩子も、キバの意見に同意する。
 ジンは少し、困惑しているようだったが、唾を飲み込み、少し落ち着いてから、頷いた。
「……でも、どうやって彩子ちゃんの闇に入るんだ?」
(俺に任せろ)
 そう言って、キバは彩子の目の前に、ジンを立たせた。
(あ……でも、もしかしたら……)
「え?」
 キバの呟きに、一斉に三人の視線が、動いた。
(あ……いや……何でもねぇ、何でもねぇ)
 三人の視線に、必死で誤魔化すキバ。
(じゅ……っ準備は良いか? 二人とも)
 ジンと彩子は、軽く頷いた。
 キバは、階段の手すりに乗ったまま、両手を思い切り叩いた。
 何かの呪文を唱えると、ジンと彩子の周りの床が光り出し、円陣になった。
 小さな風が舞踊り、彩子の少し長いスカートと、切り揃えられた漆黒の髪が揺れる。
 紗絵はもう、何を見ても驚かなかった。
 ただただ、この光景を、綺麗なものとして、見ていた。
 キバが再び両手を叩くと、光の円陣と、ジンの姿が消える。
 代わりに小さな光の粒が舞う。
 どうやら成功したらしい。
 と、次の瞬間、彩子が力なく倒れる。慌てて紗絵が抱き止めるが、意識が無い。
「ちょっと……っ白上さん!? 白上さん、大丈夫!?」
 紗絵が彩子の頬を軽く叩く。
 しばらくして、昼休み終了のチャイムが鳴った。
 彩子の意識は、戻らない。
(……やっぱりか……)
 キバの溜め息に、顔を上げる紗絵。
「え?」
 見ると、彩子の肩に、キバが乗っていた。
「やっぱりって……どういうこと?」
 紗絵が、首を傾げる。
(……さっき言いかけたことだよ。もしかしたら、彩子の意識も、一緒に飛んじまうかもしれねぇって……)
「何でそーゆーこと、先に言わないのよあんたーっ」
 紗絵が、キバの首根を掴んで、叫ぶ。
(だから、言いかけてやめたじゃねぇか!)
「止めるなよ! 最後まで言えよ!」
(つうか……っあ……やべ……っあと……は……たの……っ)
 キバの声がだんだん小さくなって、寝息に変わる。
「は!? ちょっと! 何寝てんのよー!」
 紗絵が愚痴を叫んでいたら、通りがかった先生に、
「何やってんだ。授業始まるぞ」と、見つかった。
「あ、先生。あの……ちょっと……白上さんが……倒れて……」
 紗絵は急いで、キバを制服のポケットに、忍ばせた。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
 先生が、数学の教科書を小脇に抱えて、歩いてくる。
「……えっと……。何か、意識が無いみたいで……」
 紗絵は、何とか誤魔化して、彩子を保健室まで運ぶと言う先生に、付いて行った。

 そこは、闇と呼ばれるだけあって、本当に暗黒の世界だった。
 ジンは、その暗黒のせいで、前に進めないでいた。
 ただ、目を閉じただけの時とは違う。何も見えない。
「これが……闇……なのか」
 ジンは呟いた。しかし、いつまでもこうしてつっ立っているわけにもいかず、とりあえず明かりが欲しかったジンは、神術を使おうと、思いついた。
「火の神術なら……何とか……出来るはず……っ」
 ジンは呪文を唱えて、右手の人差し指に力を入れた。神力を指先一点に集中させる。
 頼む……っ成功してくれっ
 ジンは祈った。この神術は、まれに成功するので、大丈夫だとは思うのだが、やはり心配だった。
 ぼうっとした炎の光が、指先に灯った。
「お!」
 細く高い炎だったが、今はそれで十分だった。
「よっしゃー! 成功したぁ」
 ジンは、喜びに顔がほころんだ。
「……えっと……バーケは……」
 ジンは薄暗い周りを見回すが、誰かが居る気配がしない。
「もう……駄目なのかな……」
 ジンの気持ちが、少し沈みかけた時だった。
 服の裾を、微かに引っ張られる感じがした。
 ジンが後ろを見ると、小さな女の子が、服の裾を、掴んでいる。
 ジンはその女の子を、まじまじと見た。
「……もしかして……彩子ちゃん……?」
 少女はゆっくりと頷いた。
「何でそんなに小さく……っ」
 彩子は右手を真っ直ぐに上げていた。その右手は、何かを指しているようだ。
 ジンは、指先の方向を、見つめる。
 暗闇の先に、ぼうっと白く光る、小さな男の子が、うずくまって、泣いているようだった。顔は見えなかったが、何となく、あの子がバーケなのだと、ジンは思った。
「助けて……あげて……。あの人を……助けて……あげて……」
 幼い姿の彩子が、呟くように言う。
「泣いてるの……ずっと……。全然……泣き止んでくれないの……可哀想……」
 ジンは、彩子の手を取った。そして、彩子の手を取ったまま、しゃがんだ。
「分かった……。バーケは必ず、俺が助ける。……だから彩子ちゃんも……肩の荷降ろして、良いんだよ。俺は……笑顔の君を、見てみたい」
 そう言って、ジンは彩子に微笑み掛けた。
 すると彩子は、首を横に振った。
「私の……ことは良いの……。今は……あの人の苦しみや悲しみが、少しでも無くなることが、私の願い……」
「……分かった」
 ジンは頷くと、彩子の手を離して、立ち上がった。
 彩子がもう一度、ジンの上着の裾を掴んできたが、ジンは何もしなかった。
 ただゆっくりと、歩き出す。
「バーケ……?」
 ふと、ジンと彩子は立ち止まる。
 確実に、バーケとの距離は縮まっていたが、バーケの向うに、また、白くぼやけた光が、見え出したのだ。
 光は次第に、人の形になっていった。
 同時に、笑い声が聞こえてくる。両親と思われる二人に、子供が二人。
 子供の一人は、父親に、肩車をせがんでいた。
 その四人で、一家族みたいな光景を背に、バーケは泣いていた。
 ジンは必死で考えた。バーケの泣いている理由を。
「お……どうさ……っごめんなさい……っおがあさ……」
 バーケが、顔を拭うたびに、微かに聞こえる声。
 あれは、バーケの家族なのかと、ジンは思った。
 だが何故、何度も謝っているのだろう。
「ねぇ! どうしたの? 君」
 ジンが、少し離れた場所で、バーケに話しかける。
 バーケは、顔を上げて、ジンの方を見る。
「お兄さん……誰?」
 バーケは完全に、人間だった時の、幼い子供の頃のようだった。
「……俺は、ジン。君を助けに来たんだ」
 バーケは涙を、ひと拭いして、止めた。
「その人達は……君の家族かい……?」
 バーケは、ジンの問いに何も答えなかった。
 嫌、答えられなかったのかもしれない。
 バーケは、口ごもってしまった。
 ジンは、一歩一歩、バーケの所まで、歩いていく。
 彩子も後を追う。
「……バーケ! 俺を、信じろ」
 ジンは、バーケの目の前に、しゃがんだ。
 彩子は立ったまま、ジンの後ろで、二人を見ている。不安げな表情をしていた。
「……お……父さんは……お……母さんと……離婚……して……。あの人は……新しい……お父さんで……妹と……弟が……産まれたんだ……オレ……お兄ちゃんなんだ……」
 バーケは、悲しげな表情で、無理に笑顔を作った。
「そうか……おめでとう。……でも、何か悲しいんだろ? だから泣いていたんだろ?」
 ジンは、優しい声で問う。
「新しいお父さんはね……オレに、意地悪するんだ。学校でもね……皆に意地悪されるんだ……」
 ジンは、バーケの向うの、家族を見上げた。
 楽しげにしている家族。それは、バーケの記憶らしかった。
「……俺は……いつも一人だ……」
 ジンは、視線をバーケに戻した。
 その台詞は、幼い姿のバーケには、似つかわしくないぐらい、大人びていた。
「いつものけものにされて……俺は家族の中でも、クラスの中でも、浮いた存在だった……」
 バーケの様子が、さっきとは全然、違っていた。
 ズボンのポケットに手を入れ、バーケは後ろを向く。
 しばらくして、楽しげな家族の幻影が消える。
「服も、ろくに買って貰えなくて、いつも母さんが、こっそり、俺の分の服も、買って来てくれてた……」
 まだ声変わり前の、高い声。だが口ぶりは、子供ではなかった。
「それでもやっぱり……あの男との子供の方が可愛いかったんだな。俺に全然……構ってくれなくなった」
「……お前はそれが……悲しかったんだな」
 ジンの目には、バーケの背中が映っていた。
 その後姿は、あまりにも弱々しく、とてもあのバーケだとは、思えないほどだ。
「お前ら……何でこんな所まで来てんだよ。何でそこまでして……俺を……っ」
 バーケの肩が、震えていた。
「バーケ……俺は、どういう奴だ……?」
「いい加減な奴」
 ジンの問いかけに、バーケは即答した。
「……っま……その通りだな」
 ジンは、苦笑い。
「……馬鹿で……ドジで、間抜けで……その上お人よしだ。お前は……俺が知る限りで、昔からそうだったな」
「おー、ひどい言われようだねぇ……。でも、実は俺も人間の時くそ真面目な奴でさ……。何でも完璧にこなさないと。満足しないとーって……そーゆー奴だったわけさ。完璧主義」
「……お前が?」
 ジンの意外な過去に、バーケが振り返る。
「そ、ジンは真面目だねぇ~って、よく言われてさ、その上友達付き合いが、下手で下手で。よく先生が、好きな子同士で組むようにって言うけど、あれは宜しくないよねー。友達居ない奴にとっては」
 ジンが笑うたび、指先の炎が小さく揺れる。
「……とまあ、そう言う訳で、俺も色々苦労して、大人になる頃には、今の性格が、半分出来上がりつつあったんだ。もちろん、人生を全うして死んだわけだが」
「……だが、例え全うしたとして、その頃の闇が、消えるわけはないだろう?」
 バーケの問いに、ジンは頷く。
「そうだな……。だから、俺は今まで、客観的にあり続けたんだろうな……」
 ジンは、バーケの目を、真っ直ぐに見つめた。
「バーケ……俺は、ホント言うと、ずっとお前に、天の神様になって欲しかったんだ。嫌、お前がなるべきだと思っていた」
「は……?だってお前、さっき……」
 と、自分が闇に入る前に、あった出来事を思い出して、バーケは口を噤んだ。
「ああ……言ったな。?お前は、天の神様に、なるべきじゃない?って。今まで俺は、落ちこぼれ神見習いで、お前は優秀な神見習いだった。俺は真面目君に戻るのが嫌で、いい加減な奴になった。……こんなこと言うのもあれだけどな、俺は、お前が天の神様になってくれれば、自分が楽になれると思った。楽な方、楽な方へ行けば、誰も俺を、すごい奴に仕立て上げることは無い。俺は全てに興味の無いふりをしよう……。このまま大人しく、何事も無かったかのように、?消滅?しようって……。少し怖かったけど、俺はお前を尊敬してたから、そう思えた」
 バーケは、ジンの指先の炎を、指差した。
「じゃあ、お前は、何の神様にも、なる気は無かったってことなのか……?」
「……そうだよ。いつもわざと、やる気の無いふりをして、何もやらなかったから。だから神力のコントロールの仕方も分からない。この通りにね」
 ジンは、自分の指先の細い炎を見た。
 今にも消えそうなその炎は、何かを明るく照らすものでは無かった。
「……羨ましかったよ……。尊敬してたよ……。なのに、何でお前は……いつからそんな風に考えるようになっちまったんだ?」
 ジンの問いに、バーケは答える。
「神見習いとして、天界に生まれた時から、もう百年間も、ずっとだ……。ずっと、俺は人間が信じられないでいた。人間てのは……自分の都合で動く生き物だから。だから簡単に仲間を裏切る。人の言うことを、聞き入れもしない。最悪の生き物だ」
 彩子は、自分も否定されているようで、複雑な気持ちになりながら、二人の会話を、黙って聞いていた。

 保健室の薬品の臭いは、人によっては異臭と感じるのだろうなと、紗絵は思った。
 倒れた彩子を、数学教諭に、保健室へ運んでもらい、付き添いたいと、紗絵は彩子の傍に居た。
 キバは相も変わらず、紗絵のポケットの中で、静かな寝息をたてている。
 保健室のドアが、騒々しく開く。
「あれー?何だ、先生いねーの? ラッキー」
 突然の出来事に、紗絵の肩が、ぴくっと上がる。
 紗絵は、びっくりしたーと思いながら、振り向く。
「せ……っ先生なら……職員室に……。多分、しばらく……戻って来ないと……思います」
 入って来たのは、紗絵の知らない生徒だった。
 その男子生徒は、金髪で、しかも右耳にピアスをしている。不良少年と言う言葉が似合いそうだと、紗絵は思った。
「そっかそっか。……で、その子どうかしたの?」
 金髪少年は、彩子の寝ているベッドの、向かいのベッドに、腰を下ろす。
 紗絵は、ベッドとベッドの間に置かれた、背もたれの無い、回る椅子に座っていたので、目の前の不良少年に、少し怯えていた。
「あ……えと……その……。意識が無くて……別に外傷は無いんだけど……色々ありまして……」
「ふーん……あんた、付き添い?」
「はい……」
 紗絵は、頷いた。
「じゃ……俺はしばらく寝……っ」
 そう言って、少年がベッドのシーツに潜り込もうとした時だった。
「……っだ……だだ……っ駄目ですよぉ!」
 何処からともなく、その少女は現れた。音も、気配もなく。
「おわっ」
 少女は、少年が被ろうとしていたシーツを、無理矢理ひっぺがえす。
「ち……っちゃんと授業に……っで……出て下さい!」
 紗絵は驚きすぎで、声が出ない。
「ふざけんな! 俺はねみーんだ、寝かせろ!」
 少年は手探りで、シーツを引き寄せる。
「わ……っ分かりました! 眠くならなければ……っ良いのですね……っ」
 少女はそう言って、少年の目の前で、両手をぱんっと叩いた。
 そこに光の粒が舞い散るのを見ると、紗絵はあることに気が付いた。
「……もしかして……あなたは……っ」
紗絵は目を丸くした。
「……あ……あなたが……ジンくんの……試験対象さんですよね……? わ……私、エリナ・サカシタと申します……です」
 エリナの後方で、金髪少年が唸り声を出している。
「くあ~っお前今、何した?」
 エリナは、少年の問いには答えなかった。
 少年は、両目を押さえている。
「さ……っ紗絵さん、こ……っこちらは……天枷春樹君です。わ……私の……試験対象な……なんです」
「……は……はあ……」
 紗絵は、予想通りの言葉に、少し眉をひそめた。彼女は、ジンと同じ神見習いなのだ。
 だが何故、自分の前に現れたのだろう。紗絵は不思議に思った。
「……っ良いから早く、元に戻せっ」
 春樹の瞼が、苦しそうに震えていた。
 目を閉じたくても、閉じれなくなっていたのだ。
 春樹があまりにも可哀想だと、思い直したのか、エリナは再び春樹の目の前で両手を叩いて、術を解いてやる。
「す……っすみません、春樹君……っだ……だ……大丈夫……っ」
 顔を触ろうとしたエリナの片手を、春樹は迷惑そうに薙ぎ払う。
「あーもーうっとーしいっ」
「……す……すみません」
 エリナは畏まった様子で、ベッドに座り直す。
 春樹は、エリナと紗絵に、背中を向けた。
 そんな春樹を尻目に、エリナは紗絵に話しかける。
「あ……あの……紗絵さん、ポケットの中に、小さなドラゴンさんが……い……居ますよね……」
 エリナには、キバの姿が見えていたのだろうか、紗絵はギクリとした。
 そして、キバをポケットから取り出して、傍にあった台の上に、ゆっくりと乗せた。
 キバは静かに寝息をたてる。
「……わ……私、す……少し心配で……っさっき、ジンくんに、術だけかけて欲しいって……い……言われたから、かけたんだけど……それが解けたみたいだったから……で……でも今は……ジンくんの気配が、学校内に無いの……それはどうしてなのかが……少し気になって……その子も意識が無いみたいだし……い……一体……な……何があったんですか?」
 春樹は、台の上のキバを、ちら見していた。
 紗絵は、そんな春樹を横目で見やってから、エリナを、見直した。
 そして、ゆっくりと話し出す。
「……ジンさんは……闇に飲まれたバーケさんを、助けに行きました。キバが……ドラゴンの名前なんですけど……キバが、バーケさんの闇と、白上さんの闇が、繋がっているかもしれないって……」
「そ……そ……それで……ドラゴンさんが、力を、使ったんですか。彩子さんの意識も……や……闇の世界へ……行ってしまったと……言うわけですか……」
 紗絵は、ゆっくりと頷くと、眉をひそめた。
「ちゃんと……三人とも……帰って来ますよね……?」
 不安げな表情の紗絵。
 エリナは、だ……だ……大丈夫と、吃りながら笑う。
「だ……だって……。ジ……ジ……ジンくんが、居る……から。い……いい……今はただ……っ彼らをし……信じて……ま……まま……っ待つしか……ないですよ……」
「はい……」
 返事をして、紗絵は彩子の方へ目を向ける。
「早く……帰って来て……皆……」
 紗絵は、彩子の手を取り、祈った。

 闇という世界は、誰の心にも潜んでいる。
 そこは暗黒の世界。
 一度飲み込まれて、無事に帰って来た者は、ごく僅かだ。
「……バーケ、お前は言ったよな、世界の一新が目的だと。そのためなら、どんな手でも使うと。……それは?逃げ?だろ」
「違う!」
 ジンの言葉に、バーケは否定の言葉を投げる。
「俺はお前が、おもちゃ売り場で、駄々をこねてる子供にしか、見えない。……もっと現実を見ろよ。逃げて逃げて逃げて……お前はここから、出られなくなったんだ」
「黙れ!」
 バーケが、甲高い声で、叫ぶ。
「黙れ黙れ黙れ黙れ! お前に何が分かる! 俺は、俺のやり方で、この世を変えようと思っただけだ! なのに、何で否定する! 俺の何が悪い!」
 今にも泣き出しそうな顔だった。
 ジンは、バーケを引き寄せる。
 バーケは、とっさに両手で、ジンの顔を押さえた。
「止めろ! 何すんだよ!」
 ジンは負けじとこう言った。
「バーケ……俺……っ決めたんだ……っお前の変わりに、天の神様になるって……っ」
 バーケの両手から、力が抜けた。
「は……?」
 バーケは、目を丸くした。
「お前……っお前なんかに、天の神が勤まるかよ」
 ジンの目は、真剣だった。
「分かんないよ、そんなの……。だけど、絶対なってみせる……。だから、だからお前は、俺を信じろ。俺はお前を裏切らない」
「そんなの無……っ」
 ジンが、バーケを思いっきり抱きしめた。
 バーケの、その小さな体は、震えていた。
「無理じゃない。やってみなきゃ、分からねぇだろ。だからお前も、もっと前向きに考えろ。闇の中には、闇しかないじゃねぇか。暗いことは、考えるな。楽しいことだけ考えろ。例えば、ここから出た後、皆で遊ぼうぜ。近頃のゲーム機は、すごいらしいぞ」
「ゲームかよ……っ」
 バーケは、微かに笑った。
「今度、人間に生まれ変わった時にでも、楽しむよ……。ジン……」
「……ん?」
「……ありがとう……」
 バーケは、涙を流していた。
「俺に、礼なんか言うな。礼なら、彩子ちゃんに言え。この子が……この子が後押ししてくれなかったら……今頃は……」
 バーケは、ジンの服の裾を、掴んだままずっと見ていた彩子を、見つめる。
「バーケ……。お前は、一人じゃないからな」
 バーケの涙が、暗黒世界の床に、ぽたりと一粒、それは、光の粒となって、闇を照らした。
 今のジンなら……今のジンなら、俺の願いを、本当に叶えてくれそうな気がする。
 そう、バーケは思った。
「……ジン……。俺、もう苦しい思いをするのは嫌だ。信じて良いなら……信じて良いなら、言っとくけど、出来るだけ……皆が幸せに暮らせるような、そんな世界に……していって欲しい……。誰も、犠牲にならない……そんな世界が……」
「……努力する」
 そう、ジンはポツリと言った。
 彩子が、いつの間にか、バーケの右手を握っていた。それを見たジンは、彩子も引き寄せる。
「……良かった……」
 彩子が呟く。
「戻るぞ……」
 バーケが小さく、頷いた。
 ジンは、炎の灯る指先に、体の中の、神力を送った。炎は大きくなる。
 やがて、その炎はジン達を包み込むと、闇世界から、消えていった。
 そこには、何も残っていなかった。

「ん……」
 彩子の瞼が、ゆっくりと開く。
 それと同時に、紗絵達の目の前に、ジンとバーケが、弱々しく現れた。
 あまりにも突然の出来事に、紗絵は、今度こそ本当に心臓が止まるかと思った。
「ジ……ジンくん! バ……バーケくん!」
 エリナは立ち上がり、倒れそうになっていたバーケを、受け止めた。
 ジンは、よろよろと、彩子のベッドに伏せた。
「……疲れた……」
 ジンが呟く。彩子がゆっくりと起き上がった。
「……っ白上さん!」
 紗絵が思わず、彩子を抱きしめる。
「あ……」
 彩子は、目を見開いた。
 ジンが、彩子に微笑みかける。
「……心配……ありがとう……」
 彩子が呟くように言うと、紗絵は抱きしめる腕に、さらに力を入れた。
 バーケを受け止めたエリナは、目を丸くした。
「バ……っバーケくん……っ」
 あまりに騒々しかったので、思わず振り向いた、春樹の目に、信じられない光景が映った。バーケの体から、光の粒が浮かび上がり、その粒が、次々と消えていく。
 春樹は、目を見張った。
「そ……そそ……そっか……。も……もう」
「ああ……。ゲームオーバー……。試験に落ちたってことか」
 バーケは、自分の足で、しっかりと立つ。
 紗絵と彩子は、バーケの姿を見つめた。
「……安心しろ。?消滅?って呼ばれてるけど、実際、記憶は消されるが、俺の魂は消えない。俺は、天使になって、また現世に産まれてくるんだよ。……あまり気は乗らないが……。俺はもう、逃げないから」
 バーケが、ジンに向かって言う。
 ジンは、立ち上がれないくらい疲労していたので、見上げる形でゆっくりと、頷いた。
「……バーケ……最後に何か、言ってけよ。俺もお前に礼は言っておくがな。ありがとう」
 バーケは小さく頷くと、光の粒を飛び散らせながら、彩子の方へ近づいた。
 紗絵は、彩子から体を離す。
 バーケは、彩子の目の前に立つと、
「……ありがとう……」
 と言って、微笑んだ。
 彩子は、それを聞くと、少し照れた様子で、俯いた。
「皆に会えて良かった。何だかんだで、良い人生だった」
「……やっぱり……悪い人じゃ……ない……」
 彩子の呟きが、聞こえたのか、聞こえていないのか、バーケが、彩子の頬に、手を伸ばしかけた瞬間だった。
 光の粒が、弾けて、そこら中に飛び散る。
 彩子は一瞬、何が起きたのか分からなかったが、目の前に居るはずの人が居ないことに、喪失感を抱いて、涙が……目尻から、零れ落ちた。
 キバの寝息だけが、聞こえた。
 そこに居た誰もが、言葉を失っていた。

 次の日のことだ。
「おはよう! 白上さん」
 紗絵は、席に座っていた彩子に話しかけた。
「お……おはよう」
「昨日は……大変……だったね」
「うん。昨日は……家に帰ったら、疲れて制服着たまま……寝ちゃった」
「あ、あたしもー! でもそしたら、ジンさんに怒られて……っごめん」
「気に……してないから。良いよ」
「うん……」
 二人は、何だかとてもぎこちない会話をしていた。
「そうだ……あのさ、彩ちゃんって、呼んでも良い?」
 ふと、紗絵が聞く。すると彩子は、少し戸惑った様子で、頷いた。
「良いよ。私も……さ……紗絵ちゃんって、呼んで良い?」
 今度は彩子が聞く。紗絵は嬉しくなって、笑顔で頷いた。
「うん! もちろん! あたし達、仲良くなろうよ!」
「あ……私……私ね、話すの苦手だけど、良い? 頑張って、しゃべれるようになるから」
「彩ちゃん、あたしは、そんなに心の狭い人じゃありませんから。安心して。一緒に頑張ろう」
「一緒に……?」
「一緒に!」
「ありがとう……」
 彩子は、紗絵に笑顔を向けた。
 やばい……可愛い!
 紗絵は彩子の笑顔を見て、こっそりとそう思った。
「話中のところ、失礼するけど、勝手なことしないでくれる?」
 突然、いつぞやの女生徒が、話に乱入してきた。
「あんた……っまさかまた彩ちゃんに何か嫌がらせするつもり?」
 紗絵は身構えた。彩子を守らなければと思ったのだ。
「そうだって言ったら?」
「させないよ。このあたしが」
 紗絵は、女生徒を睨んだ。
「昨日はあのまま逃げちゃってごめんね。でもまさか、白上さん早退するとは思わなかったわ」
「あたしが、進めたのよ。彩ちゃんが精神的にまいってたから」
「そうなんだ」
 女生徒は、彩子を横目で見やった。彩子は怯えた。それはまるで、獲物を狙う目だった。
「ねぇ、他の二人はどうしたの?」
「逃げられたわ。ホント、根性なし。でもま、せいせいしたかも」
「そっか。友達に見捨てられるほどの底意地の悪さなんだ。納得だわ」
「な……っ何ですって?」
 女生徒は、紗絵を思い切り睨んだ。二人は睨み合う。
「だって。本当のことじゃない。あんたは、自分の意見を、他人に押し付けているだけの、ただの弱虫よ。改心して、また仲良くすれば?」
「……どいつもこいつも……人のこと、寂しいだの、弱虫だの言いやがって。あんた何様のつもりなの!?」
 女生徒は、叫んだ。教室が一瞬、静まり返る。
「別に。何様のつもりでもないけど。ただ可哀想だなって思っただけ。今後一切、彩ちゃんをいじめたりしないで。次やったら、あたしあんたを死ぬまで呪ってやるから」
 紗絵は怖い顔で、女生徒に凄んだ。
「ふ……っふん! 呪う? やれるものならやってみなさいよ。どうせ出来ないくせに」
「あんまり言うと、先生に言いつけるよ? 呪われる上に、先生に怒られるなんて、最悪だね」
「証拠も無いのに、言いつけるって」
「証拠ならあるよ。彩ちゃんのノート。筆跡鑑定に知り合いがいるから、すぐばれるね。どう? ばらされたくないんでしょ? あたしも殺されかけたし」
 しばらくの沈黙。女生徒は、溜め息を吐いた。
「あんた……恐ろしい女だね。どうせはったりだろうけど。分かった。もうしません」
「分かれば宜しい。さ、じゃあ改めて、あんたもあたしと仲良くなろう」
「は?」
 突然の申し入れに、女生徒は、眉をひそめた。
「意味わかんないんだけど、あんた」
「ならないならいいけど。友達いないんでしょ? 友達要らない? じゃ、寂しくなったら仲間に入れてあげるよ」
 紗絵の言葉の羅列に、女生徒は、もう一度溜め息を吐く。
「気が向いたらね」
 そう言って、女生徒はどこかへ去っていった。
「すごい……紗絵ちゃん」
「かなり無理のある脅しだけど、分かってくれてよかった。多分あの子も……止めるきっかけが欲しかったんだろうと思うから。これで良かったかな」
「紗絵ちゃん……本当に……色々、ありがとう」
「いーってことよ」
 紗絵はそう言って、悪戯に笑った。

「あの、駅前のCDショップに、寄っても良いですか?」
 学校帰りの道の途中、紗絵が、振り向きざまに、ジンに言う。
 バーケが?消滅?してしまってから、数日、気落ちしている暇も無く、ジンは、神見習い試験に合格するため、日々こうして、紗絵を守っていた。
 しかし、学校の校舎には、相変わらず、入ることが出来なかった。
「ん……まぁ、良いけど」
 ジンは、一日中、自分の代わりに、校内での護衛をしていてくれていた、コートのポケットで、ぐっすり眠っているキバを見た。
「あーあ、俺が神術ちゃんと使えたら、こいつにこんな苦労掛けなくて良かったのにな」
 溜め息を吐くジンを見て、紗絵は苦笑い。
「キバ、愚痴ってましたよぉ。もっとマシな奴のサポートしたかったって。でも、天の神様の頼みだから仕方ねぇかって。あいつは努力が足らねぇって、その後もねちねちと」
 紗絵は、腕を組んで、首を少し傾げる。
「……そだ、今度彩ちゃんとエリナさんと……天枷くんも。皆と一緒に、遊ぶってのはどうですか?」
 紗絵の提案に、ジンは少し、気が乗らないみたいだった。
「彩子ちゃんとエリナはともかく……あいつはなぁ……絶対喧嘩になるよ」
 ジンは歩きながら、頭を掻いた。
 駅までの道を、少し足早に歩く二人。
 もう日が沈みかけて、影が伸びていた。
「……エリナさん……何て言ってました?」
 夕焼けの光に、浮かない顔の紗絵が照らされる。
「やっとやる気を出したかって、怒られちまった。どっちが?消滅?しても……それは仕方の無いことだから、その時は、現実を受け入れるだけだって……正々堂々、勝負を挑まれた」
 ジンは、エリナの顔を思い出していた。
 とても真っ直ぐな目をしていたなぁと、ジンは思い返した。
 ついでに春樹の怖い顔も思い出してしまったジンは、慌てて話題を変える。
「そ……っそうだ、彩子ちゃんのいじめの件、どうなったんだ……?解決したのか……?」
「んー……よく分かんないけど、多分……。あたしがあの子達脅しておいたし、彩ちゃんも頑張ってるみたいで……。あたしも出来るだけ彩ちゃんと一緒に居て、しゃべってるからかな、なんかちょっと……明るくなって来たかなって……思います」
 最後だけ妙に敬語なのが、少し気になったが、ジンは良かったな、とだけ言った。
 気が付くと、駅前の人ごみの中で、ジンは、紗絵を見失わないようにと、気を使う。
 ようやくCDショップにたどり着くと、紗絵はお目当てのCDを探しに、新譜の置いてある棚に、一直線。ジンはやれやれと思いながら、紗絵が見ている棚の真後ろに並べてある古譜のCDを、何となく手に取る。
「あ、これ知ってる」
 ジンは、人間だった時の記憶を辿る。
 小学生の頃に、人気のあったミュージシャンのCDだった。昔は真面目くんだったと、バーケに言ったが、別にこういう物に、興味が無かったわけではない。
「なつかしー」
 ジンは、嬉しそうに呟いた。
 CDを棚に戻すと、ジンは目線を横にやる。
「あ……っ」
 ジンの視線が、あるCDのところで止まった。
「これ……は……」
 高鳴る鼓動をよそに、ジンはゆっくりとそのCDを、棚から引き出した。
 見ると、一人の男が、ギター片手に、まるでマイクの前で叫んでいるかのようなジャケットだった。
 それはジンにとって、さっきのCDより遥かに別格で、特別な物だった。
「ん? 何か良いものありましたか?」
 突然、後方から、紗絵が顔を出したので、ジンは驚く。だが、すぐに落ち着いて、紗絵に、そのCDを見せた。
「……欲しいんですか?」
 紗絵が首を傾げる。
「……いや……このCD、俺が人間だった頃に出した物なんだ。もう随分昔の物だけど、こうしてまだ、CDとして残っているんだなって思って、少し嬉しくなった……」
 そう言って、ジンはCDを見ながら懐かしむように、微笑んだ。
 そんなジンの顔を見た紗絵は、ジンからCDを、さっと奪う。
「あ……っ」
 ジンは思わず紗絵を見る。
 紗絵は、CDジャケットをまじまじと見た。
「ほーんとだ。ジンさんの顔にそっくり。あ、?唐沢陣?って書いてある。これ、本名ですか?」
 CDジャケットを指差した紗絵は、無邪気に笑う。
「……ああ……。神見習いとしての名前は、名字と名前が逆になっているけどな」
 余計な情報も交えつつ、ジンは頷く。
「じゃあこれは……購入決定ですね」
 そう言って、紗絵は、自分が買おうとしていたCDの上に、ジンのCDを重ねる。
「え……?何で……別に無理して買わなくても」
 ジンは、紗絵の少し意外な行動に、戸惑いを隠せなかった。
「無理してないです。これは別に、ジンさんのためとか、ジンさんの歌だからとかいう理由じゃないです。ただ純粋に、あたしは、この歌を聞いてみたいだけです。だから買うんです」
 紗絵の真っ直ぐな言葉に、ジンは優しく微笑んだ。

 会計を済ませて、外に出ると、ジン達は、また足早に歩く。
 他愛の無い会話をして、笑い合って。
 それが紗絵にとっても、ジンにとっても、とても楽しい時間だった。
 しかしそれは、アパートの扉を開くと、一気に崩れ落ちた。
「……っ母さん!」
 玄関から一直線に見える、低い丸テーブルの上に、淡いピンク色の灰皿があった。
 灰皿にタバコの灰を落とす仕草をしている女性。
 矢野早苗、紗絵の母親だった。
「……何で……居るの……」
 紗絵は動揺を隠せずに、少し後ずさりをした。
「あらぁ、ここは私の家でもあるのよ? 居ちゃ悪いかしら?」
 早苗はタバコを銜える。
 嫌な臭い……。
 ジンは眉をひそめた。
 早苗は、水商売をやっているだけあって、色気がある。タバコの煙を吐く仕草でさえ、色っぽく感じる。
「……まぁ、でも……もうすぐ私のじゃ無くなるか……」
「……え?」
「私、結婚するから、この部屋あんたにあげる」
 早苗の、突然の宣告に、紗絵は目を丸くした。
「……は? どういうこと?」
 紗絵が眉を吊り上げる。
「そのままの意味よ」
 早苗は一息吐くと、タバコを灰皿へ軽く押し付けて、指を離す。そしてゆっくりと立ち上がると、紗絵の居る玄関口へと歩いた。
「あら? 何この可愛い子」
 早苗は、ジンに気付き、目を輝かせて、ジンの頬に、両手を伸ばした。
「あ……っは……っ初めまして……っあの……っ俺」
「名乗らなくて良いわ。どうせもう、何の関係も無くなるんだから」
 早苗の言葉と態度に、腹を立てた紗絵は、早苗の肩を、思い切り後方へ引き寄せた。
 ジンの頬から両手が離れ、早苗は足をもたつかせた。
「……っちょっと何ー?」
 紗絵は、真っ直ぐに早苗を見つめる。
「ふざけてないで、ちゃんと説明してよ。結婚? 何の関係も無くなる? 勝手に決めないでよ」
 早苗は、仕方なく紗絵を見る。
「……付き合ってた彼にね、あんたのことがばれたの。当然よね、結婚しようって言われたからには、あんたのこと、いつまでも隠してられないし。……でも彼は、言ってくれたの。?それでもいい?って。あんたももう高校生だし、一緒に住まなくても大丈夫だろうって話になったから、実家には、一人暮らしさせるって言ってあるわ。あんたはもう自由よ。好きに生きなさい」
 あまりにも突然の話に、紗絵は言葉が出てこない。ようやく出た言葉には、怒りが篭っていた。
「……によ……それ……。結局……あたしが邪魔なだけじゃない。あたしが居ると都合が悪いんでしょ、あたしが……っ」
「……ええ、そうね。あんたはいつも邪魔だったわ。あんたなんか産まな……っきゃっ」
 言葉を全部言い終える前に、紗絵は目に涙を溜めながら、早苗に掴みかかる。
「あんたはもう、あたしの母親じゃない……っ」
 そう言って、紗絵は右手拳を振り上げた。
 次の瞬間、紗絵は逆に、早苗にテーブルの方へ突き飛ばされた。
「きゃ……っ」
 紗絵は、テーブルに体を打ちつけた。
 丸テーブルは、衝撃でひっくり返り、その上に乗っていた淡いピンク色の灰皿は、カーペットに転がって、タバコの吸殻が落ちた。
 紗絵は突き飛ばされた時に捻ったのか、右足首を手で押さえている。
「……っ痛……っ」
「紗絵ちゃん……っ」
 渋い顔をしている紗絵に、ジンは駆け寄ろうとしたが、早苗に肩を掴まれた。
「ちょ……っ」
「ねぇ、外でお茶しない? お姉さん奢るわ」
「は!?」
 早苗は、紗絵に向かって、不気味な笑顔を見せた。
「さようなら」
 タバコの吸殻が、カーペットを焦がしていくのを、早苗だけは見ていた。

「あっのぉ~……俺、紗絵ちゃんに付いてなくちゃいけないんですけどぉ……」
 ジンは早苗に、強引にアパートの外へと、連れ出されていた。
「いーのよ、あんなの。ほっときなさい。それより、ホントにどこか行かない?寒くて寒くて……」
 早苗は、肩を震わせてみせた。
 ジンの腕は早苗に無理矢理組まされていて、強い力で、離れられない。
 近くの公園まで連れ出されていて、ジンは困り果てた。
「……随分、冷たいんですね。心配じゃないんですか?」
「心配してどうするの?もう関係ないの。早く居なくなればいいのよ」
 早苗の、恐ろしいほどの表情。
 突然、狂ったように笑い出した。
「早く燃えちゃえばいい! 皆、皆燃えちゃえばいいのよ! ふふっ……あははっざまぁみろだわ! 散々私を邪魔をした罰よ! 楽しみ……ゆっくりゆっくり、あの子が燃えていくの……苦しみ、喚き、泣きながら……っ早く死んじゃえばいいのよ!」
 鈍い音と共に、ジンの手の平から、強い力で折られた、小さな木の枝が落ちる。
「何だって……!?」
 ジンは、目を丸くした。
 早苗は笑いながら、ジンを見る。
「気付かなかった? タバコのこと……。今頃、カーペットから火が回り始めてる所よ。足を挫いているから、逃げられないわね……。ふふっ……これで邪魔者は居なくなる……」
 早苗は、ジンに不気味な笑みを向ける。
「……あんたは……っ何て人だ……っ」
 ジンは、怒りに震えていた。
「……それでも……っそれでも、あんたはあの子の母親だろう! あんたは最低だ! あの子は、あんたの物じゃない……っあんたの玩具じゃねぇ! あの子は……っあの子は自ら、あんたを選んで産まれて来たのに……っあんまりだ! あの子だって、寂しいんだ!」
 ジンは叫ぶと、紗絵の所へ勢い良く走って行った。
「紗絵ちゃん……っ紗絵ちゃん……っ待ってろ! 今、助けに行くから……っ死ぬんじゃねぇぞ!」
 走るジンの瞳には、一粒の涙が、滲んでいた。
 早苗はその場に、立ち尽くしていた。

 カーペットから燃え移った炎は、あっという間に、部屋全体を覆いつくした。
 紗絵は、炎から出る煙で、咳き込むのを防ごうと、煙を吸わないように、コートを脱いで、口元にあてた。
「……あつい……っ」
 危険な状況にも拘らず、紗絵は驚くほど冷静だった。
 立ち上がろうとしても、足が痛む。
 先程買ったCDも、袋ごと炎の向うにあった。
「あーあ……まだ聴いてないんだけどな……っきゃ」
 激しい音と共に、燃えていた本棚が、紗絵の体に向かって倒れてきた。
「……った」
 紗絵は、本棚の下敷きになってしまっていた。
 本はほとんど燃え尽きていたが、熱さと痛さで、紗絵の意識はもうろうとしていた。
「もう……駄目か……」
 紗絵は呟くと、思った。
 別にいいよね……いつ死んでも良いって、覚悟してたんだから……。
 助けられることを、紗絵は諦めかけていた。
「あたし……あの女に、結局はめられたんだよ……。でも、怖くない……死ぬのなんて……怖くない……怖くなんて……っ」
 紗絵はコートを少し離すと、すぐに咳き込んだ。
「……っごほっ死ぬのなん……て……死ぬの……っ」
 目の前の炎を見ると紗絵は、言い表せられないほどの、恐怖を感じた。
「い……や……。嫌だ嫌だ嫌だ……っ死にたくない……っ死にたく……っ誰か……っ誰か助けて……っ誰か……っジンさんー!」
 紗絵は叫ぶと、意識が遠退くのを感じた。
「紗絵ちゃん!」
 玄関のドアを、思い切り開けて、炎の立ち上る部屋へと入ってきたのは、ジンだった。
 ジンは、煙の出ているこのアパートを見ているやじ馬達を押し退けて、入るのを止められる手を払い除けて、この部屋に入ってきたのだ。
「紗絵ちゃん大丈夫!? 紗絵ちゃん……っ」
 ジンは、体温を感じないので、普通に炎を踏みつけて、紗絵に駆け寄る。
「……ジ……ン……さん……?」
 紗絵は、まだほんの少し残っていた意識で、必死にジンの呼びかけに答えようとする。
「待ってろ! 今……っ本棚どかしてやるからっ」
 ジンはそう言って、紗絵の上に倒れていた本棚を、力一杯持ち上げて、部屋の端に横倒しにした。本棚に火が移り、燃えていく。
「……ジ……ン……さん……あたし……っ」
「紗絵ちゃん……っもう大丈夫だ。俺が居る。絶対に、死なせないから……っ」
 ジンは、ゆっくりと紗絵の体を起こし、抱きかかえた。
 紗絵は、コートを口に当てたまま、しゃべる。
「……あたしね……ジンさん……」
「ん?」
「ジンさんや……キバに会うまで……苦しいこと……ばっかりでさ……っ楽しいことなんて……数えるほどしかなくて……人生って、こんなもんなのか……ならもう……いつ死んでも良いやって……思ってた……」
「……紗絵ちゃん……」
 ジンは、紗絵の目を見る。
「……でも……っ」
 紗絵の目には、涙が溜まっていた。
 ジンの背中の後ろで、炎が音を立てている。
「……でも……っさっきね……さっき……っ一瞬……もう……十分……生きれたから……っ頑張ったから……死んでも良いやって思ってたのに……急に……っ死ぬのが……っ怖くなったの」
 紗絵は、持っていたコートで、顔全体を隠すようにして、泣いていた。
 声を必死で押し殺そうとしている。
「怖くて……怖くて、恐ろしくて……っ初めて、死にたくないって……っまだ……ジンさんや、キバ……皆……皆と……一緒に……居たいって……っそう……思った……っ誰かに……助けて欲しいって……っごめ……ごめんなさい……あたし……こんな……っわがまま」
「わがままじゃないよ」
 紗絵は、しゃくり上げて泣いていた。
 ジンが、言葉を続ける。
「……そんなの……わがままじゃない。バーケだって、消えたくないって、言ってた……俺だって……人間だった時に、死ぬのが怖いって、思った時あった。今だって……俺自身の存在が……意識が……消えるのが怖い。エリナや、他の神見習いだって……きっと同じだ。人間も……っ誰しも一度は思うんだ、死にたくないって……。皆が思うことならそれは、わがままじゃないと……思うんだ。でも……それでも紗絵ちゃんが……その感情をわがままと捉えてしまうのは……それは、あのお母さんのせい?」
 ジンは、出来るだけ優しく聞いた。
 紗絵は、しゃくり上げながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの人は……っあたしのこと……産まなきゃ良かったって……っ言ったんです。父さんも……弟も死ぬことが、分かっていたら……っ絶対に、あたしなんか、産まなかったのにって……。あたし……あたし……っ本当に、産まれてこなければ良かったのに……っそうすれば、こんなことには……ならなかったのにっ……」
「何で……っそんなこと」
 ジンは、眉をひそめた。
 紗絵が、続ける。
「だから……っずっと……っ死んでも良いって、思い続けて……っ何となくな毎日を……っ送っていたのに……。ジンさん達が現れて……っあたしのこと、助けに来たって……っ守るって……っ死ぬチャンスはいくらでも……巡ってきたのに……死なせてくれなくて……正直最初は邪魔でした……でも……っ今は……生きたいって……思わせてくれた……。これが……わがままじゃないのなら……ジンさん……あたし、あなたに……お礼が言いたいです」
「紗絵ちゃん……」
 ジンは、紗絵の言葉に、小さな感動を覚えた。
「ありが……とう……ござ……っ」
 紗絵の意識は、そこで途切れてしまった。
「紗絵ちゃん! ……気を失ってる、まずいな」
 ジンは急いで、部屋を出た。

 まだ薄暗い、明け方の空。
 鳥のさえずる音が聞こえる。
 病院の大部屋の一角で、ジンは祈るようにして、紗絵のベッド脇にある椅子に座っていた。ジンは、紗絵の力のない右手を、両手でしっかりと握っている。
「……ジン……」
 その、透き通るような綺麗な声に、ジンはゆっくりと顔を上げた。
 紗絵の寝ているベッドの向こう側に、その声の主は居た。
 窓から光が入っているわけでもないのに、その体からは、優しい光が発せられていた。
「……天の……神様……」
 ジンは、その名を呼ぶと、目を丸くした。
「どうして、ここに……」
 天の神は、ジンに優しく微笑み掛けると、言った。
「その理由は……汝自身が、良く分かっているであろう?」
 ジンは、すぐにその言葉の意味を悟った。
「合格だ。汝は、神見習い最終試験に、合格したのだ……。ご苦労だったな」
 天の神は、右手の人差し指を、くいっと上げた。ジンのポケットの中で眠っていたキバが、空中まで引き出され、天の神の手の平に収まった。
「あ……っキバ」
「よく眠っておるな……。こやつはこのまま、私が天界まで連れて行こう。汝にはまだ……やるべきことがあるのだろう……?」
 天の神は、意味ありげに、ジンを見る。
「……はい」
 ジンは、真っ直ぐに、天の神を見て、頷いた。
「待っておるぞ……ジン」
 天の神はそう言うと、ジンの前から姿を消した。
 光の粒が、名残惜しげに舞っていた。
 ジンは、静かに眠っている紗絵の顔を、見つめた。
「……お別れの時間だ……」

 時を同じく、明け方の空を窓辺で見ていたエリナに、異変が起こった。
「……は……早いな……よ……良かったね、ジン君……」
 エリナは、消え行く自分の手の平を見ながら、呟いた。
「ん……うん~」
 傍で寝ていた春樹が、唸り声を上げる。
「……さ……さようならです」
 エリナは、春樹を見つめた。
 ふと、春樹の目が開く。
「……あれ……何? 朝……?」
 春樹は起き上がったが、まだ寝ぼけているようだ。目を擦っている。
「は……っ春樹君……。起きてしまいましたか……。よ……良かったです……これで……お……お別れが言えます」
 エリナは、おもむろに泣き出した。
「は!? 何、お別れ? 何馬鹿なこと言ってんの。朝っぱらから……。あれ……何か光ってるけど」
 見間違いかと、春樹はもう一度目を擦るが、やはりエリナの体は光っているように見える。
「ジ……ジン君が……ご……合格……したんですね……お……おお……おめでたい……です」
 エリナは、涙を拭う。
 こうしてる間にも、エリナの体は着々と消えていく。
「何言ってんだ……。あの野郎っぶっ飛ばして来る!」
 春樹は、今にも駆け出しそうだ。
「ま……っまま……待って下さい!」
「あ? てめーは、消えても良いのかよ?」
「だ……だって……そ……それは、運命……でしょう?」
「は!?」
 春樹は、眉をひそめる。
 エリナは、春樹に優しく笑いかけた。
「すべては……わ……私の……ち……力不足です……。な……何の力にも、なれなくて……申し訳ないです……。でも、最後に……これだけ……言わせて下さい……」
「最後って……おい……」
「あ……あなたは……ほ……本当は……と……とても、お優しい方ですよ……。わ……私を、気遣って……くれたんですから」
 エリナの言葉に、春樹は顔を赤く染める。
「は……は!? 別に、気遣ってやった覚えはねぇけど。何か……俺のせいで、消えるみたいで……胸糞わりぃだけだっ」
 そう言って春樹は、エリナに背を向けた。
 きっと照れているのだろうと、エリナは思った。
「さ……さようなら……元気で……ま……また……いつかあなたと……形は違っても……あ……会えると……嬉しいです……」
「あっ……」
 春樹は、何かを言いたげに、エリナの方を見ようと、振り向いた。
 ――が。そこにはもう、エリナの姿はなく、代わりに柔らかな光が、周囲を優しく、照らしていた。
 春樹は、やり切れない気持ちで一杯だったが、
「……ありがとう……」
と必死の思いで呟いた。

08年9月19日

小説「天の神様の言うとおり」後編

 バーケ達が去って、しばらく経ってからだった。
「ジ……ジジ……ジ……ジン君……?」
 後ろから声がした。ジンには、誰が声を掛けてきたのか、今度はすぐに分かった。
 いつも吃るしゃべり方だからだ。
 ジンはゆっくりと振り向いた。予想どうり、そこにはエリナ・サカシタが居た。
「エリナ……っ」
「……ど……ど……どど……どうしたの? こ……こんな所で……っ」
 エリナが、おどおどしながら聞いてくる。
「いや……っ」
 ジンが説明しようとした時だった。エリナの後ろから、金髪で、右耳にピアスをした少年が、出てきた。
「何こいつ。知り合い?」
 少年が、エリナに聞いた。エリナは少年が怖いのか、さらにおどおどしだした。
「え……っえと……その……っこ……この人は……私と同じ神見習いで……っジ……ジン君って言うの……っ」
 エリナの答えに、少年は、ふーんとだけ言った。
「ジ……ジ……ジ……ジン君……この子は……っその……私の……試験対象の……天枷春樹君で……す」
 エリナは、春樹の機嫌を窺いながら、ジンに紹介する。
「初めまして」
 そう言って、ジンは春樹に右手を差し出し、握手を求めたが、その手は無惨にも、振り払われた。
 ジンは少し怒りを覚えたが、必死に平静を装った。
「……エリナ……。俺、こいつ嫌い」
 春樹は、そう言ってから、学校とは、反対の方面を見て、どこかへ行こうとしていた。
「え……っちょ……っちょ……っとは……春樹君!? ど……ど……どこ行くんですかっ……が……がが……学校は!?」
「ふけるんだよ。もう、行く気無くした」
 必死で止めようとするエリナに、春樹はうんざりした様子で、溜め息を吐いた。
「ダ……ダダ……ダ……ダメですよ! は……春……っ」
 そう言って、エリナが春樹の腕を掴もうとしたが、春樹がそれを許すはずも無く、伸ばした手は、鈍い音を立てた。
「お前、うぜぇ」
 春樹の何気ない一言で、エリナは負けじと、もう一度伸ばした手を、引っ込めた。
「あ……」
 春樹の目は、エリナを睨んでいた。
 エリナは怯んだ。春樹が怖かったのだ。
「……春樹君」
「あ……?」
 今まで黙っていたジンが、呼びかけに振り向いた春樹の顔を、突然平手打ちした。
「……っな」
 春樹は即座に、ジンを睨んだ。
 エリナは慌てて、春樹の肩を掴んだ。
「あ……っあの……っジ……ジジ……ジン君、は……春樹君も……っお……おち……っ落ち着いて……下ささ……い」
「ホントはグーで殴りたかったけど……平手打ちで勘弁してやる……今の言葉、取り消せ」
「はぁ!? 何で?」
 春樹は眉をひそめた。
「今の言葉で、エリナが傷付いたから。……何より、俺自身が、すっげぇムカついたからだ」
 ジンの言葉に、エリナが、自分の胸に、先程から少し感じていた痛みに気付いた。
「?うぜぇ?って言葉はな、人に向かって言う言葉じゃない。自分に言う言葉だ」
 ジンは、すごい形相で、春樹を睨んでいた。
 春樹は目を逸らせなかった。
 ジンはただならぬ空気をかもし出していたのだ。
 取り消さないと本当に、平手打ちじゃ済まないかもと、春樹は思った。
「わ……っ分かった、分かったよ、取り消しゃいーんだろ、取り消す、取り消すから」
 ジンは、春樹のその言葉を聞くと、睨んでいた目を、今度は優しく見つめた。
 春樹は、ほっと胸を撫で下ろした。
「悪い、エリナ。試験対象に手ぇ出しちまって」
 ジンは、エリナに、両手を合わせて謝った。
 エリナは春樹の肩から手を離し、ジンに向かって、笑顔を見せる。
「な……な……何か、少し……変わった……ね」
「……え?」
 エリナの言葉に、ジンは少し、首を傾げた。
「ジ……ジン君……前は……もっと、人のことには……む……無関心って……か……感じ……だったのに。の……のんびりしてた……と言うか……何て言うか……そ……その。さっきは、びっくりし……した」
 ジンは、目を丸くした。
 エリナも、ジンのことを、見ていてくれたのだ。
 カイルと、ジーナみたいに、自分のことを、存在を、認めてくれていたのだ。
 ジンは、そのことがすごく嬉しく思えた。
「……そうだ、エリナ! お前、俺を、人間から見えなくすること、出来るか? 学校が終わるまでで良いんだ」
「え……い……いい……良いけど……私の……し……神力が持つか……わ……分からないけど……」
「あ……それは多分、大丈夫。術を掛けてくれるだけで良いんだ。もしばれた時は……言い訳でもして逃げ出してくる」
 ジンは少なからず、やる気に満ちていた。
 それはとても珍しいことだったが、ジンは、紗絵のことを考えていたのだ。
 ジンは思った。
 紗絵のような女の子は、死んではいけないと。
 自分の方が、風邪を引きそうなのに、マフラーを、気を使って、巻いてくれた紗絵。
 ちょっと……心配なんだよな……。
 エリナは、ジンに言われた通りに、人間に見えなくする、神術を掛けた。
 掛けた後、エリナは、ジンの額に押し付けていた右の手の平を、ゆっくりと離した。
 その光景を見ていた春樹は、驚いていた。
 本当に、さっきまで見えていた男……ジンが、消えていたのだ。春樹は目を、ぱちくりさせた。
「は……!? マジで消えた……っすげぇ。神見習いとか、やっぱマジ話だったわけ!?」
 春樹が、エリナの肩を掴んで、揺さぶった。
 エリナはあわあわ言いながら、小さく頷いた。

 ジンは、エリナにお礼を言うと、颯爽と走り出した。
「紗絵ちゃんは、どこだ?」
 ジンは校内に入り、紗絵の姿を探す。
 その頃、丁度、お昼休み中だったらしく、廊下には生徒がたくさん居たが、ジンの姿は、誰にも見られない。ジンはそれが嬉しくて、少し笑った。
 ジンが、誰かとぶつかっても、相手には誰とぶつかったのかが分からないのだ。
 ジンが、三階……四階の階段を登ろうとした時だった。
 女生徒が何人か、よってたかって、一人の女の子を、いじめているように思えた。
 ジンは、その女の子に、見覚えがあった。
 そして、その女の子の後ろには、あのバーケ・ポルラドが居た。
「バーケ……!? じゃあ、あの子はさっきの」
 バーケは、ジンの姿に、気付いていないようだった。
 何をするでもなく、バーケはあのちっちゃくて暗い女の子の後ろで、ぼやいていた。
 バーケも、姿を消しているようだ。
 ジンは、階段を登ろうとして、思いとどまった。
 バーケのことだ、ジンが行ったら、また何を言われるか、何をするか分からない。
 それにあの場は、バーケがどうするのか、ジンはライバルとして、見守らなければならないような、そんな気がするのだ。
 ジンがそんなことを思っていると、女生徒達の声のボリュームが、次第に大きくなっていく。
「ねぇ、だから、どこ行くのって聞いてんの! 答えなよ! は!? 聞こえねっつの。何? ノート? お前字汚いよな!」
 馬鹿にしたような笑い声。
 小さくて聞こえない少女の声。
 何もしないバーケ・ポルラド……。
 ジンの心も、次第に不安定になっていく。
 世界が、色あせる瞬間。
 落書きだらけの、ひどい言葉が連なった、恐らく少女のものと思われる、A4ノートが、ジンのところまで降ってくる。
 ジンは、それから目を離した。
 見たくなかった。忌まわしい、人間の記憶。
 そうして、しばらく、ジンは一部始終を見ていた。
 そう、少女が、女生徒達に、階段から突き落とされそうになる、まさにその時まで。
 ジンは一瞬、何が起きたのか、分からなかった。
 モップが降ってきた。
 少女が……嫌、違う、紗絵が落ちてくる。
「紗絵ーー!」
 ジンには、全てがスローモーションのように見えた。
 キバが紗絵の頭の上で、空に浮きながら、手足をバタつかせている。
(……っ! ジン!)
 キバがジンに気付いて、助け舟を出してくれとでも言いたげな目をする。
 何であの少女じゃなく、紗絵が落ちているのか、今はそんなことはどうでも良かった。
 助ける……っ
 ジンはそう思い、紗絵を力一杯受け止めた。
 と、ホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
「い……たたた……って、あれ……ジンさん……?」
 紗絵は、無傷で起き上がると、ジンを見下ろしていた。
「何でここに……って……大丈夫ですか!?」
 ジンは放心していた。
 紗絵の目には、ジンが映っていた。
 そう、ジンに掛かっていた、人間に見えなくなる神術が、解けていたのだ。
「な……っあれ誰!?」
「さぁ……怪しい人じゃないの?」
「あたし先生呼んでくる」
「え……っちょと!」
 そう言って、去っていこうとした女生徒達を、キバは見逃さなかった。
 空中で即座に、彼女達に神術をかける。
(てめぇら。俺の声が聞こえるか?)
 それは、テレパシーのようなものだった。キバは、彼女達の心に、話しかけたのだ。
「い……っ今の何!? 何か聞こえなかった?」
 一人が、もう一人に聞く。
「うん。聞こえた! 何なのこれ……気持ち悪い」
「ああんた! なんかしたの!?」
 少女が、暗い女の子に向かって怒鳴る。
 女の子は必死で首を振る。
「気味が悪い」
(まぁそう、がなるなっての。お前らは何だ? あの子が嫌いか?)
「もう! しゃべんじゃねぇ!」
 女生徒の一人が、自分の胸の辺りを押さえる。
(嫌いか?)
「ああ! 嫌いだよ!」
「あたしは……そういうわけじゃ」
「あ……あたしも」
 二人の女生徒が、否定する。
「お前ら! 今何て!」
 信じられないことを聞いたらしい一人の女生徒が、他の生徒に掴みかかる。
「だ……っだって……。あたし達……あなたに脅されて……ねぇ」
 掴みかかられた生徒は、もう一人に同意を求め、その子も同意した。
「そうだよ。あたし達……別にその子が嫌いなわけじゃないし……」
「裏切る気!?」
「別に……そういうわけでもないけどさ」
「確かに……時々うざいけどさ……めちゃくちゃ嫌いってわけじゃ」
(どうやら、お前が親玉のようだな)
 キバが、一人の女の子にめぼしをつけたらしい。不適に笑う。
(こんなことでしか自分を出せないなんて……お前、寂しい奴だな。寂しくて寂しくて、あの子みたいに甘やかされて育った、気の弱い奴が、むかつくんだろ。大嫌いなんだろ。いい加減認めちまえよ。一人じゃ度胸が無いくせに。強がって、強がって、強がって。それで自我を保とうとしてたんだろ)
「煩い……」
 少女は呟く。
(哀れだよ。醜いよ。八つ当たりは最低だよ?)
「煩い煩い煩い煩い、うるさーい!」
 少女は叫ぶと、他二人の女生徒の腕を掴んで、突然歩き出した。
「行くよ! あの怪しい男、先生に言いつけなきゃ!」
「え!? ちょっと!」
「うえぇ」
 キバは、少女の後姿を見ながら、もう一度不適に笑った。
 その場にいた紗絵達は、何が起こったのか全く分からない。
 少女達の行動を、ただただ、不思議に思うしか、無かった。

女生徒達は、どこかへ行ってしまったが、あの少女は、バーケと共に、その場に立ち尽くしていた。
「ジンさん……!?」
「……っバーケ!」
ジンは起き上がった。
 紗絵を後ろに隠れさせ、キバを頭の上に乗せたジンは、階段の上のバーケを、睨みつけた。
「ちょっと、ジンさん!? 白上さん以外に、そこに誰か居るの?」
「バーケ・ポルラド! やりにくいから、姿を見せろ! こいつは俺の試験対象だ!」
 ジンにそう言われたバーケは、しばらくして、紗絵の目に映った。
「! ジンさん……ってことは、白上さんがあの人の試験対象なの……!?」
 紗絵が、驚きの声を上げる。
(……白上彩子、紗絵のクラスメイトか。……ったくよぉ、紗絵、いきなり走り出すなよ。落ちるかと思ったぞ)
「……っごめん、居ること忘れてた」
 キバは溜め息を吐き、紗絵は苦笑い。
 どうやら紗絵は、通りがかった所を、彩子を助けるために、走ってきたらしい。
 そして、自分が身代わりに、階段から落ちたのだ。
 彩子は、床に膝を突いた。
「……で……」
 彩子は、震えていた。
「……私の……せい……で……」
 必死に声を、絞り出そうとしているようだった。
 バーケは無言で、彩子を抱き上げる。
 いわゆる、お姫様抱っこをしたまま、バーケは階段を、舞い降りた。
 バーケは、ジンの目の前に来ると、ゆっくりと彩子を、床に降ろした。
「ごめ……なさい……」
 彩子は震えた声で、紗絵に謝る。
 そんな彩子に、紗絵は、優しく微笑み、そして優しく大丈夫と、声を掛けた。
「これは、あたしが勝手にやったことだもの。それより、また何かあったら、あたしに言ってね、助けてあげる」
 紗絵の言葉に、嬉しく思った彩子は、あんどの表情を見せようとしたが、それはすぐに消えた。
「甘やかすな」
 バーケの一言で、その場の空気は一瞬、凍りついた。
「これだから、人間は嫌いだ。そんな甘いことばかり言って、自分は味方だと信じ込ませて、結局は裏切るんだ」
「はぁ!? 何であたしがそんなことしなくちゃいけないんですか!?」
 紗絵が、眉をひそめて、バーケに怒鳴る。
「あたしはただ! 純粋に!」
「うるさい。そんなものは、綺麗ごとだ。」
 冷静沈着なバーケは、淡々と言った。
「バーケ……お前……。何でさっき、何もしなかったんだ」
 ジンは、ずっと気になっていた。
 先程のバーケの行動に、疑問を抱いていたのだ。
「助けようと思えば、助けられたはずだろ、それは、自分が出来なかったことに対する、僻みじゃねーのか?」
 ジンが、バーケを真っ直ぐに見つめる。
 バーケは、ジンから目を逸らせなかった。
「違うな。俺は、何もしなかったわけではない。俺は、見ていただけだ」
「見ていた……って、だから何で!」
 ジンは、さらに深く聞き出そうとした。
「本人が頑張ることだから。何も言えない。言わない、こいつ自身が悪いんだ」
「は!?」
 バーケの言葉に、ジンは激しく嫌悪感を抱いていた。
 それはキバも、紗絵も同様で、ただ彩子は、俯いてしまい、何も言わない。
「反撃でも何でもすれば良かったのさ。自分で。俺はそういうことで手助けなんかしてやらない。それが俺のやり方だ。最初から諦めて何もしない奴は、出来ないんじゃなくて、やらないんだ。逃げてるだけなんだよ」
 ジンは、バーケの言うことにも、一理あると感じたが、それでも、その言い方が気に入らなかった。
「大体……お前は人のことが言えるのか? お前だって、ずっと下から見てただけじゃないか。お前も逃げたんだろ」
 紗絵が、ジンを見た。
 それは本当かと、問いている目だった。
「違う! あれは、バーケの試験だったから……っ」
「言い訳か。見苦しい」
「……バーケ……。お前、今……何考えてる……」
 ジンは、腕を震わせた。
「別に何も?」
 バーケの含み笑いと、その言葉に、ついに我慢しきれなくなったジンは、バーケの左頬を殴った。ジンは、思いっきり殴ったのだが、バーケは平然としている。
「あれー? 痛くないよ? 馬鹿だなお前、普通に殴ったって、痛みは感じないって、知ってんだろ?」
「俺がすっきりしたんだから、別にいいだろ」
 バーケの頬は、赤くはならず、痛みも感じなかった。
 ジンの拳は、握られたままで、とても満足しているとは思えない。
 紗絵と彩子は、怯えながら、一部始終を見ていた。キバは、呆れているようだ。
 神見習いになって得したことと言えば、ジンにとっては、殴られても、痛くない、血が流れないことだった。
 神見習いは、いわば死人の魂を、特別な器に移しただけのもの。痛みや体温を、感じるはずがないのだ。
 ジンとバーケは、それからしばらく、睨みあっていた。

 四階へ登る、階段のすぐ下の廊下。お昼休み中だというのに、嘘のように誰の声も聞こえてこない。誰かが来る気配も無い。
 そんな状況下に、四人と一頭。
 先程の女生徒達が、先生を連れて来る気配もしない。どうやらそのまま逃げたようだ。
 睨みあっているバーケとジンを、紗絵と彩子は二人とも、どんなに頑張っても、それを止めさせることは出来ないと、思っていた。
 バーケの口が動く。
「お前、神見習いにダメージを与える方法、知ってるか? こうするんだよ」
 そう言った後、バーケの右手が、何かを引くような動きをした。
 次の瞬間、ジンの体に、激痛が走った。
「う……っ」
 ジンが、呻き声を上げた。
「ジンさん……!? どうしたの?」
 紗絵が心配して、ジンの腕に触れようとする。
(触るな!)
 いつの間にか、紗絵の頭の上に乗っていたキバが、驚愕な顔をして、叫んだ。
 紗絵はその声に驚いて、手を引っ込める。
(……バーケと言ったか……。貴様……もしや、その神術……古文書を読んだのか!?)
 紗絵にも、彩子にも見えない、ジンの体に巻きついた、極細の白い糸のようなものを、キバの瑠璃色の瞳は、しっかりと捉えていた。
(攻撃系の神術は禁術で、それは古文書にしか載っていないはず……っまさか……っ十年前に、突然噴出した古文書は……っまさか……っ)
 キバが、何故だか震えているのを、紗絵は頭の上の小さな振動で、感じ取った。
「キバ……?」
 心配そうに、目玉を上げる紗絵。
「そう言えば……」
 バーケが、おもむろに話し出す。
「確か古文書は……龍神見習いが厳重に、監視なんかつけて、保管してたなぁ……。間抜けな監視龍神見習いだったよ」
 バーケは、浅く含み笑いをした。
 キバは小さく、顔を歪ませる。
 バーケは、さらに話を続けた。
「龍神見習いの中でも、優秀だったみたいだが……大したことなかったよ。だってさぁ……少量の睡眠草を焼いて、煙を嗅がせただけで、まさか爆睡するとは……あの龍、あの後どうなったかなぁ。きっと、たっぷり叱られたんだろうね。龍神様に」
 バーケはわざとらしく、キバの方を見た。
 キバは目を逸らして、平常心を保とうとしていたが、動揺は隠し切れない。
「バーケ……っ黙れバーケ……っ」
 ジンが、苦々しい声を出した。
 そこに居た、誰もが気付いていた。
 バーケの言う、龍神見習いが、キバだということを。
「……を……おちょくって……っ楽しいか……っお前……最低だよ……」
 ジンは、体を抉るような痛みを、必死に堪えながら、バーケを睨んでいた。
「黙るのは、お前の方だ」
 そう言うとバーケは、右手拳に、さらに力を入れる。
 さらなる激痛が、ジンを襲う。
「く……っああ!」
「ジンさん!!」
 呻くジンを、心配する紗絵。だが触るなと言われては、何も出来ない。
 悔しくて、涙が出そうになる。
「止めて……っバーケさん!」
 紗絵の言葉を、バーケは聞き入れなかった。
「知っているか、ジン。何故、攻撃系の神術が、禁術になっているか。何故、その禁術の書かれた古文書が、龍神見習いによって、保管されていたのか。……答えは全て、古文書に書かれていたよ」
 彩子は、ずっと体の震えが、止まらなかった。
 今、目の前のこの光景が、恐ろしく思えた。
「昔々、まだ人間が、地球が生まれる前、神見習い達は、存在していた。そして、地球を創造しようとして、誰が、何の神様になるかで、揉めていたんだ」
 バーケは、ジンの呻き声に構わず、話を続ける。
「それは、次第にとても醜い、争いになっていった。……そこで彼らは、攻撃するすべを編み出した。物を創造する力は、時に凶器になる。……だが、最後に残った者は、今までの自分達の行動に、絶望したそうだ。そして、攻撃系の神術は、全て禁術として、二度と使うことの無いように、古文書に書き記し、龍神見習いに、それを守らせた」
 ジンが、痛みの中、ゆっくりと口を開く。
「お……前……みたいな奴に……悪用されないため……にか」
 ジンは、紗絵が言っていたことを、思い出していた。
『ジンさんて……全然神様って感じがしないし……何か、普通の人みたい』
 今思えば、神見習いとは、自分達が思っているよりずっと、人間に近い存在なのかもしれないな。
 ジンは、溜め息混じりの笑顔を、バーケに見せる。
「……何だ、その顔は……っ」
「……バーケ……っお前、一体何が目的なんだ……? ……そこまでして……何がしたいんだ……?」
 バーケを挑発するかのような、ジンの笑み。
 バーケは、苛立ちを隠せない。
「いいだろう、教えてやるよ!」
 そう言うと、バーケは、右手の拳を、勢いよく、前方に突き出す。
 それと同時に、ジンの体は、後方の壁に叩きつけられ、全身を殴打した。
 ジンの後方に隠れるようにして立っていた紗絵は、巻き込まれる寸前で、倒れ込むように、横へ避けた。
「キャアァァ!」
 叫ぶ紗絵。避ける瞬間、体が軽く感じたので、キバが助けてくれたのだと、紗絵は思った。
「がはっ」
 ジンは、体の中から何かを出しそうな程の痛みに、気を失いかけた。
 彩子は、歯を食いしばって、眉をひそめた。
「俺はな、どうしても、天の神になりたいんだよ。こんな姑息な真似をしてでも……っ分かってるよ、こんなことして、ただじゃ済まないことぐらい……だが……」
 ジンは何とか、バーケを見つめた。
 視界が少し、ぼやけていた。
「もう後には引けない。俺はこの世の全てを憎んでる。この、不条理な世界を、一新する。そのために……っ俺は天の神になる……!」
 バーケは、強い目をした。
 まるで、固い決心をしたような、その強い目を、ジンは、しっかりと見ていた。
「一……新……?」
 ジンは、呟く。
「そうだ。世界の一新を、俺は望む。正直言って、今の天の神のやり方には、納得が行かない。この腐った世の中を直すなど、不可能だ。今のままのやり方で、この先、何百年、何千年……ふざけた話だ」
 バーケが不気味に笑うと、キバがとうとう、口を開いた。
(貴様……っ言わせておけば……っ天の神様を悪く言うな!!)
 キバはそのまま、バーケの所まで飛んで行き、思い切り、炎を口から吐き出した。
 するとバーケは、その炎を、左手で掴んだ。
 しばらくすると、キバの炎を掴んだ、その左手の隙間から、煙が昇っていった。
(な……っ)
 キバが、驚きの声を上げる。
 バーケは左手を広げた。
「古文書に書かれてたのが、攻撃系の神術だけだと思うか?」
 バーケは広げた左手で、キバの額に、人差し指を向けた。
 キバは、何かされると思い、目を瞑った。
「キバにまで、何かするつもりなんですか!?」
 紗絵はそう言うと、キバの小さな体を、自分の方に引き寄せる。
 キバが目を開けると、紗絵の顔が、頭上にあった。
(紗絵……っ)
「……紗絵ちゃん……っ」
 紗絵はバーケを、睨みつけていた。

 バーケは、行き場の無くした左手を、降ろした。
「……何故、邪魔をする」
 紗絵の腕に拘束されているキバは、必死で、その腕から逃れようとしているが、紗絵は腕の力を抜こうとしない。
(……っこら紗絵! 離せ! 止めろ!)
 キバの叫びを、紗絵は聞こうとしなかった。
「ジンさんを離して下さい」
 紗絵は、どうにかして、ジンを助けたいと思っていた。
 だから一歩も引かなかった。
「質問に答えろ」
「誰にも、何もしないで欲しいんです」
(紗絵! そいつには、何言っても無駄だ!)
 キバは、紗絵の腕の中でもがきながら、叫んだ。
(そいつは俺達の大事な古文書を盗んで、悪用して、その上、天の神様を愚弄しやがった! 俺がこんなちっこい姿なのも、全部そいつのせいなんだ! 許さねぇ! 許されるはずねぇんだ!)
 キバは、バーケを睨んだ。
 バーケはキバに、冷たい眼差しを向けた。
(……天の神様はな……優しいお方なんだ。十年前……古文書が盗まれて、俺が龍神様に咎められて、消滅させられそうになった時、あの方は、俺を助けて下さった。そのおかげで、俺は消える代わりに、こんな姿にさせられたが、消えずに済んだこと……ものすごく感謝してるんだ。だから俺は絶対……っお前を許さない!)
 紗絵は、キバを見た。
 その瑠璃色の瞳は、真っ直ぐにバーケを捉えていた。
「……だから甘いんだよ、それが」
 バーケが、小さく呟いた。
「天の神が、今していることは、全部無駄だ。すぐ無駄になる……俺が世界を造り返る……最高の世界を造るんだよ」
 バーケは不気味に笑う。
 その笑い声を制したのは、紗絵だった。
「……あなたは……あなたは何も分かってないんですね」
 紗絵は、真っ直ぐにバーケを見つめた。
「……何……?」
 バーケも、紗絵の方を見る。
「確かに、一度全て壊して、また一から作り直すのは簡単です。……けど……苦労してでも、傷付いたものを、一つ一つ直して行くことは、とても素敵なことだと思うんです」
 ジンは、紗絵のその言葉に、不思議な気持ちを感じた。
「直した所を……また直さないといけなくなるかもしれない……そんな面倒くさいことをいちいち……って思うかも知れないですけど……でも……それをあえて選んだ、その、天の神様はきっと……最初に造ったその世界を……きっと愛していたから……愛していたから、壊せなかったんだと……あたしは思います」
 それは紗絵の、真っ直ぐな意見だった。
「……愛……だと……?」
 バーケは少し震えながら、左手を、紗絵の目線まで上げた。
「そんなもの……っ知ったことか……!!」
 バーケの左手が、広げられる瞬間だった。
(……っ紗絵!)
 キバと彩子は、目を見開いた。
「止めろバーケ!!」
 ジンが叫んだ。同時に拳に力を入れて、力一杯、呪縛から逃れようとする。
「ぐああ~~!!」
 ただならぬ激痛に、奇声を上げる。
 バーケは、ジンの奇声に、思わずそっちに気を取られた。
「無駄なことを!」
 バーケはジンの行動を、鼻で笑った。
「無駄なことなんて……っ無い……っこの世に無駄なことなんて……っ一つも無い……っ無駄にしなきゃ良いだけだあ!」
 次の瞬間、キバとバーケは、信じられないものを見た。
 ジンの体に巻きついていた白い糸が、床に落ちて、次々と消えていくではないか。
「……っそんな……っまさか!」
 バーケは、うろたえた。そして頭を抱えた。
 自分の術には、絶対に破られないという自信があったのだ。
「ジンさん……っ大丈夫!?」
 痛みから解放されて、よろけたジンに、紗絵は駆け寄った。
 キバは、やっと紗絵から解放され、ジンの頭の上に乗る。
 ジンは、何とか立ち上がると、バーケに向かって言い放った。
「……お前は、天の神様になるべきじゃない」
 バーケの中で、何かが壊れる音がした。

「うおおお~~~!!」
 バーケの叫び声は、三階の廊下に、響き渡った。
 床に膝を突いたバーケは、自分の両手を見て、さらに驚愕した。
 指先から、何か黒いものが、自分の体を、侵食していくのだ。
「……何だ……何だこれは……っ」
 バーケの全身が、震えていた。
「おい……っ大丈夫か!?」
 ジンが、バーケの肩に触れようとする。
(待て、触るな!)
 キバの静止が掛かる。
「一体……っ俺は、どうなるんだ……? 嫌だ……消えるのは嫌だ……っ」
(……闇だ……っこいつの心の中にあった闇が、とうとう、こいつ自身を飲み込み始めたんだ……こうなるともう……っ誰にも、止められない……っ)
「そんな……っ」
 バーケの体はもう、左半分が、闇に包まれていた。
 バーケは、ジンを見つめた。
「お願いだ……助けて……くれ……っ」
「バーケ……っ」
(無理だ……っジン、お前まで飲まれるぞ……っ)
 ジンも、キバも、紗絵も彩子も、バーケが闇に飲まれていくのを、ただ見ているしかなかった。
 バーケは、全身が闇に飲まれる、最後の瞬間まで、ジンに助けを求めていたが、やがて闇と共に、バーケの姿は、消えていった。
「バー……ケ……っ」
 ジンは、ショックで、放心していた。
(仕方ない……あいつの闇は、もう限界まできていたんだろうよ。そして溢れ出した)
「……闇に飲まれて……その後は……どうなるんだ……?」
 ジンは、俯いていて、表情が見えない。
(分からん……ただ……もしかしたら二度と……)
「その先を言うな!」
(……っ)
 キバは分からなかった。
 ジンが気を落としている理由が。
(自分が聞いたんだろう)
 キバは少し、機嫌を損ねたみたいだった。
「……あの……さ……助けられないの……? 助けてあげなくて良いの……!?」
 紗絵は、ジンに問いた。
 だが、ジンは何も答えない。
 代わりにキバが、首を横に振った。
(例え助けられたとしても、俺は気が乗らないな。あんな奴……自業自得なんだよ)
「……っちょっとキバ!」
 紗絵が、キバに掴みかかろうとした時だった。
 今まで、黙りこくっていた彩子が、呟くように言った。
「……助けて……助けて……あげて下さい」
 彩子の、意外な言葉に、目をぱちくりさせる、紗絵とキバ。ジンは俯いたまま、少し反応しただけだった。
「もし……可能性が、一%でも……あるんだったら……あの人を……助けてあげて……欲しいんです……お願い……します……」
 彩子はゆっくりと、頭を下げた。
(……何で……? 何であんな奴、助けたいわけ? 彩子も、紗絵も……)
 キバは、呆れた顔をした。
「あたしは……ただのお人よしかもしんない……」
 紗絵は、茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
(神経図太いんじゃねーの?)
「何ー!?」
 紗絵が再びキバに掴みかかる。
「私……っあの人は、私と似てると……思うんです!」
 彩子が少し大きな声を出したので、紗絵は驚いて、動きを止める。
「……似てる……?」
 ジンが、彩子の方を見る。
「……はい……。あの人も……きっと、思ったことを……上手く口に出して……言えないんです……。私は……話すのが苦手で……上手く言えないけど……あの人はきっと……ああいう言い方しか……出来ない人なんだと……思います」
 しばらくの沈黙の後、キバが、ジンの頭の上から、階段の手すりに飛び移る。
(……ったく、仕方ねぇな……。協力してやるよ)
 キバが、呆れたように、溜め息を吐く。
「……どの道、あいつを助けられるのは、俺と、お前だけだ。……ジン、あとはお前次第だ……。お前は、どうしたい……?」
 キバは、真っ直ぐにジンを見つめる。
「はっきり言って……あいつは昔から、あんなだし……。ただ今回は……やり過ぎだ……。それが、あいつの中にあった闇のせいだとしたら……」
 ジンは、キバの瑠璃色の瞳を、見返した。
「俺は……バーケを助ける!」
 それは、固い決意の目だった。
 キバはその目を見て、呟く。
(まったく……同じ目をしやがるんだから……)
「え?」
(何でもねぇよ)
 キバは、溜め息を吐いた。
 溜め息ばっかだな……と思いながら、キバは自分の考えを、話し出した。
(彩子が、あの野郎と自分が似てると感じるってことは、天の神様が試験対象として並んだのは、それが理由なんじゃないかって、思うんだが……。もし……そうだとして……彩子の闇と、あの野郎の闇は繋がっていると考えても……良い)
「それじゃぁ……っ」
 紗絵の目が、輝いた。
 キバは頷く。
(彩子の闇からなら……あいつの闇に入れる。……入ってからどうするかは……ジン。お前に掛かってる)
「……って、俺!?」
 ジンが、驚きの声を上げる。
(俺は正直言って、あいつが嫌いだ。……それに……お前しか居ないだろう……あいつを……連れ戻して来れる奴は……)
 キバは断言した。紗絵と彩子も、キバの意見に同意する。
 ジンは少し、困惑しているようだったが、唾を飲み込み、少し落ち着いてから、頷いた。
「……でも、どうやって彩子ちゃんの闇に入るんだ?」
(俺に任せろ)
 そう言って、キバは彩子の目の前に、ジンを立たせた。
(あ……でも、もしかしたら……)
「え?」
 キバの呟きに、一斉に三人の視線が、動いた。
(あ……いや……何でもねぇ、何でもねぇ)
 三人の視線に、必死で誤魔化すキバ。
(じゅ……っ準備は良いか? 二人とも)
 ジンと彩子は、軽く頷いた。
 キバは、階段の手すりに乗ったまま、両手を思い切り叩いた。
 何かの呪文を唱えると、ジンと彩子の周りの床が光り出し、円陣になった。
 小さな風が舞踊り、彩子の少し長いスカートと、切り揃えられた漆黒の髪が揺れる。
 紗絵はもう、何を見ても驚かなかった。
 ただただ、この光景を、綺麗なものとして、見ていた。
 キバが再び両手を叩くと、光の円陣と、ジンの姿が消える。
 代わりに小さな光の粒が舞う。
 どうやら成功したらしい。
 と、次の瞬間、彩子が力なく倒れる。慌てて紗絵が抱き止めるが、意識が無い。
「ちょっと……っ白上さん!? 白上さん、大丈夫!?」
 紗絵が彩子の頬を軽く叩く。
 しばらくして、昼休み終了のチャイムが鳴った。
 彩子の意識は、戻らない。
(……やっぱりか……)
 キバの溜め息に、顔を上げる紗絵。
「え?」
 見ると、彩子の肩に、キバが乗っていた。
「やっぱりって……どういうこと?」
 紗絵が、首を傾げる。
(……さっき言いかけたことだよ。もしかしたら、彩子の意識も、一緒に飛んじまうかもしれねぇって……)
「何でそーゆーこと、先に言わないのよあんたーっ」
 紗絵が、キバの首根を掴んで、叫ぶ。
(だから、言いかけてやめたじゃねぇか!)
「止めるなよ! 最後まで言えよ!」
(つうか……っあ……やべ……っあと……は……たの……っ)
 キバの声がだんだん小さくなって、寝息に変わる。
「は!? ちょっと! 何寝てんのよー!」
 紗絵が愚痴を叫んでいたら、通りがかった先生に、
「何やってんだ。授業始まるぞ」と、見つかった。
「あ、先生。あの……ちょっと……白上さんが……倒れて……」
 紗絵は急いで、キバを制服のポケットに、忍ばせた。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
 先生が、数学の教科書を小脇に抱えて、歩いてくる。
「……えっと……。何か、意識が無いみたいで……」
 紗絵は、何とか誤魔化して、彩子を保健室まで運ぶと言う先生に、付いて行った。

 そこは、闇と呼ばれるだけあって、本当に暗黒の世界だった。
 ジンは、その暗黒のせいで、前に進めないでいた。
 ただ、目を閉じただけの時とは違う。何も見えない。
「これが……闇……なのか」
 ジンは呟いた。しかし、いつまでもこうしてつっ立っているわけにもいかず、とりあえず明かりが欲しかったジンは、神術を使おうと、思いついた。
「火の神術なら……何とか……出来るはず……っ」
 ジンは呪文を唱えて、右手の人差し指に力を入れた。神力を指先一点に集中させる。
 頼む……っ成功してくれっ
 ジンは祈った。この神術は、まれに成功するので、大丈夫だとは思うのだが、やはり心配だった。
 ぼうっとした炎の光が、指先に灯った。
「お!」
 細く高い炎だったが、今はそれで十分だった。
「よっしゃー! 成功したぁ」
 ジンは、喜びに顔がほころんだ。
「……えっと……バーケは……」
 ジンは薄暗い周りを見回すが、誰かが居る気配がしない。
「もう……駄目なのかな……」
 ジンの気持ちが、少し沈みかけた時だった。
 服の裾を、微かに引っ張られる感じがした。
 ジンが後ろを見ると、小さな女の子が、服の裾を、掴んでいる。
 ジンはその女の子を、まじまじと見た。
「……もしかして……彩子ちゃん……?」
 少女はゆっくりと頷いた。
「何でそんなに小さく……っ」
 彩子は右手を真っ直ぐに上げていた。その右手は、何かを指しているようだ。
 ジンは、指先の方向を、見つめる。
 暗闇の先に、ぼうっと白く光る、小さな男の子が、うずくまって、泣いているようだった。顔は見えなかったが、何となく、あの子がバーケなのだと、ジンは思った。
「助けて……あげて……。あの人を……助けて……あげて……」
 幼い姿の彩子が、呟くように言う。
「泣いてるの……ずっと……。全然……泣き止んでくれないの……可哀想……」
 ジンは、彩子の手を取った。そして、彩子の手を取ったまま、しゃがんだ。
「分かった……。バーケは必ず、俺が助ける。……だから彩子ちゃんも……肩の荷降ろして、良いんだよ。俺は……笑顔の君を、見てみたい」
 そう言って、ジンは彩子に微笑み掛けた。
 すると彩子は、首を横に振った。
「私の……ことは良いの……。今は……あの人の苦しみや悲しみが、少しでも無くなることが、私の願い……」
「……分かった」
 ジンは頷くと、彩子の手を離して、立ち上がった。
 彩子がもう一度、ジンの上着の裾を掴んできたが、ジンは何もしなかった。
 ただゆっくりと、歩き出す。
「バーケ……?」
 ふと、ジンと彩子は立ち止まる。
 確実に、バーケとの距離は縮まっていたが、バーケの向うに、また、白くぼやけた光が、見え出したのだ。
 光は次第に、人の形になっていった。
 同時に、笑い声が聞こえてくる。両親と思われる二人に、子供が二人。
 子供の一人は、父親に、肩車をせがんでいた。
 その四人で、一家族みたいな光景を背に、バーケは泣いていた。
 ジンは必死で考えた。バーケの泣いている理由を。
「お……どうさ……っごめんなさい……っおがあさ……」
 バーケが、顔を拭うたびに、微かに聞こえる声。
 あれは、バーケの家族なのかと、ジンは思った。
 だが何故、何度も謝っているのだろう。
「ねぇ! どうしたの? 君」
 ジンが、少し離れた場所で、バーケに話しかける。
 バーケは、顔を上げて、ジンの方を見る。
「お兄さん……誰?」
 バーケは完全に、人間だった時の、幼い子供の頃のようだった。
「……俺は、ジン。君を助けに来たんだ」
 バーケは涙を、ひと拭いして、止めた。
「その人達は……君の家族かい……?」
 バーケは、ジンの問いに何も答えなかった。
 嫌、答えられなかったのかもしれない。
 バーケは、口ごもってしまった。
 ジンは、一歩一歩、バーケの所まで、歩いていく。
 彩子も後を追う。
「……バーケ! 俺を、信じろ」
 ジンは、バーケの目の前に、しゃがんだ。
 彩子は立ったまま、ジンの後ろで、二人を見ている。不安げな表情をしていた。
「……お……父さんは……お……母さんと……離婚……して……。あの人は……新しい……お父さんで……妹と……弟が……産まれたんだ……オレ……お兄ちゃんなんだ……」
 バーケは、悲しげな表情で、無理に笑顔を作った。
「そうか……おめでとう。……でも、何か悲しいんだろ? だから泣いていたんだろ?」
 ジンは、優しい声で問う。
「新しいお父さんはね……オレに、意地悪するんだ。学校でもね……皆に意地悪されるんだ……」
 ジンは、バーケの向うの、家族を見上げた。
 楽しげにしている家族。それは、バーケの記憶らしかった。
「……俺は……いつも一人だ……」
 ジンは、視線をバーケに戻した。
 その台詞は、幼い姿のバーケには、似つかわしくないぐらい、大人びていた。
「いつものけものにされて……俺は家族の中でも、クラスの中でも、浮いた存在だった……」
 バーケの様子が、さっきとは全然、違っていた。
 ズボンのポケットに手を入れ、バーケは後ろを向く。
 しばらくして、楽しげな家族の幻影が消える。
「服も、ろくに買って貰えなくて、いつも母さんが、こっそり、俺の分の服も、買って来てくれてた……」
 まだ声変わり前の、高い声。だが口ぶりは、子供ではなかった。
「それでもやっぱり……あの男との子供の方が可愛いかったんだな。俺に全然……構ってくれなくなった」
「……お前はそれが……悲しかったんだな」
 ジンの目には、バーケの背中が映っていた。
 その後姿は、あまりにも弱々しく、とてもあのバーケだとは、思えないほどだ。
「お前ら……何でこんな所まで来てんだよ。何でそこまでして……俺を……っ」
 バーケの肩が、震えていた。
「バーケ……俺は、どういう奴だ……?」
「いい加減な奴」
 ジンの問いかけに、バーケは即答した。
「……っま……その通りだな」
 ジンは、苦笑い。
「……馬鹿で……ドジで、間抜けで……その上お人よしだ。お前は……俺が知る限りで、昔からそうだったな」
「おー、ひどい言われようだねぇ……。でも、実は俺も人間の時くそ真面目な奴でさ……。何でも完璧にこなさないと。満足しないとーって……そーゆー奴だったわけさ。完璧主義」
「……お前が?」
 ジンの意外な過去に、バーケが振り返る。
「そ、ジンは真面目だねぇ~って、よく言われてさ、その上友達付き合いが、下手で下手で。よく先生が、好きな子同士で組むようにって言うけど、あれは宜しくないよねー。友達居ない奴にとっては」
 ジンが笑うたび、指先の炎が小さく揺れる。
「……とまあ、そう言う訳で、俺も色々苦労して、大人になる頃には、今の性格が、半分出来上がりつつあったんだ。もちろん、人生を全うして死んだわけだが」
「……だが、例え全うしたとして、その頃の闇が、消えるわけはないだろう?」
 バーケの問いに、ジンは頷く。
「そうだな……。だから、俺は今まで、客観的にあり続けたんだろうな……」
 ジンは、バーケの目を、真っ直ぐに見つめた。
「バーケ……俺は、ホント言うと、ずっとお前に、天の神様になって欲しかったんだ。嫌、お前がなるべきだと思っていた」
「は……?だってお前、さっき……」
 と、自分が闇に入る前に、あった出来事を思い出して、バーケは口を噤んだ。
「ああ……言ったな。?お前は、天の神様に、なるべきじゃない?って。今まで俺は、落ちこぼれ神見習いで、お前は優秀な神見習いだった。俺は真面目君に戻るのが嫌で、いい加減な奴になった。……こんなこと言うのもあれだけどな、俺は、お前が天の神様になってくれれば、自分が楽になれると思った。楽な方、楽な方へ行けば、誰も俺を、すごい奴に仕立て上げることは無い。俺は全てに興味の無いふりをしよう……。このまま大人しく、何事も無かったかのように、?消滅?しようって……。少し怖かったけど、俺はお前を尊敬してたから、そう思えた」
 バーケは、ジンの指先の炎を、指差した。
「じゃあ、お前は、何の神様にも、なる気は無かったってことなのか……?」
「……そうだよ。いつもわざと、やる気の無いふりをして、何もやらなかったから。だから神力のコントロールの仕方も分からない。この通りにね」
 ジンは、自分の指先の細い炎を見た。
 今にも消えそうなその炎は、何かを明るく照らすものでは無かった。
「……羨ましかったよ……。尊敬してたよ……。なのに、何でお前は……いつからそんな風に考えるようになっちまったんだ?」
 ジンの問いに、バーケは答える。
「神見習いとして、天界に生まれた時から、もう百年間も、ずっとだ……。ずっと、俺は人間が信じられないでいた。人間てのは……自分の都合で動く生き物だから。だから簡単に仲間を裏切る。人の言うことを、聞き入れもしない。最悪の生き物だ」
 彩子は、自分も否定されているようで、複雑な気持ちになりながら、二人の会話を、黙って聞いていた。

 保健室の薬品の臭いは、人によっては異臭と感じるのだろうなと、紗絵は思った。
 倒れた彩子を、数学教諭に、保健室へ運んでもらい、付き添いたいと、紗絵は彩子の傍に居た。
 キバは相も変わらず、紗絵のポケットの中で、静かな寝息をたてている。
 保健室のドアが、騒々しく開く。
「あれー?何だ、先生いねーの? ラッキー」
 突然の出来事に、紗絵の肩が、ぴくっと上がる。
 紗絵は、びっくりしたーと思いながら、振り向く。
「せ……っ先生なら……職員室に……。多分、しばらく……戻って来ないと……思います」
 入って来たのは、紗絵の知らない生徒だった。
 その男子生徒は、金髪で、しかも右耳にピアスをしている。不良少年と言う言葉が似合いそうだと、紗絵は思った。
「そっかそっか。……で、その子どうかしたの?」
 金髪少年は、彩子の寝ているベッドの、向かいのベッドに、腰を下ろす。
 紗絵は、ベッドとベッドの間に置かれた、背もたれの無い、回る椅子に座っていたので、目の前の不良少年に、少し怯えていた。
「あ……えと……その……。意識が無くて……別に外傷は無いんだけど……色々ありまして……」
「ふーん……あんた、付き添い?」
「はい……」
 紗絵は、頷いた。
「じゃ……俺はしばらく寝……っ」
 そう言って、少年がベッドのシーツに潜り込もうとした時だった。
「……っだ……だだ……っ駄目ですよぉ!」
 何処からともなく、その少女は現れた。音も、気配もなく。
「おわっ」
 少女は、少年が被ろうとしていたシーツを、無理矢理ひっぺがえす。
「ち……っちゃんと授業に……っで……出て下さい!」
 紗絵は驚きすぎで、声が出ない。
「ふざけんな! 俺はねみーんだ、寝かせろ!」
 少年は手探りで、シーツを引き寄せる。
「わ……っ分かりました! 眠くならなければ……っ良いのですね……っ」
 少女はそう言って、少年の目の前で、両手をぱんっと叩いた。
 そこに光の粒が舞い散るのを見ると、紗絵はあることに気が付いた。
「……もしかして……あなたは……っ」
紗絵は目を丸くした。
「……あ……あなたが……ジンくんの……試験対象さんですよね……? わ……私、エリナ・サカシタと申します……です」
 エリナの後方で、金髪少年が唸り声を出している。
「くあ~っお前今、何した?」
 エリナは、少年の問いには答えなかった。
 少年は、両目を押さえている。
「さ……っ紗絵さん、こ……っこちらは……天枷春樹君です。わ……私の……試験対象な……なんです」
「……は……はあ……」
 紗絵は、予想通りの言葉に、少し眉をひそめた。彼女は、ジンと同じ神見習いなのだ。
 だが何故、自分の前に現れたのだろう。紗絵は不思議に思った。
「……っ良いから早く、元に戻せっ」
 春樹の瞼が、苦しそうに震えていた。
 目を閉じたくても、閉じれなくなっていたのだ。
 春樹があまりにも可哀想だと、思い直したのか、エリナは再び春樹の目の前で両手を叩いて、術を解いてやる。
「す……っすみません、春樹君……っだ……だ……大丈夫……っ」
 顔を触ろうとしたエリナの片手を、春樹は迷惑そうに薙ぎ払う。
「あーもーうっとーしいっ」
「……す……すみません」
 エリナは畏まった様子で、ベッドに座り直す。
 春樹は、エリナと紗絵に、背中を向けた。
 そんな春樹を尻目に、エリナは紗絵に話しかける。
「あ……あの……紗絵さん、ポケットの中に、小さなドラゴンさんが……い……居ますよね……」
 エリナには、キバの姿が見えていたのだろうか、紗絵はギクリとした。
 そして、キバをポケットから取り出して、傍にあった台の上に、ゆっくりと乗せた。
 キバは静かに寝息をたてる。
「……わ……私、す……少し心配で……っさっき、ジンくんに、術だけかけて欲しいって……い……言われたから、かけたんだけど……それが解けたみたいだったから……で……でも今は……ジンくんの気配が、学校内に無いの……それはどうしてなのかが……少し気になって……その子も意識が無いみたいだし……い……一体……な……何があったんですか?」
 春樹は、台の上のキバを、ちら見していた。
 紗絵は、そんな春樹を横目で見やってから、エリナを、見直した。
 そして、ゆっくりと話し出す。
「……ジンさんは……闇に飲まれたバーケさんを、助けに行きました。キバが……ドラゴンの名前なんですけど……キバが、バーケさんの闇と、白上さんの闇が、繋がっているかもしれないって……」
「そ……そ……それで……ドラゴンさんが、力を、使ったんですか。彩子さんの意識も……や……闇の世界へ……行ってしまったと……言うわけですか……」
 紗絵は、ゆっくりと頷くと、眉をひそめた。
「ちゃんと……三人とも……帰って来ますよね……?」
 不安げな表情の紗絵。
 エリナは、だ……だ……大丈夫と、吃りながら笑う。
「だ……だって……。ジ……ジ……ジンくんが、居る……から。い……いい……今はただ……っ彼らをし……信じて……ま……まま……っ待つしか……ないですよ……」
「はい……」
 返事をして、紗絵は彩子の方へ目を向ける。
「早く……帰って来て……皆……」
 紗絵は、彩子の手を取り、祈った。

 闇という世界は、誰の心にも潜んでいる。
 そこは暗黒の世界。
 一度飲み込まれて、無事に帰って来た者は、ごく僅かだ。
「……バーケ、お前は言ったよな、世界の一新が目的だと。そのためなら、どんな手でも使うと。……それは?逃げ?だろ」
「違う!」
 ジンの言葉に、バーケは否定の言葉を投げる。
「俺はお前が、おもちゃ売り場で、駄々をこねてる子供にしか、見えない。……もっと現実を見ろよ。逃げて逃げて逃げて……お前はここから、出られなくなったんだ」
「黙れ!」
 バーケが、甲高い声で、叫ぶ。
「黙れ黙れ黙れ黙れ! お前に何が分かる! 俺は、俺のやり方で、この世を変えようと思っただけだ! なのに、何で否定する! 俺の何が悪い!」
 今にも泣き出しそうな顔だった。
 ジンは、バーケを引き寄せる。
 バーケは、とっさに両手で、ジンの顔を押さえた。
「止めろ! 何すんだよ!」
 ジンは負けじとこう言った。
「バーケ……俺……っ決めたんだ……っお前の変わりに、天の神様になるって……っ」
 バーケの両手から、力が抜けた。
「は……?」
 バーケは、目を丸くした。
「お前……っお前なんかに、天の神が勤まるかよ」
 ジンの目は、真剣だった。
「分かんないよ、そんなの……。だけど、絶対なってみせる……。だから、だからお前は、俺を信じろ。俺はお前を裏切らない」
「そんなの無……っ」
 ジンが、バーケを思いっきり抱きしめた。
 バーケの、その小さな体は、震えていた。
「無理じゃない。やってみなきゃ、分からねぇだろ。だからお前も、もっと前向きに考えろ。闇の中には、闇しかないじゃねぇか。暗いことは、考えるな。楽しいことだけ考えろ。例えば、ここから出た後、皆で遊ぼうぜ。近頃のゲーム機は、すごいらしいぞ」
「ゲームかよ……っ」
 バーケは、微かに笑った。
「今度、人間に生まれ変わった時にでも、楽しむよ……。ジン……」
「……ん?」
「……ありがとう……」
 バーケは、涙を流していた。
「俺に、礼なんか言うな。礼なら、彩子ちゃんに言え。この子が……この子が後押ししてくれなかったら……今頃は……」
 バーケは、ジンの服の裾を、掴んだままずっと見ていた彩子を、見つめる。
「バーケ……。お前は、一人じゃないからな」
 バーケの涙が、暗黒世界の床に、ぽたりと一粒、それは、光の粒となって、闇を照らした。
 今のジンなら……今のジンなら、俺の願いを、本当に叶えてくれそうな気がする。
 そう、バーケは思った。
「……ジン……。俺、もう苦しい思いをするのは嫌だ。信じて良いなら……信じて良いなら、言っとくけど、出来るだけ……皆が幸せに暮らせるような、そんな世界に……していって欲しい……。誰も、犠牲にならない……そんな世界が……」
「……努力する」
 そう、ジンはポツリと言った。
 彩子が、いつの間にか、バーケの右手を握っていた。それを見たジンは、彩子も引き寄せる。
「……良かった……」
 彩子が呟く。
「戻るぞ……」
 バーケが小さく、頷いた。
 ジンは、炎の灯る指先に、体の中の、神力を送った。炎は大きくなる。
 やがて、その炎はジン達を包み込むと、闇世界から、消えていった。
 そこには、何も残っていなかった。

「ん……」
 彩子の瞼が、ゆっくりと開く。
 それと同時に、紗絵達の目の前に、ジンとバーケが、弱々しく現れた。
 あまりにも突然の出来事に、紗絵は、今度こそ本当に心臓が止まるかと思った。
「ジ……ジンくん! バ……バーケくん!」
 エリナは立ち上がり、倒れそうになっていたバーケを、受け止めた。
 ジンは、よろよろと、彩子のベッドに伏せた。
「……疲れた……」
 ジンが呟く。彩子がゆっくりと起き上がった。
「……っ白上さん!」
 紗絵が思わず、彩子を抱きしめる。
「あ……」
 彩子は、目を見開いた。
 ジンが、彩子に微笑みかける。
「……心配……ありがとう……」
 彩子が呟くように言うと、紗絵は抱きしめる腕に、さらに力を入れた。
 バーケを受け止めたエリナは、目を丸くした。
「バ……っバーケくん……っ」
 あまりに騒々しかったので、思わず振り向いた、春樹の目に、信じられない光景が映った。バーケの体から、光の粒が浮かび上がり、その粒が、次々と消えていく。
 春樹は、目を見張った。
「そ……そそ……そっか……。も……もう」
「ああ……。ゲームオーバー……。試験に落ちたってことか」
 バーケは、自分の足で、しっかりと立つ。
 紗絵と彩子は、バーケの姿を見つめた。
「……安心しろ。?消滅?って呼ばれてるけど、実際、記憶は消されるが、俺の魂は消えない。俺は、天使になって、また現世に産まれてくるんだよ。……あまり気は乗らないが……。俺はもう、逃げないから」
 バーケが、ジンに向かって言う。
 ジンは、立ち上がれないくらい疲労していたので、見上げる形でゆっくりと、頷いた。
「……バーケ……最後に何か、言ってけよ。俺もお前に礼は言っておくがな。ありがとう」
 バーケは小さく頷くと、光の粒を飛び散らせながら、彩子の方へ近づいた。
 紗絵は、彩子から体を離す。
 バーケは、彩子の目の前に立つと、
「……ありがとう……」
 と言って、微笑んだ。
 彩子は、それを聞くと、少し照れた様子で、俯いた。
「皆に会えて良かった。何だかんだで、良い人生だった」
「……やっぱり……悪い人じゃ……ない……」
 彩子の呟きが、聞こえたのか、聞こえていないのか、バーケが、彩子の頬に、手を伸ばしかけた瞬間だった。
 光の粒が、弾けて、そこら中に飛び散る。
 彩子は一瞬、何が起きたのか分からなかったが、目の前に居るはずの人が居ないことに、喪失感を抱いて、涙が……目尻から、零れ落ちた。
 キバの寝息だけが、聞こえた。
 そこに居た誰もが、言葉を失っていた。

 次の日のことだ。
「おはよう! 白上さん」
 紗絵は、席に座っていた彩子に話しかけた。
「お……おはよう」
「昨日は……大変……だったね」
「うん。昨日は……家に帰ったら、疲れて制服着たまま……寝ちゃった」
「あ、あたしもー! でもそしたら、ジンさんに怒られて……っごめん」
「気に……してないから。良いよ」
「うん……」
 二人は、何だかとてもぎこちない会話をしていた。
「そうだ……あのさ、彩ちゃんって、呼んでも良い?」
 ふと、紗絵が聞く。すると彩子は、少し戸惑った様子で、頷いた。
「良いよ。私も……さ……紗絵ちゃんって、呼んで良い?」
 今度は彩子が聞く。紗絵は嬉しくなって、笑顔で頷いた。
「うん! もちろん! あたし達、仲良くなろうよ!」
「あ……私……私ね、話すの苦手だけど、良い? 頑張って、しゃべれるようになるから」
「彩ちゃん、あたしは、そんなに心の狭い人じゃありませんから。安心して。一緒に頑張ろう」
「一緒に……?」
「一緒に!」
「ありがとう……」
 彩子は、紗絵に笑顔を向けた。
 やばい……可愛い!
 紗絵は彩子の笑顔を見て、こっそりとそう思った。
「話中のところ、失礼するけど、勝手なことしないでくれる?」
 突然、いつぞやの女生徒が、話に乱入してきた。
「あんた……っまさかまた彩ちゃんに何か嫌がらせするつもり?」
 紗絵は身構えた。彩子を守らなければと思ったのだ。
「そうだって言ったら?」
「させないよ。このあたしが」
 紗絵は、女生徒を睨んだ。
「昨日はあのまま逃げちゃってごめんね。でもまさか、白上さん早退するとは思わなかったわ」
「あたしが、進めたのよ。彩ちゃんが精神的にまいってたから」
「そうなんだ」
 女生徒は、彩子を横目で見やった。彩子は怯えた。それはまるで、獲物を狙う目だった。
「ねぇ、他の二人はどうしたの?」
「逃げられたわ。ホント、根性なし。でもま、せいせいしたかも」
「そっか。友達に見捨てられるほどの底意地の悪さなんだ。納得だわ」
「な……っ何ですって?」
 女生徒は、紗絵を思い切り睨んだ。二人は睨み合う。
「だって。本当のことじゃない。あんたは、自分の意見を、他人に押し付けているだけの、ただの弱虫よ。改心して、また仲良くすれば?」
「……どいつもこいつも……人のこと、寂しいだの、弱虫だの言いやがって。あんた何様のつもりなの!?」
 女生徒は、叫んだ。教室が一瞬、静まり返る。
「別に。何様のつもりでもないけど。ただ可哀想だなって思っただけ。今後一切、彩ちゃんをいじめたりしないで。次やったら、あたしあんたを死ぬまで呪ってやるから」
 紗絵は怖い顔で、女生徒に凄んだ。
「ふ……っふん! 呪う? やれるものならやってみなさいよ。どうせ出来ないくせに」
「あんまり言うと、先生に言いつけるよ? 呪われる上に、先生に怒られるなんて、最悪だね」
「証拠も無いのに、言いつけるって」
「証拠ならあるよ。彩ちゃんのノート。筆跡鑑定に知り合いがいるから、すぐばれるね。どう? ばらされたくないんでしょ? あたしも殺されかけたし」
 しばらくの沈黙。女生徒は、溜め息を吐いた。
「あんた……恐ろしい女だね。どうせはったりだろうけど。分かった。もうしません」
「分かれば宜しい。さ、じゃあ改めて、あんたもあたしと仲良くなろう」
「は?」
 突然の申し入れに、女生徒は、眉をひそめた。
「意味わかんないんだけど、あんた」
「ならないならいいけど。友達いないんでしょ? 友達要らない? じゃ、寂しくなったら仲間に入れてあげるよ」
 紗絵の言葉の羅列に、女生徒は、もう一度溜め息を吐く。
「気が向いたらね」
 そう言って、女生徒はどこかへ去っていった。
「すごい……紗絵ちゃん」
「かなり無理のある脅しだけど、分かってくれてよかった。多分あの子も……止めるきっかけが欲しかったんだろうと思うから。これで良かったかな」
「紗絵ちゃん……本当に……色々、ありがとう」
「いーってことよ」
 紗絵はそう言って、悪戯に笑った。

「あの、駅前のCDショップに、寄っても良いですか?」
 学校帰りの道の途中、紗絵が、振り向きざまに、ジンに言う。
 バーケが?消滅?してしまってから、数日、気落ちしている暇も無く、ジンは、神見習い試験に合格するため、日々こうして、紗絵を守っていた。
 しかし、学校の校舎には、相変わらず、入ることが出来なかった。
「ん……まぁ、良いけど」
 ジンは、一日中、自分の代わりに、校内での護衛をしていてくれていた、コートのポケットで、ぐっすり眠っているキバを見た。
「あーあ、俺が神術ちゃんと使えたら、こいつにこんな苦労掛けなくて良かったのにな」
 溜め息を吐くジンを見て、紗絵は苦笑い。
「キバ、愚痴ってましたよぉ。もっとマシな奴のサポートしたかったって。でも、天の神様の頼みだから仕方ねぇかって。あいつは努力が足らねぇって、その後もねちねちと」
 紗絵は、腕を組んで、首を少し傾げる。
「……そだ、今度彩ちゃんとエリナさんと……天枷くんも。皆と一緒に、遊ぶってのはどうですか?」
 紗絵の提案に、ジンは少し、気が乗らないみたいだった。
「彩子ちゃんとエリナはともかく……あいつはなぁ……絶対喧嘩になるよ」
 ジンは歩きながら、頭を掻いた。
 駅までの道を、少し足早に歩く二人。
 もう日が沈みかけて、影が伸びていた。
「……エリナさん……何て言ってました?」
 夕焼けの光に、浮かない顔の紗絵が照らされる。
「やっとやる気を出したかって、怒られちまった。どっちが?消滅?しても……それは仕方の無いことだから、その時は、現実を受け入れるだけだって……正々堂々、勝負を挑まれた」
 ジンは、エリナの顔を思い出していた。
 とても真っ直ぐな目をしていたなぁと、ジンは思い返した。
 ついでに春樹の怖い顔も思い出してしまったジンは、慌てて話題を変える。
「そ……っそうだ、彩子ちゃんのいじめの件、どうなったんだ……?解決したのか……?」
「んー……よく分かんないけど、多分……。あたしがあの子達脅しておいたし、彩ちゃんも頑張ってるみたいで……。あたしも出来るだけ彩ちゃんと一緒に居て、しゃべってるからかな、なんかちょっと……明るくなって来たかなって……思います」
 最後だけ妙に敬語なのが、少し気になったが、ジンは良かったな、とだけ言った。
 気が付くと、駅前の人ごみの中で、ジンは、紗絵を見失わないようにと、気を使う。
 ようやくCDショップにたどり着くと、紗絵はお目当てのCDを探しに、新譜の置いてある棚に、一直線。ジンはやれやれと思いながら、紗絵が見ている棚の真後ろに並べてある古譜のCDを、何となく手に取る。
「あ、これ知ってる」
 ジンは、人間だった時の記憶を辿る。
 小学生の頃に、人気のあったミュージシャンのCDだった。昔は真面目くんだったと、バーケに言ったが、別にこういう物に、興味が無かったわけではない。
「なつかしー」
 ジンは、嬉しそうに呟いた。
 CDを棚に戻すと、ジンは目線を横にやる。
「あ……っ」
 ジンの視線が、あるCDのところで止まった。
「これ……は……」
 高鳴る鼓動をよそに、ジンはゆっくりとそのCDを、棚から引き出した。
 見ると、一人の男が、ギター片手に、まるでマイクの前で叫んでいるかのようなジャケットだった。
 それはジンにとって、さっきのCDより遥かに別格で、特別な物だった。
「ん? 何か良いものありましたか?」
 突然、後方から、紗絵が顔を出したので、ジンは驚く。だが、すぐに落ち着いて、紗絵に、そのCDを見せた。
「……欲しいんですか?」
 紗絵が首を傾げる。
「……いや……このCD、俺が人間だった頃に出した物なんだ。もう随分昔の物だけど、こうしてまだ、CDとして残っているんだなって思って、少し嬉しくなった……」
 そう言って、ジンはCDを見ながら懐かしむように、微笑んだ。
 そんなジンの顔を見た紗絵は、ジンからCDを、さっと奪う。
「あ……っ」
 ジンは思わず紗絵を見る。
 紗絵は、CDジャケットをまじまじと見た。
「ほーんとだ。ジンさんの顔にそっくり。あ、?唐沢陣?って書いてある。これ、本名ですか?」
 CDジャケットを指差した紗絵は、無邪気に笑う。
「……ああ……。神見習いとしての名前は、名字と名前が逆になっているけどな」
 余計な情報も交えつつ、ジンは頷く。
「じゃあこれは……購入決定ですね」
 そう言って、紗絵は、自分が買おうとしていたCDの上に、ジンのCDを重ねる。
「え……?何で……別に無理して買わなくても」
 ジンは、紗絵の少し意外な行動に、戸惑いを隠せなかった。
「無理してないです。これは別に、ジンさんのためとか、ジンさんの歌だからとかいう理由じゃないです。ただ純粋に、あたしは、この歌を聞いてみたいだけです。だから買うんです」
 紗絵の真っ直ぐな言葉に、ジンは優しく微笑んだ。

 会計を済ませて、外に出ると、ジン達は、また足早に歩く。
 他愛の無い会話をして、笑い合って。
 それが紗絵にとっても、ジンにとっても、とても楽しい時間だった。
 しかしそれは、アパートの扉を開くと、一気に崩れ落ちた。
「……っ母さん!」
 玄関から一直線に見える、低い丸テーブルの上に、淡いピンク色の灰皿があった。
 灰皿にタバコの灰を落とす仕草をしている女性。
 矢野早苗、紗絵の母親だった。
「……何で……居るの……」
 紗絵は動揺を隠せずに、少し後ずさりをした。
「あらぁ、ここは私の家でもあるのよ? 居ちゃ悪いかしら?」
 早苗はタバコを銜える。
 嫌な臭い……。
 ジンは眉をひそめた。
 早苗は、水商売をやっているだけあって、色気がある。タバコの煙を吐く仕草でさえ、色っぽく感じる。
「……まぁ、でも……もうすぐ私のじゃ無くなるか……」
「……え?」
「私、結婚するから、この部屋あんたにあげる」
 早苗の、突然の宣告に、紗絵は目を丸くした。
「……は? どういうこと?」
 紗絵が眉を吊り上げる。
「そのままの意味よ」
 早苗は一息吐くと、タバコを灰皿へ軽く押し付けて、指を離す。そしてゆっくりと立ち上がると、紗絵の居る玄関口へと歩いた。
「あら? 何この可愛い子」
 早苗は、ジンに気付き、目を輝かせて、ジンの頬に、両手を伸ばした。
「あ……っは……っ初めまして……っあの……っ俺」
「名乗らなくて良いわ。どうせもう、何の関係も無くなるんだから」
 早苗の言葉と態度に、腹を立てた紗絵は、早苗の肩を、思い切り後方へ引き寄せた。
 ジンの頬から両手が離れ、早苗は足をもたつかせた。
「……っちょっと何ー?」
 紗絵は、真っ直ぐに早苗を見つめる。
「ふざけてないで、ちゃんと説明してよ。結婚? 何の関係も無くなる? 勝手に決めないでよ」
 早苗は、仕方なく紗絵を見る。
「……付き合ってた彼にね、あんたのことがばれたの。当然よね、結婚しようって言われたからには、あんたのこと、いつまでも隠してられないし。……でも彼は、言ってくれたの。?それでもいい?って。あんたももう高校生だし、一緒に住まなくても大丈夫だろうって話になったから、実家には、一人暮らしさせるって言ってあるわ。あんたはもう自由よ。好きに生きなさい」
 あまりにも突然の話に、紗絵は言葉が出てこない。ようやく出た言葉には、怒りが篭っていた。
「……によ……それ……。結局……あたしが邪魔なだけじゃない。あたしが居ると都合が悪いんでしょ、あたしが……っ」
「……ええ、そうね。あんたはいつも邪魔だったわ。あんたなんか産まな……っきゃっ」
 言葉を全部言い終える前に、紗絵は目に涙を溜めながら、早苗に掴みかかる。
「あんたはもう、あたしの母親じゃない……っ」
 そう言って、紗絵は右手拳を振り上げた。
 次の瞬間、紗絵は逆に、早苗にテーブルの方へ突き飛ばされた。
「きゃ……っ」
 紗絵は、テーブルに体を打ちつけた。
 丸テーブルは、衝撃でひっくり返り、その上に乗っていた淡いピンク色の灰皿は、カーペットに転がって、タバコの吸殻が落ちた。
 紗絵は突き飛ばされた時に捻ったのか、右足首を手で押さえている。
「……っ痛……っ」
「紗絵ちゃん……っ」
 渋い顔をしている紗絵に、ジンは駆け寄ろうとしたが、早苗に肩を掴まれた。
「ちょ……っ」
「ねぇ、外でお茶しない? お姉さん奢るわ」
「は!?」
 早苗は、紗絵に向かって、不気味な笑顔を見せた。
「さようなら」
 タバコの吸殻が、カーペットを焦がしていくのを、早苗だけは見ていた。

「あっのぉ~……俺、紗絵ちゃんに付いてなくちゃいけないんですけどぉ……」
 ジンは早苗に、強引にアパートの外へと、連れ出されていた。
「いーのよ、あんなの。ほっときなさい。それより、ホントにどこか行かない?寒くて寒くて……」
 早苗は、肩を震わせてみせた。
 ジンの腕は早苗に無理矢理組まされていて、強い力で、離れられない。
 近くの公園まで連れ出されていて、ジンは困り果てた。
「……随分、冷たいんですね。心配じゃないんですか?」
「心配してどうするの?もう関係ないの。早く居なくなればいいのよ」
 早苗の、恐ろしいほどの表情。
 突然、狂ったように笑い出した。
「早く燃えちゃえばいい! 皆、皆燃えちゃえばいいのよ! ふふっ……あははっざまぁみろだわ! 散々私を邪魔をした罰よ! 楽しみ……ゆっくりゆっくり、あの子が燃えていくの……苦しみ、喚き、泣きながら……っ早く死んじゃえばいいのよ!」
 鈍い音と共に、ジンの手の平から、強い力で折られた、小さな木の枝が落ちる。
「何だって……!?」
 ジンは、目を丸くした。
 早苗は笑いながら、ジンを見る。
「気付かなかった? タバコのこと……。今頃、カーペットから火が回り始めてる所よ。足を挫いているから、逃げられないわね……。ふふっ……これで邪魔者は居なくなる……」
 早苗は、ジンに不気味な笑みを向ける。
「……あんたは……っ何て人だ……っ」
 ジンは、怒りに震えていた。
「……それでも……っそれでも、あんたはあの子の母親だろう! あんたは最低だ! あの子は、あんたの物じゃない……っあんたの玩具じゃねぇ! あの子は……っあの子は自ら、あんたを選んで産まれて来たのに……っあんまりだ! あの子だって、寂しいんだ!」
 ジンは叫ぶと、紗絵の所へ勢い良く走って行った。
「紗絵ちゃん……っ紗絵ちゃん……っ待ってろ! 今、助けに行くから……っ死ぬんじゃねぇぞ!」
 走るジンの瞳には、一粒の涙が、滲んでいた。
 早苗はその場に、立ち尽くしていた。

 カーペットから燃え移った炎は、あっという間に、部屋全体を覆いつくした。
 紗絵は、炎から出る煙で、咳き込むのを防ごうと、煙を吸わないように、コートを脱いで、口元にあてた。
「……あつい……っ」
 危険な状況にも拘らず、紗絵は驚くほど冷静だった。
 立ち上がろうとしても、足が痛む。
 先程買ったCDも、袋ごと炎の向うにあった。
「あーあ……まだ聴いてないんだけどな……っきゃ」
 激しい音と共に、燃えていた本棚が、紗絵の体に向かって倒れてきた。
「……った」
 紗絵は、本棚の下敷きになってしまっていた。
 本はほとんど燃え尽きていたが、熱さと痛さで、紗絵の意識はもうろうとしていた。
「もう……駄目か……」
 紗絵は呟くと、思った。
 別にいいよね……いつ死んでも良いって、覚悟してたんだから……。
 助けられることを、紗絵は諦めかけていた。
「あたし……あの女に、結局はめられたんだよ……。でも、怖くない……死ぬのなんて……怖くない……怖くなんて……っ」
 紗絵はコートを少し離すと、すぐに咳き込んだ。
「……っごほっ死ぬのなん……て……死ぬの……っ」
 目の前の炎を見ると紗絵は、言い表せられないほどの、恐怖を感じた。
「い……や……。嫌だ嫌だ嫌だ……っ死にたくない……っ死にたく……っ誰か……っ誰か助けて……っ誰か……っジンさんー!」
 紗絵は叫ぶと、意識が遠退くのを感じた。
「紗絵ちゃん!」
 玄関のドアを、思い切り開けて、炎の立ち上る部屋へと入ってきたのは、ジンだった。
 ジンは、煙の出ているこのアパートを見ているやじ馬達を押し退けて、入るのを止められる手を払い除けて、この部屋に入ってきたのだ。
「紗絵ちゃん大丈夫!? 紗絵ちゃん……っ」
 ジンは、体温を感じないので、普通に炎を踏みつけて、紗絵に駆け寄る。
「……ジ……ン……さん……?」
 紗絵は、まだほんの少し残っていた意識で、必死にジンの呼びかけに答えようとする。
「待ってろ! 今……っ本棚どかしてやるからっ」
 ジンはそう言って、紗絵の上に倒れていた本棚を、力一杯持ち上げて、部屋の端に横倒しにした。本棚に火が移り、燃えていく。
「……ジ……ン……さん……あたし……っ」
「紗絵ちゃん……っもう大丈夫だ。俺が居る。絶対に、死なせないから……っ」
 ジンは、ゆっくりと紗絵の体を起こし、抱きかかえた。
 紗絵は、コートを口に当てたまま、しゃべる。
「……あたしね……ジンさん……」
「ん?」
「ジンさんや……キバに会うまで……苦しいこと……ばっかりでさ……っ楽しいことなんて……数えるほどしかなくて……人生って、こんなもんなのか……ならもう……いつ死んでも良いやって……思ってた……」
「……紗絵ちゃん……」
 ジンは、紗絵の目を見る。
「……でも……っ」
 紗絵の目には、涙が溜まっていた。
 ジンの背中の後ろで、炎が音を立てている。
「……でも……っさっきね……さっき……っ一瞬……もう……十分……生きれたから……っ頑張ったから……死んでも良いやって思ってたのに……急に……っ死ぬのが……っ怖くなったの」
 紗絵は、持っていたコートで、顔全体を隠すようにして、泣いていた。
 声を必死で押し殺そうとしている。
「怖くて……怖くて、恐ろしくて……っ初めて、死にたくないって……っまだ……ジンさんや、キバ……皆……皆と……一緒に……居たいって……っそう……思った……っ誰かに……助けて欲しいって……っごめ……ごめんなさい……あたし……こんな……っわがまま」
「わがままじゃないよ」
 紗絵は、しゃくり上げて泣いていた。
 ジンが、言葉を続ける。
「……そんなの……わがままじゃない。バーケだって、消えたくないって、言ってた……俺だって……人間だった時に、死ぬのが怖いって、思った時あった。今だって……俺自身の存在が……意識が……消えるのが怖い。エリナや、他の神見習いだって……きっと同じだ。人間も……っ誰しも一度は思うんだ、死にたくないって……。皆が思うことならそれは、わがままじゃないと……思うんだ。でも……それでも紗絵ちゃんが……その感情をわがままと捉えてしまうのは……それは、あのお母さんのせい?」
 ジンは、出来るだけ優しく聞いた。
 紗絵は、しゃくり上げながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あの人は……っあたしのこと……産まなきゃ良かったって……っ言ったんです。父さんも……弟も死ぬことが、分かっていたら……っ絶対に、あたしなんか、産まなかったのにって……。あたし……あたし……っ本当に、産まれてこなければ良かったのに……っそうすれば、こんなことには……ならなかったのにっ……」
「何で……っそんなこと」
 ジンは、眉をひそめた。
 紗絵が、続ける。
「だから……っずっと……っ死んでも良いって、思い続けて……っ何となくな毎日を……っ送っていたのに……。ジンさん達が現れて……っあたしのこと、助けに来たって……っ守るって……っ死ぬチャンスはいくらでも……巡ってきたのに……死なせてくれなくて……正直最初は邪魔でした……でも……っ今は……生きたいって……思わせてくれた……。これが……わがままじゃないのなら……ジンさん……あたし、あなたに……お礼が言いたいです」
「紗絵ちゃん……」
 ジンは、紗絵の言葉に、小さな感動を覚えた。
「ありが……とう……ござ……っ」
 紗絵の意識は、そこで途切れてしまった。
「紗絵ちゃん! ……気を失ってる、まずいな」
 ジンは急いで、部屋を出た。

 まだ薄暗い、明け方の空。
 鳥のさえずる音が聞こえる。
 病院の大部屋の一角で、ジンは祈るようにして、紗絵のベッド脇にある椅子に座っていた。ジンは、紗絵の力のない右手を、両手でしっかりと握っている。
「……ジン……」
 その、透き通るような綺麗な声に、ジンはゆっくりと顔を上げた。
 紗絵の寝ているベッドの向こう側に、その声の主は居た。
 窓から光が入っているわけでもないのに、その体からは、優しい光が発せられていた。
「……天の……神様……」
 ジンは、その名を呼ぶと、目を丸くした。
「どうして、ここに……」
 天の神は、ジンに優しく微笑み掛けると、言った。
「その理由は……汝自身が、良く分かっているであろう?」
 ジンは、すぐにその言葉の意味を悟った。
「合格だ。汝は、神見習い最終試験に、合格したのだ……。ご苦労だったな」
 天の神は、右手の人差し指を、くいっと上げた。ジンのポケットの中で眠っていたキバが、空中まで引き出され、天の神の手の平に収まった。
「あ……っキバ」
「よく眠っておるな……。こやつはこのまま、私が天界まで連れて行こう。汝にはまだ……やるべきことがあるのだろう……?」
 天の神は、意味ありげに、ジンを見る。
「……はい」
 ジンは、真っ直ぐに、天の神を見て、頷いた。
「待っておるぞ……ジン」
 天の神はそう言うと、ジンの前から姿を消した。
 光の粒が、名残惜しげに舞っていた。
 ジンは、静かに眠っている紗絵の顔を、見つめた。
「……お別れの時間だ……」

 時を同じく、明け方の空を窓辺で見ていたエリナに、異変が起こった。
「……は……早いな……よ……良かったね、ジン君……」
 エリナは、消え行く自分の手の平を見ながら、呟いた。
「ん……うん~」
 傍で寝ていた春樹が、唸り声を上げる。
「……さ……さようならです」
 エリナは、春樹を見つめた。
 ふと、春樹の目が開く。
「……あれ……何? 朝……?」
 春樹は起き上がったが、まだ寝ぼけているようだ。目を擦っている。
「は……っ春樹君……。起きてしまいましたか……。よ……良かったです……これで……お……お別れが言えます」
 エリナは、おもむろに泣き出した。
「は!? 何、お別れ? 何馬鹿なこと言ってんの。朝っぱらから……。あれ……何か光ってるけど」
 見間違いかと、春樹はもう一度目を擦るが、やはりエリナの体は光っているように見える。
「ジ……ジン君が……ご……合格……したんですね……お……おお……おめでたい……です」
 エリナは、涙を拭う。
 こうしてる間にも、エリナの体は着々と消えていく。
「何言ってんだ……。あの野郎っぶっ飛ばして来る!」
 春樹は、今にも駆け出しそうだ。
「ま……っまま……待って下さい!」
「あ? てめーは、消えても良いのかよ?」
「だ……だって……そ……それは、運命……でしょう?」
「は!?」
 春樹は、眉をひそめる。
 エリナは、春樹に優しく笑いかけた。
「すべては……わ……私の……ち……力不足です……。な……何の力にも、なれなくて……申し訳ないです……。でも、最後に……これだけ……言わせて下さい……」
「最後って……おい……」
「あ……あなたは……ほ……本当は……と……とても、お優しい方ですよ……。わ……私を、気遣って……くれたんですから」
 エリナの言葉に、春樹は顔を赤く染める。
「は……は!? 別に、気遣ってやった覚えはねぇけど。何か……俺のせいで、消えるみたいで……胸糞わりぃだけだっ」
 そう言って春樹は、エリナに背を向けた。
 きっと照れているのだろうと、エリナは思った。
「さ……さようなら……元気で……ま……また……いつかあなたと……形は違っても……あ……会えると……嬉しいです……」
「あっ……」
 春樹は、何かを言いたげに、エリナの方を見ようと、振り向いた。
 ――が。そこにはもう、エリナの姿はなく、代わりに柔らかな光が、周囲を優しく、照らしていた。
 春樹は、やり切れない気持ちで一杯だったが、
「……ありがとう……」
と必死の思いで呟いた。

08/9/18