小説「天の神様の言うとおり」後編

(キバ……お帰り)
 キバが、目を覚ますと、そこは、以前見たことのある光景が、広がっていた。
(あ……天……龍神……様……?)
 キバは、何故自分がここに居るのか、分からなかったが、すぐに状況は飲み込めた。
 キバは、龍神達に周囲をぐるりと囲まれていた。皆、とぐろを巻いて、どっしりと、そこに重みがあるように、居た。
 水龍、風龍、土龍、火龍……そして、天龍……大御所龍に囲まれて、キバは恐怖した。
(何で……何で……俺は、ここに……?)
(お前は、戻って来たのじゃよ。人間界から。天の神に連れられてな……)
 天龍の言葉に、キバは、動揺する。
(まさか……っ俺、不甲斐ないせいで、とうとう天の神様にまで見捨てられて……っ)
 キバがそう呟くと、天龍は、静かに長い体を、少しだけ振った。
(そうでのうて……。あの者が……試験に合格したのじゃよ。そしてお前も、同じくな)
(そう……ですか……。いつの間に……)
(お前もはれて、お役ごめんじゃ。こちらに戻ってくる気はないかね。古文書も、戻ってきておるぞ)
 キバは、天龍の言葉に、心が揺れた。
 今、戻れば、大きい姿の龍になれる保証もあるだろう。
 だがキバは、首を横に振った。
(何故じゃ……。古文書も戻ってきて、お前を許してやろうと言うのに、何故じゃ。何故じゃ、キバ)
(俺は、戻りません。ずっと、天の神様のお傍に……あいつの、傍に居たい。あいつの傍には、俺が居ないと駄目なんです。だからもし……もし、俺の願いを聞いていただけると言うのなら……俺を、この姿のままで、どちらの姿にも、すぐなれるように、していただく訳には、いきませんか……?)
 キバは、真っ直ぐに、天龍を見つめた。
(あやつのために、自分を犠牲にすると言うのか、キバ)
(それは違います!)
 キバは、思わず叫んだ。周りを気にして、キバは少し、首を竦めた。
(違うんです……。犠牲ではなくて……これが、俺の今望むことです。あいつと共に、ありたいんです。あいつの助けになりたいんです。それに今更……普通の龍神見習いには、戻れませんでしょう……?)
 天龍は、しばらく考え込む仕草をして、そして言った。
(良かろう。汝の好きにするがよい。その代わり……もう、戻って来る出ないぞ)
 キバは、天龍の言葉を聞くと、笑顔を見せてこう言った。
(もちろんです!)
(では……汝に、祝福あれ……)
 そう言うと、天龍は、キバの目の前で、大口を開けた。そして大きく息を吸うと、キバに向かって、息を吹きかけた。
 キバの体が、白く光る。
(うわっ)
 その光は、しばらくして消えた。
(大空を飛んでゆけ、キバ。さよならだ。また会おう)
(……はい!)
 キバは頷くと、体に漲る新しい力を、発揮した。
 キバは天高く舞い上がると、大きな龍の姿になる。
(うほほっ。気持ちいー!)
 キバは回りながら、金色に光る天を、飛び去っていった。

 紗絵が目を覚ましたのは、太陽が昇りきった昼中のことだった。
「ん……」
 紗絵は一瞬、自分が何故ここに居るのか分からなかったが、すぐに、何があったのかを、足の痛みで思い出した。
「あ……そうだ……ジンさん……っ」
 思わず起き上がったが、右足にギブスがはめられ、吊られていることに気付く。
 紗絵は構わず、周りを見回す。
「……え……っ何で!? いない……っ」
 ジンの姿が無いことに、不安を覚えた紗絵は、天井から吊られている足を無理矢理降ろして、ベッドから降りる。
 とたん、少しよろけるが、何とか近くの棒に掴まる。見ると、それは点滴がぶら下がった支柱だった。その点滴は、紗絵の腕に繋がっていた。
「……――たっ」
 紗絵は、点滴の針を、思いっきり引き剥がす。
 あまりの痛さに、目眩が起きそうだ。
 血が出てくるのもお構いなしに、紗絵は右足を引きずりながら、歩き出す。
「……っジンさん……っキバ!」
 大部屋のベッドには、全てカーテンが掛かっていて、誰一人、紗絵の行動に気付いていないようだった。
「! ちょっと……あんた! どうしたの!?」
 病室の入り口で、偶然居合わせて、紗絵が肩を掴まれたのは、早苗だった。
 しかし紗絵は、ジンのことで頭が一杯で、そのことに気付いていないようだ。なおも歩こうとしている。
「ジンさん……っジンさんは!? ジンさん!」
「落ち着きなさい! 落ち着きなさい、紗絵! 私のこと分かる!?」
 その言葉で、紗絵は我に返る。
「か……あ……さん?」
 紗絵は早苗の姿を見るなり、急いで離れる。
「あ……っあ……っ」
 肩を震わせる紗絵を見て、早苗は両手を上げて、もう何もしないことを表した。
「大丈夫……ごめんね、紗絵。ごめん。お母さん……逃げてたのよ……現実から、目を逸らしてたの。許してなんて言わない……でも……一緒に住みましょう。もう……寂しい思いはさせないから。あの子に……怒鳴られてしまったわ」
 早苗は、本当に申し訳なさそうに言った。
「私……ちゃんと……ちゃんと、あなたの母親になる。寂しかったのは同じなのよね……。もう二度と、産まなきゃ良かったなんて、言わないわ」
 早苗は、両手を広げた。
 紗絵は、やっと安心したのか、少し肩を落とす。
「……もう……良いよ。あんまり、怒ってないから……。それより、ジンさん……ジンさんはどこ……? 何で居ないの……!?」
「ジンさん……?あ……ああ、あの子ね……さっきすれ違ったけど……海に行くって言ってたわ」
 早苗の言葉を聞いたとたん、紗絵はまた歩き出した。
「ちょっと! 紗絵!?」
 紗絵は、早苗の手を振り払い、何やらぶつぶつと呟きながら、必死で歩く。
「もう……っ周りが見えなくなるのは……一体誰に似たんだか」
 早苗は、紗絵の後姿を見ながら、溜め息を吐いた。

 紗絵は、やっとの思いで、病院から抜け出すと、海へと歩く。
 ギブスの嵌められている足は、包帯が黒く汚れ、もう片方の足は、病院のスリッパを履いたままだった。
 紗絵は、今にも泣き出しそうな顔をして、必死の思いで、ジンの名を呼び続けた。
「ジンさん……ジンさん……」
 そして、防波堤に、たどり着く。
 紗絵は、ゆっくりと海岸へ続く階段を降りる。最後の一段、足が縺れて転びそうになり、思わず両手を地面についた。
「……大丈夫?」
 紗絵が、ふと顔を上げると、目の前に、ジンの姿があった。
「……っジンさん……!」
 紗絵は、突然のことに、目を丸くする。
「俺のこと、探してくれるのはありがたいけど、ものすごく無理して来なくても……っま……君らしいな……」
 ジンは、そう言って苦笑いをする。
 紗絵は、ジンに体を起こしてもらった。
「……っねぇ、ジンさん……! どうしたの? キバは? もう、あたしの傍に居なくても、大丈夫なの?」
 紗絵の質問に、ジンは頷く。
「……うん。今朝、天の神様がわざわざ来てくださって、合格だって……俺が……」
「ごう……かく……?」
 ジンは、もう一度頷いた。
「キバは先に帰ったよ……。俺は、君にお別れを言わなきゃいけないから……。ありがとう、君のおかげだ……」
 ジンは、紗絵に微笑み掛けた。
 紗絵は俯いた。
「お……別れ? もう……二度と……。ジンさんにも……っキバにも……エリナさんにも、バーケさんにも……! 会えないの?」
 ジンから、紗絵の表情は見えなかった。
 紗絵は、涙を堪えていた。
「……嫌だ……っそんなの……う……嘘つき……!」
「え……?」
「嘘つき……嘘つき……嘘つき! 今度、皆で遊ぼうねって、言ってたのに! ジンさんの嘘つき!」
 紗絵の言葉に、ジンは、昨日のことを、思い出したようだ。ジンは、無理に作っていた笑顔を止めて、俯いた。
「……ごめん……約束……守れなくて……。ホントっ」
「……っでも!」
 急に、紗絵は、ジンの顔を真っ直ぐに見つめる。
 その瞳からは、涙が、とめどなく流れていた。
「ご……合格……おめでとうございます……っジンさんなら、きっと良い神様に、なれると思います。……っだから今度は……あたしの願いを……ちゃんと聞いてくださいね」
 紗絵は無理矢理、笑顔を作る。
 ジンは、紗絵の笑顔とも言いがたい顔を見た。
「紗絵ちゃん……」
「お別れは……すごく寂しくて、嫌なんですけど……仕方ないから……だから、笑顔でさよならって……。うんん……ありがとうって言います。あたし……皆と会えて……ジンさんに会えて……生きてて良かったで……っ」
 ジンが突然、紗絵のことを抱きしめた。
「す……っ」
 紗絵が、目を丸くする。
「……良かった……。最後に……その言葉が聞けて」
 紗絵は、目を閉じた。そして、顔を上げ、今度は目を開ける。その瞳は、青空に向けられていた。
「……ジンさん……あたし……感謝します……。全ての人に……。全ての物に……。産まれて……こうして生きていられることに……。そして……皆に出会わせてくれた神様に……感謝します」
 次の瞬間、突風が、二人を襲った。
 風で、紗絵の涙が飛び散る。
 ジンは、紗絵から離れなかった。
「……ほら……呼んでいるみたいですよ……。もう……行ってください……。ジンさん……」
 ジンは、紗絵を一瞬、力強く抱きしめると、手を離して、海の方へと駈けて行った。
「紗絵ちゃん……!」
 ジンは、紗絵の方に振り向いた。
「天の神様は……きっといつも見てるから! ……だから俺も! 俺も、天界から……っ空からずっと、紗絵ちゃんのこと見守ってる! 一人だなんて思わないで! 寂しかったら空を見上げて、俺達のこと思い出して……っ辛いことや、苦しいことがあっても、生きて……っ最後の時まで生きて……!」
 ジンの叫びは、紗絵の心に、真っ直ぐに届いた。
「……はい! ありがとうございます!」
 紗絵は、満面の笑みを、ジンに向けた。
 ジンは、それを見て、優しく笑むと、また海の方に向き直った。
「……こちらこそ……ありがとう!」
 もう二度と……会うことはないけれど……。
 ジンと紗絵は、口には出さずに、そう思った。
 ジンは、真冬の海の中に、平然と入っていく。
 紗絵は、ジンの姿を、見えなくなるまでは、見ていられなかった。
「ありがとう……ありがとう……ありがとう……あり……っ」
 紗絵は、その言葉を、何回か繰り返し言っていたが……やがて、その場に、崩れ落ちるようにしゃがみ込み、泣き始めた。
「……っすぐ……っすぐ元気になるから……っだから今は、今だけは……っ泣いても良いよね……っ」
 海岸には、紗絵の泣き声と、波の音だけが、響いていた。
 海には、ジンの姿が無くなっていた。

 天界に戻ってきたジンは、天の神様の、広い庭園に居た。
 ジンの後ろには、人間界へ繋がる井戸があり、まだ光を帯びていた。
「……あーもう! 何で俺まで泣いてんの……っ」
 ジンは、その場にしゃがみ込む。
 目には、涙が溜まっていた。
「……っジーン!」
 名前を呼ばれて、顔を上げると、誰かがジンに飛び付いてきた。
「は!?」
 突然のことに、ジンは驚きを隠せない。
 しかし、その声色には、聞き覚えがあった。
「……っジーナ!? ジーナか!?」
 ジンは、その神見習いの顔を見て、笑顔になる。
「久しぶりだな! 元気みたいで良かった! お互い!」
「……そんなに久しぶりじゃない気もするけど、良かった! 合格だって? あんたも!」
「……え……何で知って……」
 ジンは瞬きをする。
 ジーナは立ち上がり、ジンに右手を差し出した。
「あんたを迎えに行けって頼まれて。……さ、行くよ。宮殿で、皆が待ってる!」
「お……おう……」
 ジンは、少し戸惑いながら、ジーナの手を取った。
 そしてジンは、ジーナに連れられて、天の神の宮殿へと入った。
 中へ入ると、恐らく試験に受かった者達であろう、神見習い達が、歓声にも近い声で、ジンを迎えた。
「おう! 元劣等生! おめでとう!」
「まさか、お前が合格するとはなぁ、前代未聞だぜ。こりゃ」
「おめでとう、ジン」
「おめでとうジンくん! 今日はパーティだね!」
 ほとんど全神見習いが、ジンのことを祝福してくれているようだった。
 ただ一部の神見習い達は、
「バーケさん、何か禁忌を犯してたらしいぜ。だから、落ちたって」
「えーうっそ。あ、もしかして、あいつがバーケさんをそそのかして、ずるしたんじゃねぇ?」
「エリナさんも可哀想だね。こんな奴に負けるなんて。案外、あの人も大したことなかったってことか?」
 と、陰口を叩いていた。だが、傍に居た神様方に、何か一言言われると、すぐに押し黙った。ジンは、そんな神見習い達を横目で見やり、勝手なことばっか言いやがって、と思った。
「……ジン。気にすることはないよ。これがあんたの実力なんだから。あたしの言ったとおりだったでしょ? あんたは、やれば出来る子だって!」
 ジーナが、ジンに耳打ちする。
「お……おお……」
 ジンは、目の前を見た。
 少し段差があって、その上に、天の神が立っていた。
 その下の両側には、火の神と、水の神が居た。
 水の神は、天の神とはまた違った美しさで、ジンや、周りの神見習い達を魅了する。
 火の神のすぐ横には、カイルが居た。
「おめでとう……。ジン」
 カイルが、無機質な笑顔を、ジンに向ける。
「ありがとう……。お前らも、おめでとう」
 ジンは、ジーナとカイルに、笑いかけた。だが、試験に落ちて、この場に居ない者達のことを考えると、ジンは少し、心を痛めた。
(何やってんだよ。早く上がれ、待ちくたびれたぞ)
 いつの間にか、自分の肩に乗っていたキバに、ジンは驚く。
「……お……お前、いつの間に……ってか……俺の肩には、死んでも乗らねぇんじゃなかったのかよ」
(今日は特別だ。今日だけだぞ)
 ジンは、キバの頭部に手を置いて、嬉しくて撫でまくる。
(ぬあ! 止めろっ気安く触るな!)
「いーじゃんよー。ケチ」
 ジンは、小さな手に持ち上げられた手を見て、拗ねる。
(良いから、さっさと上がれっ)
「……っいて……!」
 ジンは、キバに蹴られた頭を押さえ、渋々段差を上がる。
 そして、目の前の天の神を、真っ直ぐに見つめた。
「ジン……。これから汝には、私の弟子になってもらう。そしていずれは、私の後を継いで、天の神になってもらわねばならん。汝には、この世界を……全ての世界を背負う、覚悟があるか?」
 天の神は、強い瞳で、ジンに問う。
 その真っ直ぐな瞳に、ジンは怯まず、こう言った。
「覚悟なんてないよ……」
 その言葉に、その場は騒然とした。だがジンは、それに構わず、続ける。
「でも……その代わり……。全ての世界の者達の、辛さや苦しみを、少しでも取り除いていきたいっていう、思いがある。ただ、背負うだけじゃなくて……。何が正しいとか、間違っているとか……答えなんて無くても……それが俺だから……。俺は、俺らしく、やるだけだ」
 ジンの言葉に、天の神は微笑む。
「汝らしいな……。良いだろう。手を出せ」
 ジンは、言われるがままに、天の神に右手を差し出した。
 天の神はその手を取ると、甲にそっと口付けをする。
 ジンは一瞬驚いたが、天の神の口元から、光が溢れ出していることに気付いた。
「あ……っ」
 返されたジンの手の甲には、白い文字で、?天?と書かれていた。
 それは、天の神の弟子になったという証。
 神見習い達が、歓声を上げた。
 ジンは、その印を見た時に、これはすごいことなのだと、改めて思った。
「……っありがとうございます!」
 天の神は、優しく微笑んだ。
「……っよっしゃー! 今夜は宴会じゃー!」
 ジーナが叫びながら、ジンの腕と、カイルの腕を掴んで、引っ張る。
「おわっ!」
(落ちるだろ! この女!)
 キバが、ジンの肩にがっしりと掴まり、ジーナに怒鳴る。
「ごめんね、おちびちゃん」
(ちびって言うな!)
 その会話に、ジンは少し気になっていたことを、キバに聞いてみる。
「そういえばキバ。お前なんで小ドラのままなの? お前も合格じゃ……っ」
 ジンの質問に、キバは、ジンから目を逸らす。
(お……俺が、頼んだんだよ……。この姿のままの方が、コンパクトだから……って……。自由に大きさ変えられるようにしてもらった。これからも、俺はずっとお前のパートナーだからな)
 ジンは、そんなキバを見て、微笑んだ。
「……ああ……頼りにしてるよ、キバ」
 そして、ジン達は歩き出した。
 色んな人の思いを乗せて、風が吹く。
 天の神は、ジンの後姿を、いつまでもいつまでも見ていた。
「全部……天の神様の言うとおり……ですか……。さすがです」
 火の神は、天の神を横目で見やると、目を閉じた。

 怪我を、すっかり完治した紗絵は、新しい家に居た。
 あの日の火事は、単なるタバコの不始末ということになっている。
 他の人は、誰一人として、母が娘を殺そうとしたという事実を知らない。
 紗絵は、あの日燃えてしまった?唐沢陣?のCDを、あらゆる手を使って、入手した。そのCDを握り締めて、CDコンポの前に、座り込んでいる。
 買ったばかりのCDは、神見習いであったジンを、思い出させた。
 紗絵は、ゆっくりとケースを開け、ディスクをコンポへ入れる。
 コンポからは、音が流れてくる。ジンの歌声が、部屋中に響く。

 茜色の空
 あの空よりも、もっと綺麗な空を見て
 君は、嘆いてたね
 僕は言うよ 君に言うよ
 だけど僕は鳥のように飛べやしないから
 この思いを届けられなくて
 泣いてしまうかもしれない
 だけど僕は 君に言うよ
 君は大切な とても大切な人だから
 この道を歩いていこう
 だってさ この道は
 健気な君が教えてくれた 道
 きっと そうだね
 歩いてゆける あの空まで
 空色の空
 僕を晴れ晴れとした気持ちにさせる
 本日晴天 日本晴れ
 僕の笑顔と君の笑顔
 太陽が 僕たちを見守ってくれている
 君は一人じゃないから
 いつも傍に僕が居ること
 決して忘れないでいてほしい
 僕の涙と君の涙
 明日もきっと 笑顔になるよ
 さぁ 空を見上げてごらん
 素敵な未来が 見えるだろう?

「……結構……良い歌じゃないですか……」
 そう呟く紗絵の瞳から、知らず知らずの内に、大粒の涙が、零れ落ちていた。
「あ……れ……おかしいな……何で……。もう……泣かないって、決めてたのに……」
 唐沢陣の歌声が、ジンの声が、紗絵の耳に残って、離れない。
 紗絵は、泣きながら、壁の時計を見た。
「もう時間だ……行かなきゃ……。彩ちゃんが待ってる……」
 紗絵はゆっくりと立ち上がると、音楽を止めた。
 涙を拭うと、紗絵は静かに、歩き出した。

「遅いぞ、矢野」
 紗絵が、彩子との待ち合わせ場所に行くと、意外な人物も居た。
「え……。何で……天枷君が……ここに?」
 そこには、誰であろう、天枷春樹が、彩子の隣に立っていたのである。
 紗絵がパニックに陥っていると、彩子がゆっくりわけを話す。
「あ……あの、何故か、朝、うちの前に居て……それで……その……今日のこと話したら……一緒に来るってきかなくて……」
「あー……つまりあれだ、あたし達のどっちかに、君は気があると……」
「馬鹿言うな。高貴な人間同士、親睦を深めようって、魂胆なんだろ」
 そう言って、春樹は、腕を組んだ。
「自分達だけずるいぞ。俺も混ぜろ」
 何故か偉そうな態度の春樹に、紗絵は溜め息を吐いた。
「こんな奴ほっといて、行こっ彩ちゃん」
「……っておい、だから置いてくなっての!」
 歩き出した紗絵と彩子を、慌てて追いかける春樹。
「……それにしても……。変わったよね、二人とも」
「うん……。自分でも、びっくりしてる。ジンさんのおかげだよ」
「え?」
 彩子の予想外の言葉に、紗絵は思わず、足を止める。
「バーケさんの……じゃなくて……?」
「うん」
 止まった紗絵の方向に、彩子は振り向く。その後ろには、追いついた春樹が居た。
「もちろん……バーケさんのおかげで、今まで誰かに甘えてばっかりだった自分に気付けたし……それも少しはあるけど。でも一番……あの言葉が、心に沁みた」
「何?」
 彩子は、少し間を置いて、言った。
「『肩の荷降ろして、良いんだよ。俺は、笑顔の君を、見てみたい』そう、ジンさんが言ってくれたの。……その時は、何も答えられなかったけど、自分から、肩の荷を降ろしたら、本当に……本当に、楽になったの……自分が出せるようになった。今の私があるのは……ジンさんの……おかげなのかなって」
「そっか……。良かったね」
 紗絵は、彩子に優しい笑顔を見せた。
「けっ。あんな奴の、どこがいいのかね」
 春樹は、ジンに平手打ちされたことを、まだ根に持っているようだった。
「あ、もしかして。天枷君、彩ちゃんに気があるな?」
 紗絵が、春樹をからかう。
「馬鹿。俺には、たった一人の愛した女が居るんだよ。今はもう、会えねーけど」
 春樹は、真面目に答えた。
 紗絵は、すぐに察しがついて、これ以上はからかえないなと、思った。
「……そっか。あんたにも居るのか。そういう大切な人」
 紗絵達は、堤防沿いを歩いていた。
 春樹が、ふと口を開く。
「何か……あいつさ……。エリナ……いつも、一生懸命だったんだよな……。馬鹿みたいに真っ直ぐで、曇りがなくて……。そういうのが、すっげぇ羨ましくて。いらいらして。・そんな時だった。あの男に、平手打ちされたのは。おかげで目が覚めたよ。エリナと、俺も真っ直ぐ向き合ってみようと、ちょっと思った」
 名称は言わないが、?あの男?が表す人物を、紗絵と彩子は分かっていた。
 春樹がこんなに気さくに付き合える仲間になったのは、同じような体験をしたからであり、お互いが、自分の中の何かを変えようと思ったからである。
 紗絵達が、春樹が隣のクラスで、同級生だったことを知ったのも、春樹が変わったからである。
 潮の香りがする。
 紗絵と彩子と春樹は、海岸へと続く階段を降りた。

 紗絵にとって、この海岸は、とても思い出深い海岸だった。
 父と、弟が死んだ海の近くであり、ジンとキバと出会って、そして別れた場所。
「さて、じゃあやりますか」
「うん」
「ああ」
 紗絵の言葉に、頷く彩子と春樹。
「まずは、彩ちゃんからどうぞ」
「え、私?……何か……恥ずかしいな」
 彩子は、少し顔を赤らめた。
「言いだしっぺが、やっぱ一番でしょう」
「うう……」
 彩子は、覚悟を決めると、思い切り口から息を吸い込んで、そして叫んだ。
「エリナさーん! あんまり話せなかったのが、残念で仕方ありませーん! バーケさーん! あなたの厳しい一言が、いつも胸に突き刺さって、とても痛かったでーす! でも! 今だったら、耐えられるような気がしまーす! そしてジンさーん! あなたのおかげで、私は変われましたー! ありがとうございまーす!」
「……何だよそれは」
 春樹が、少し不満そうに呟く。
「何って、一人一人にメッセージでしょうが」
 すかさず、紗絵のフォローが入る。
「それは分かるけど、もっとマシなメッセージは無いのか。特にエリナへのメッセージ。ホントのことだろうけど、もうちょっと何か言えよ」
「勝手に言ってろ」
 紗絵はそう言って、切り捨てた。
「良いよ、続けて。もっと一杯、言いたいことあるでしょ」
 紗絵の言葉に、彩子は頷く。
 そしてもう一度、大きく息を吸った。
「私ー! 皆のおかげでー! 強くなれたー! 本当の自分になれたー! 勇気をくれた皆が居てー! 今まで孤独だった私をー! 一人じゃないって思わせてくれた! 私は! 私は、これからも、前向きに! 生きていこうと思います! 本当に……っ本当に……っありがとう……ございました!」
 突然、勢いが途切れてしまった彩子を、紗絵は見た。
 彩子の目尻から、涙が流れていた。
「つ……辛かったの……ホントに……あの頃は……。皆が……皆が、天使みたいに思えた」
「良し良し……」
 紗絵はそう言いながら、泣いている彩子の頭を、優しく撫でた。
「うわぁんっ。紗絵ちゃーんっ大好き、ありがとうっ」
 彩子が、紗絵に抱きつく。
 そんな彩子を、紗絵は優しく受け止める。
「じゃ次ー! 天枷春樹行きまーす!」
「え!? ちょっと、次あたし!」
 春樹の突然の発言に、紗絵は慌てて、止めようとしたが、彩子に抱きつかれているので、紗絵は、身動きが取れない。
「お前は、最後の方が良いだろ。言いたいこと、俺らよりも有りそうだし」
「天枷君……」
 春樹は、大きく息を吸い、海に向かって叫ぶ。
「エリナー! 好きだー! 愛してるー!」
「……って、何、愛の告白してんの」
 紗絵と彩子が、同時に顔を赤らめる。
「うるせー! 俺はー! あん時言えなかったけどー! 最初はすっげーうざかったけどー! 本当の俺を分かってー! ホントは優しい奴だって言ってくれてー! すっげぇ嬉しかったー! いつの間にか惹かれてたー! 大っ好きだー! 以上!」
 春樹は言い終わると、砂浜に腰を下ろした。
「すっげー恥ずい」
 そして、顔を紗絵と彩子以上に赤らめて、その顔を、両手で覆い隠す。
「なら言うなよ」
「うるせー! 言っておきたかったんだよ、俺の気持ち。それより、最後お前だろ、さっさと言えって」
「え、ジンさんとバーケさんには?」
「言うことねぇよ」
「……そっか」
 紗絵は納得すると、海に向いた。彩子は、紗絵から、一歩離れる。
 紗絵は、息を大きく吸い込んだ。
「エリナさーん! あたしー! いつも一生懸命なエリナさんをー! 見習いたいと思いまーす! ありがとうございましたー! バーケさーん! あなたはとても、強い人かと思ってたけどー! 本当はとても弱い人でー! でもー! あなたも真っ直ぐな人だった! その真っ直ぐさは! 素晴らしいと思いまーす! 最後にジンさーん! あたしー! あたし……っ」
 紗絵は、そこで言葉を失った。
「紗絵ちゃん……?」
「矢野……?」
「あたし……っ。そんな……そこまで……強く……ないから……」
 紗絵の目尻から、涙が溢れ出ていた。
 彩子が心配して、紗絵の右手を握る。
「泣かないって! 決めたのに! それでも、悲しくて! 泣いちゃうけど! 許してくださいね! ホント! ジンさん! 良い歌でしたー! すごく、ジンさんの気持ちが、一杯詰まった歌でしたー! ありがとう……っございました! キバも……っありがとう!」
 紗絵は、最後の力を振り絞って、紗絵は叫んだ。
「最後だから……もう……ここには、思い出を背負って来るのは……最後にする。また……夏になったら……きっと、たくさんここに人が来る。だから……あたし達も、海水浴に来るよ……そんで……そんで、楽しそうな笑顔を、見せびらかしに来るよ……」
「うん」
 紗絵の言葉に、彩子は頷いた。
 春樹は、空を見上げる。
「青いな……空も、海も」
 春樹は、そう呟いて、目を閉じた。
 波の音だけが聞こえる……。
「未来へ歩こうか。ゆっくりでいいから、確実に」
 そう、春樹は呟いた。
「そうだね」
「うん」
 紗絵と彩子は同意すると、春樹と同じように、空を見上げた。
「本当だ……。青い」
 紗絵はそう呟いて、空に向かって、笑顔を見せた。
 それはまるで、ジンへと向けた笑顔のように……。

 天界での、その後の話だ。
「え、あの津波とか、火事とか、竜巻とか、お前らが起こしてたのか?」
 ジンは宴会中に、衝撃の事実を告げられていた。
「うん。あの津波、あたしが起こしてたの」
「火事……良い火が出てたろ……」
 ジーナが、天界でのご馳走、神木の赤い実を、貪り食う。
 カイルは神酒を、ゆっくりと口に入れた。
恐らく竜巻を起こしていたであろう風の神の弟子は、無言で頷いていた。
「実は……あたし達の試験内容はね、あんたを成長させる手助け。だったのよ」
「成長……?」
「別名……お前にやる気を出させる試験」
 ジンはそれを聞くと、瞬きをした。
「何……俺って、試されてたの……?」
(似たようなもん。だな)
 ジンの呟きに、テーブルの上の、小さい姿のキバが、答える。キバもまた、ジーナと同じ神木の実を、両手で持って、少しずつかじっていた。
「な……っ何だよそれ!」
 ジンが、少し怒ったように叫ぶと、テーブルの一番端にいた天の神が、答える。
「汝を成長させるには……致しかたないことだったのだよ」
 天の神は、その美貌を弄ぶかのように、そこに座っていた。
「その二人は、汝と特に仲が良く、一番長く一緒に居た時間があったのだ。影響力も、強いはずだろう。友として、共に歩む仲間として、二人にはわざわざ、悪役に回ってもらったのだ。その心の強さを見込んでな」
「そ! 流石天の神様! 良く分かってらっしゃるっ」
(おいこらっ! お前、天の神様に、何て口の利き方しやがる!)
 キバがジーナにそう言うと、天の神は寛大な心で、
「良いのだよ、キバ。それが彼女の個性なのだから。そうであろう? 水の神よ」
 と言って、水の神の方を見た。
「ええ。この、神世界に革命をもたらしてくれる、素晴らしい娘だと、私は思いますわ」
 水の神は、おっとりとした様子で言った。
 とうのジーナは、少し照れ笑いをしていた。
「す……すみません。ありがとうございます」
 キバは、少し拗ねた様子で、ひたすら神木の実を、貪り食った。
「ジン……どうした、食わないのか?」
 目の前のご馳走に、なかなか手を出さないジンに、天の神が気付いて、そう聞いた。
 するとジンは、天の神に、こう聞いた。
「紗絵ちゃんは……紗絵ちゃんは……あの子は、これからどうなるんですか?」
 ジンは、紗絵のことが、ずっと気がかりがったのだ。
「それに……?消滅?してしまった神見習い……彼らは……っ」
 ジンは、天の神を、真っ直ぐに見た。
 天の神は、言った。
「あの娘は、これからも生きてゆかなければならぬ。それは例え、この先どんなに辛い目に遭おうとも。それを乗り越えるのは、彼女であって、私達にはどうすることも出来ぬ。私達は、ただの監視者だからだ。だが、少なくとも今回のことで……彼女もお前のおかげで、一つ大人になれた。あの娘は、強い。心配は要らない。私達はただ、これからも彼女を、見守っていくしかないのだ。それはもちろん、他の人間達にも言えることだ」
 天の神は、天を見上げ、指を差した。
 そこに居た神や、その弟子達が、一斉に天を見上げる。
「わぁっ」
 ジーナが思わず、声を上げる。
 ジン達が見たものは、天を颯爽と舞う、天使たちの姿だった。
 天使の大群が、どこかへ向かっていた。
「あ……っ」
 その中に、エリナとバーケを見つけたジンは、思わず立ち上がり、右手を上げて、その名を叫び、呼びかけた。
「おーい! エリナ! バーケ! 俺は、俺はここだ! ここに居るぞー!」
 しかし、その呼びかけも空しく、天使たちはその場から離れていく。
「無駄だ、ジン。彼らはもう、汝のことなど、覚えてはおらん」
「……っそんな!」
 天の神の言葉に、ジンは眉をひそめる。
「そんな……二人とも……。俺のせいで……っ」
「ジン……」
 ジーナが、すっかり肩を落としてしまったジンを見て、気持ちを察する。
 だがジーナには、どう声をかけていいか、分からなかった。
 天の神が、ジンに向かって言う。
「……そんなに気を落とすな。汝のせいではない。これは、輪廻転生の、人間としての定めなのだよ。命は移り変わり、そして成長していく。汝がそうであったように。彼らもまた、さらなる高みへ登るため、再びスタートラインに立つのだ。……今度は悪魔に落ちてしまうかも知れない、だが、強い心さえ持っていれば、いつかまた、違う形で、また彼らに出会える。ジン、答えが一つだとは思わぬことだ。未来への可能性は、いくつもあるのだから」
 天の神は、ジンを、真っ直ぐに見つめた。
 ジンは、天の神の、その一つ一つの言葉を噛み締めて、再び天を見上げた。
「はい!」
 ジンは、そう大きく返事をすると、人間界の空と同じく、先の見えない天を見上げたまま、固めた決意を胸に秘めた。
「またいつか……絶対に会えるよな。バーケ、エリナ。俺は信じる。そして、お前らがずっげえ驚くくらい、良い天の神様に、なってやる!」
 天の神は、そう言ったジンの顔を、優しく見つめて、微笑んだ。
 いつかの未来にそれが叶うことを、確信して。
 天は、いつまでもいつまでも、金色に輝いていた。

08年9月18日

小説「天の神様の言うとおり」後編

(キバ……お帰り)
 キバが、目を覚ますと、そこは、以前見たことのある光景が、広がっていた。
(あ……天……龍神……様……?)
 キバは、何故自分がここに居るのか、分からなかったが、すぐに状況は飲み込めた。
 キバは、龍神達に周囲をぐるりと囲まれていた。皆、とぐろを巻いて、どっしりと、そこに重みがあるように、居た。
 水龍、風龍、土龍、火龍……そして、天龍……大御所龍に囲まれて、キバは恐怖した。
(何で……何で……俺は、ここに……?)
(お前は、戻って来たのじゃよ。人間界から。天の神に連れられてな……)
 天龍の言葉に、キバは、動揺する。
(まさか……っ俺、不甲斐ないせいで、とうとう天の神様にまで見捨てられて……っ)
 キバがそう呟くと、天龍は、静かに長い体を、少しだけ振った。
(そうでのうて……。あの者が……試験に合格したのじゃよ。そしてお前も、同じくな)
(そう……ですか……。いつの間に……)
(お前もはれて、お役ごめんじゃ。こちらに戻ってくる気はないかね。古文書も、戻ってきておるぞ)
 キバは、天龍の言葉に、心が揺れた。
 今、戻れば、大きい姿の龍になれる保証もあるだろう。
 だがキバは、首を横に振った。
(何故じゃ……。古文書も戻ってきて、お前を許してやろうと言うのに、何故じゃ。何故じゃ、キバ)
(俺は、戻りません。ずっと、天の神様のお傍に……あいつの、傍に居たい。あいつの傍には、俺が居ないと駄目なんです。だからもし……もし、俺の願いを聞いていただけると言うのなら……俺を、この姿のままで、どちらの姿にも、すぐなれるように、していただく訳には、いきませんか……?)
 キバは、真っ直ぐに、天龍を見つめた。
(あやつのために、自分を犠牲にすると言うのか、キバ)
(それは違います!)
 キバは、思わず叫んだ。周りを気にして、キバは少し、首を竦めた。
(違うんです……。犠牲ではなくて……これが、俺の今望むことです。あいつと共に、ありたいんです。あいつの助けになりたいんです。それに今更……普通の龍神見習いには、戻れませんでしょう……?)
 天龍は、しばらく考え込む仕草をして、そして言った。
(良かろう。汝の好きにするがよい。その代わり……もう、戻って来る出ないぞ)
 キバは、天龍の言葉を聞くと、笑顔を見せてこう言った。
(もちろんです!)
(では……汝に、祝福あれ……)
 そう言うと、天龍は、キバの目の前で、大口を開けた。そして大きく息を吸うと、キバに向かって、息を吹きかけた。
 キバの体が、白く光る。
(うわっ)
 その光は、しばらくして消えた。
(大空を飛んでゆけ、キバ。さよならだ。また会おう)
(……はい!)
 キバは頷くと、体に漲る新しい力を、発揮した。
 キバは天高く舞い上がると、大きな龍の姿になる。
(うほほっ。気持ちいー!)
 キバは回りながら、金色に光る天を、飛び去っていった。

 紗絵が目を覚ましたのは、太陽が昇りきった昼中のことだった。
「ん……」
 紗絵は一瞬、自分が何故ここに居るのか分からなかったが、すぐに、何があったのかを、足の痛みで思い出した。
「あ……そうだ……ジンさん……っ」
 思わず起き上がったが、右足にギブスがはめられ、吊られていることに気付く。
 紗絵は構わず、周りを見回す。
「……え……っ何で!? いない……っ」
 ジンの姿が無いことに、不安を覚えた紗絵は、天井から吊られている足を無理矢理降ろして、ベッドから降りる。
 とたん、少しよろけるが、何とか近くの棒に掴まる。見ると、それは点滴がぶら下がった支柱だった。その点滴は、紗絵の腕に繋がっていた。
「……――たっ」
 紗絵は、点滴の針を、思いっきり引き剥がす。
 あまりの痛さに、目眩が起きそうだ。
 血が出てくるのもお構いなしに、紗絵は右足を引きずりながら、歩き出す。
「……っジンさん……っキバ!」
 大部屋のベッドには、全てカーテンが掛かっていて、誰一人、紗絵の行動に気付いていないようだった。
「! ちょっと……あんた! どうしたの!?」
 病室の入り口で、偶然居合わせて、紗絵が肩を掴まれたのは、早苗だった。
 しかし紗絵は、ジンのことで頭が一杯で、そのことに気付いていないようだ。なおも歩こうとしている。
「ジンさん……っジンさんは!? ジンさん!」
「落ち着きなさい! 落ち着きなさい、紗絵! 私のこと分かる!?」
 その言葉で、紗絵は我に返る。
「か……あ……さん?」
 紗絵は早苗の姿を見るなり、急いで離れる。
「あ……っあ……っ」
 肩を震わせる紗絵を見て、早苗は両手を上げて、もう何もしないことを表した。
「大丈夫……ごめんね、紗絵。ごめん。お母さん……逃げてたのよ……現実から、目を逸らしてたの。許してなんて言わない……でも……一緒に住みましょう。もう……寂しい思いはさせないから。あの子に……怒鳴られてしまったわ」
 早苗は、本当に申し訳なさそうに言った。
「私……ちゃんと……ちゃんと、あなたの母親になる。寂しかったのは同じなのよね……。もう二度と、産まなきゃ良かったなんて、言わないわ」
 早苗は、両手を広げた。
 紗絵は、やっと安心したのか、少し肩を落とす。
「……もう……良いよ。あんまり、怒ってないから……。それより、ジンさん……ジンさんはどこ……? 何で居ないの……!?」
「ジンさん……?あ……ああ、あの子ね……さっきすれ違ったけど……海に行くって言ってたわ」
 早苗の言葉を聞いたとたん、紗絵はまた歩き出した。
「ちょっと! 紗絵!?」
 紗絵は、早苗の手を振り払い、何やらぶつぶつと呟きながら、必死で歩く。
「もう……っ周りが見えなくなるのは……一体誰に似たんだか」
 早苗は、紗絵の後姿を見ながら、溜め息を吐いた。

 紗絵は、やっとの思いで、病院から抜け出すと、海へと歩く。
 ギブスの嵌められている足は、包帯が黒く汚れ、もう片方の足は、病院のスリッパを履いたままだった。
 紗絵は、今にも泣き出しそうな顔をして、必死の思いで、ジンの名を呼び続けた。
「ジンさん……ジンさん……」
 そして、防波堤に、たどり着く。
 紗絵は、ゆっくりと海岸へ続く階段を降りる。最後の一段、足が縺れて転びそうになり、思わず両手を地面についた。
「……大丈夫?」
 紗絵が、ふと顔を上げると、目の前に、ジンの姿があった。
「……っジンさん……!」
 紗絵は、突然のことに、目を丸くする。
「俺のこと、探してくれるのはありがたいけど、ものすごく無理して来なくても……っま……君らしいな……」
 ジンは、そう言って苦笑いをする。
 紗絵は、ジンに体を起こしてもらった。
「……っねぇ、ジンさん……! どうしたの? キバは? もう、あたしの傍に居なくても、大丈夫なの?」
 紗絵の質問に、ジンは頷く。
「……うん。今朝、天の神様がわざわざ来てくださって、合格だって……俺が……」
「ごう……かく……?」
 ジンは、もう一度頷いた。
「キバは先に帰ったよ……。俺は、君にお別れを言わなきゃいけないから……。ありがとう、君のおかげだ……」
 ジンは、紗絵に微笑み掛けた。
 紗絵は俯いた。
「お……別れ? もう……二度と……。ジンさんにも……っキバにも……エリナさんにも、バーケさんにも……! 会えないの?」
 ジンから、紗絵の表情は見えなかった。
 紗絵は、涙を堪えていた。
「……嫌だ……っそんなの……う……嘘つき……!」
「え……?」
「嘘つき……嘘つき……嘘つき! 今度、皆で遊ぼうねって、言ってたのに! ジンさんの嘘つき!」
 紗絵の言葉に、ジンは、昨日のことを、思い出したようだ。ジンは、無理に作っていた笑顔を止めて、俯いた。
「……ごめん……約束……守れなくて……。ホントっ」
「……っでも!」
 急に、紗絵は、ジンの顔を真っ直ぐに見つめる。
 その瞳からは、涙が、とめどなく流れていた。
「ご……合格……おめでとうございます……っジンさんなら、きっと良い神様に、なれると思います。……っだから今度は……あたしの願いを……ちゃんと聞いてくださいね」
 紗絵は無理矢理、笑顔を作る。
 ジンは、紗絵の笑顔とも言いがたい顔を見た。
「紗絵ちゃん……」
「お別れは……すごく寂しくて、嫌なんですけど……仕方ないから……だから、笑顔でさよならって……。うんん……ありがとうって言います。あたし……皆と会えて……ジンさんに会えて……生きてて良かったで……っ」
 ジンが突然、紗絵のことを抱きしめた。
「す……っ」
 紗絵が、目を丸くする。
「……良かった……。最後に……その言葉が聞けて」
 紗絵は、目を閉じた。そして、顔を上げ、今度は目を開ける。その瞳は、青空に向けられていた。
「……ジンさん……あたし……感謝します……。全ての人に……。全ての物に……。産まれて……こうして生きていられることに……。そして……皆に出会わせてくれた神様に……感謝します」
 次の瞬間、突風が、二人を襲った。
 風で、紗絵の涙が飛び散る。
 ジンは、紗絵から離れなかった。
「……ほら……呼んでいるみたいですよ……。もう……行ってください……。ジンさん……」
 ジンは、紗絵を一瞬、力強く抱きしめると、手を離して、海の方へと駈けて行った。
「紗絵ちゃん……!」
 ジンは、紗絵の方に振り向いた。
「天の神様は……きっといつも見てるから! ……だから俺も! 俺も、天界から……っ空からずっと、紗絵ちゃんのこと見守ってる! 一人だなんて思わないで! 寂しかったら空を見上げて、俺達のこと思い出して……っ辛いことや、苦しいことがあっても、生きて……っ最後の時まで生きて……!」
 ジンの叫びは、紗絵の心に、真っ直ぐに届いた。
「……はい! ありがとうございます!」
 紗絵は、満面の笑みを、ジンに向けた。
 ジンは、それを見て、優しく笑むと、また海の方に向き直った。
「……こちらこそ……ありがとう!」
 もう二度と……会うことはないけれど……。
 ジンと紗絵は、口には出さずに、そう思った。
 ジンは、真冬の海の中に、平然と入っていく。
 紗絵は、ジンの姿を、見えなくなるまでは、見ていられなかった。
「ありがとう……ありがとう……ありがとう……あり……っ」
 紗絵は、その言葉を、何回か繰り返し言っていたが……やがて、その場に、崩れ落ちるようにしゃがみ込み、泣き始めた。
「……っすぐ……っすぐ元気になるから……っだから今は、今だけは……っ泣いても良いよね……っ」
 海岸には、紗絵の泣き声と、波の音だけが、響いていた。
 海には、ジンの姿が無くなっていた。

 天界に戻ってきたジンは、天の神様の、広い庭園に居た。
 ジンの後ろには、人間界へ繋がる井戸があり、まだ光を帯びていた。
「……あーもう! 何で俺まで泣いてんの……っ」
 ジンは、その場にしゃがみ込む。
 目には、涙が溜まっていた。
「……っジーン!」
 名前を呼ばれて、顔を上げると、誰かがジンに飛び付いてきた。
「は!?」
 突然のことに、ジンは驚きを隠せない。
 しかし、その声色には、聞き覚えがあった。
「……っジーナ!? ジーナか!?」
 ジンは、その神見習いの顔を見て、笑顔になる。
「久しぶりだな! 元気みたいで良かった! お互い!」
「……そんなに久しぶりじゃない気もするけど、良かった! 合格だって? あんたも!」
「……え……何で知って……」
 ジンは瞬きをする。
 ジーナは立ち上がり、ジンに右手を差し出した。
「あんたを迎えに行けって頼まれて。……さ、行くよ。宮殿で、皆が待ってる!」
「お……おう……」
 ジンは、少し戸惑いながら、ジーナの手を取った。
 そしてジンは、ジーナに連れられて、天の神の宮殿へと入った。
 中へ入ると、恐らく試験に受かった者達であろう、神見習い達が、歓声にも近い声で、ジンを迎えた。
「おう! 元劣等生! おめでとう!」
「まさか、お前が合格するとはなぁ、前代未聞だぜ。こりゃ」
「おめでとう、ジン」
「おめでとうジンくん! 今日はパーティだね!」
 ほとんど全神見習いが、ジンのことを祝福してくれているようだった。
 ただ一部の神見習い達は、
「バーケさん、何か禁忌を犯してたらしいぜ。だから、落ちたって」
「えーうっそ。あ、もしかして、あいつがバーケさんをそそのかして、ずるしたんじゃねぇ?」
「エリナさんも可哀想だね。こんな奴に負けるなんて。案外、あの人も大したことなかったってことか?」
 と、陰口を叩いていた。だが、傍に居た神様方に、何か一言言われると、すぐに押し黙った。ジンは、そんな神見習い達を横目で見やり、勝手なことばっか言いやがって、と思った。
「……ジン。気にすることはないよ。これがあんたの実力なんだから。あたしの言ったとおりだったでしょ? あんたは、やれば出来る子だって!」
 ジーナが、ジンに耳打ちする。
「お……おお……」
 ジンは、目の前を見た。
 少し段差があって、その上に、天の神が立っていた。
 その下の両側には、火の神と、水の神が居た。
 水の神は、天の神とはまた違った美しさで、ジンや、周りの神見習い達を魅了する。
 火の神のすぐ横には、カイルが居た。
「おめでとう……。ジン」
 カイルが、無機質な笑顔を、ジンに向ける。
「ありがとう……。お前らも、おめでとう」
 ジンは、ジーナとカイルに、笑いかけた。だが、試験に落ちて、この場に居ない者達のことを考えると、ジンは少し、心を痛めた。
(何やってんだよ。早く上がれ、待ちくたびれたぞ)
 いつの間にか、自分の肩に乗っていたキバに、ジンは驚く。
「……お……お前、いつの間に……ってか……俺の肩には、死んでも乗らねぇんじゃなかったのかよ」
(今日は特別だ。今日だけだぞ)
 ジンは、キバの頭部に手を置いて、嬉しくて撫でまくる。
(ぬあ! 止めろっ気安く触るな!)
「いーじゃんよー。ケチ」
 ジンは、小さな手に持ち上げられた手を見て、拗ねる。
(良いから、さっさと上がれっ)
「……っいて……!」
 ジンは、キバに蹴られた頭を押さえ、渋々段差を上がる。
 そして、目の前の天の神を、真っ直ぐに見つめた。
「ジン……。これから汝には、私の弟子になってもらう。そしていずれは、私の後を継いで、天の神になってもらわねばならん。汝には、この世界を……全ての世界を背負う、覚悟があるか?」
 天の神は、強い瞳で、ジンに問う。
 その真っ直ぐな瞳に、ジンは怯まず、こう言った。
「覚悟なんてないよ……」
 その言葉に、その場は騒然とした。だがジンは、それに構わず、続ける。
「でも……その代わり……。全ての世界の者達の、辛さや苦しみを、少しでも取り除いていきたいっていう、思いがある。ただ、背負うだけじゃなくて……。何が正しいとか、間違っているとか……答えなんて無くても……それが俺だから……。俺は、俺らしく、やるだけだ」
 ジンの言葉に、天の神は微笑む。
「汝らしいな……。良いだろう。手を出せ」
 ジンは、言われるがままに、天の神に右手を差し出した。
 天の神はその手を取ると、甲にそっと口付けをする。
 ジンは一瞬驚いたが、天の神の口元から、光が溢れ出していることに気付いた。
「あ……っ」
 返されたジンの手の甲には、白い文字で、?天?と書かれていた。
 それは、天の神の弟子になったという証。
 神見習い達が、歓声を上げた。
 ジンは、その印を見た時に、これはすごいことなのだと、改めて思った。
「……っありがとうございます!」
 天の神は、優しく微笑んだ。
「……っよっしゃー! 今夜は宴会じゃー!」
 ジーナが叫びながら、ジンの腕と、カイルの腕を掴んで、引っ張る。
「おわっ!」
(落ちるだろ! この女!)
 キバが、ジンの肩にがっしりと掴まり、ジーナに怒鳴る。
「ごめんね、おちびちゃん」
(ちびって言うな!)
 その会話に、ジンは少し気になっていたことを、キバに聞いてみる。
「そういえばキバ。お前なんで小ドラのままなの? お前も合格じゃ……っ」
 ジンの質問に、キバは、ジンから目を逸らす。
(お……俺が、頼んだんだよ……。この姿のままの方が、コンパクトだから……って……。自由に大きさ変えられるようにしてもらった。これからも、俺はずっとお前のパートナーだからな)
 ジンは、そんなキバを見て、微笑んだ。
「……ああ……頼りにしてるよ、キバ」
 そして、ジン達は歩き出した。
 色んな人の思いを乗せて、風が吹く。
 天の神は、ジンの後姿を、いつまでもいつまでも見ていた。
「全部……天の神様の言うとおり……ですか……。さすがです」
 火の神は、天の神を横目で見やると、目を閉じた。

 怪我を、すっかり完治した紗絵は、新しい家に居た。
 あの日の火事は、単なるタバコの不始末ということになっている。
 他の人は、誰一人として、母が娘を殺そうとしたという事実を知らない。
 紗絵は、あの日燃えてしまった?唐沢陣?のCDを、あらゆる手を使って、入手した。そのCDを握り締めて、CDコンポの前に、座り込んでいる。
 買ったばかりのCDは、神見習いであったジンを、思い出させた。
 紗絵は、ゆっくりとケースを開け、ディスクをコンポへ入れる。
 コンポからは、音が流れてくる。ジンの歌声が、部屋中に響く。

 茜色の空
 あの空よりも、もっと綺麗な空を見て
 君は、嘆いてたね
 僕は言うよ 君に言うよ
 だけど僕は鳥のように飛べやしないから
 この思いを届けられなくて
 泣いてしまうかもしれない
 だけど僕は 君に言うよ
 君は大切な とても大切な人だから
 この道を歩いていこう
 だってさ この道は
 健気な君が教えてくれた 道
 きっと そうだね
 歩いてゆける あの空まで
 空色の空
 僕を晴れ晴れとした気持ちにさせる
 本日晴天 日本晴れ
 僕の笑顔と君の笑顔
 太陽が 僕たちを見守ってくれている
 君は一人じゃないから
 いつも傍に僕が居ること
 決して忘れないでいてほしい
 僕の涙と君の涙
 明日もきっと 笑顔になるよ
 さぁ 空を見上げてごらん
 素敵な未来が 見えるだろう?

「……結構……良い歌じゃないですか……」
 そう呟く紗絵の瞳から、知らず知らずの内に、大粒の涙が、零れ落ちていた。
「あ……れ……おかしいな……何で……。もう……泣かないって、決めてたのに……」
 唐沢陣の歌声が、ジンの声が、紗絵の耳に残って、離れない。
 紗絵は、泣きながら、壁の時計を見た。
「もう時間だ……行かなきゃ……。彩ちゃんが待ってる……」
 紗絵はゆっくりと立ち上がると、音楽を止めた。
 涙を拭うと、紗絵は静かに、歩き出した。

「遅いぞ、矢野」
 紗絵が、彩子との待ち合わせ場所に行くと、意外な人物も居た。
「え……。何で……天枷君が……ここに?」
 そこには、誰であろう、天枷春樹が、彩子の隣に立っていたのである。
 紗絵がパニックに陥っていると、彩子がゆっくりわけを話す。
「あ……あの、何故か、朝、うちの前に居て……それで……その……今日のこと話したら……一緒に来るってきかなくて……」
「あー……つまりあれだ、あたし達のどっちかに、君は気があると……」
「馬鹿言うな。高貴な人間同士、親睦を深めようって、魂胆なんだろ」
 そう言って、春樹は、腕を組んだ。
「自分達だけずるいぞ。俺も混ぜろ」
 何故か偉そうな態度の春樹に、紗絵は溜め息を吐いた。
「こんな奴ほっといて、行こっ彩ちゃん」
「……っておい、だから置いてくなっての!」
 歩き出した紗絵と彩子を、慌てて追いかける春樹。
「……それにしても……。変わったよね、二人とも」
「うん……。自分でも、びっくりしてる。ジンさんのおかげだよ」
「え?」
 彩子の予想外の言葉に、紗絵は思わず、足を止める。
「バーケさんの……じゃなくて……?」
「うん」
 止まった紗絵の方向に、彩子は振り向く。その後ろには、追いついた春樹が居た。
「もちろん……バーケさんのおかげで、今まで誰かに甘えてばっかりだった自分に気付けたし……それも少しはあるけど。でも一番……あの言葉が、心に沁みた」
「何?」
 彩子は、少し間を置いて、言った。
「『肩の荷降ろして、良いんだよ。俺は、笑顔の君を、見てみたい』そう、ジンさんが言ってくれたの。……その時は、何も答えられなかったけど、自分から、肩の荷を降ろしたら、本当に……本当に、楽になったの……自分が出せるようになった。今の私があるのは……ジンさんの……おかげなのかなって」
「そっか……。良かったね」
 紗絵は、彩子に優しい笑顔を見せた。
「けっ。あんな奴の、どこがいいのかね」
 春樹は、ジンに平手打ちされたことを、まだ根に持っているようだった。
「あ、もしかして。天枷君、彩ちゃんに気があるな?」
 紗絵が、春樹をからかう。
「馬鹿。俺には、たった一人の愛した女が居るんだよ。今はもう、会えねーけど」
 春樹は、真面目に答えた。
 紗絵は、すぐに察しがついて、これ以上はからかえないなと、思った。
「……そっか。あんたにも居るのか。そういう大切な人」
 紗絵達は、堤防沿いを歩いていた。
 春樹が、ふと口を開く。
「何か……あいつさ……。エリナ……いつも、一生懸命だったんだよな……。馬鹿みたいに真っ直ぐで、曇りがなくて……。そういうのが、すっげぇ羨ましくて。いらいらして。・そんな時だった。あの男に、平手打ちされたのは。おかげで目が覚めたよ。エリナと、俺も真っ直ぐ向き合ってみようと、ちょっと思った」
 名称は言わないが、?あの男?が表す人物を、紗絵と彩子は分かっていた。
 春樹がこんなに気さくに付き合える仲間になったのは、同じような体験をしたからであり、お互いが、自分の中の何かを変えようと思ったからである。
 紗絵達が、春樹が隣のクラスで、同級生だったことを知ったのも、春樹が変わったからである。
 潮の香りがする。
 紗絵と彩子と春樹は、海岸へと続く階段を降りた。

 紗絵にとって、この海岸は、とても思い出深い海岸だった。
 父と、弟が死んだ海の近くであり、ジンとキバと出会って、そして別れた場所。
「さて、じゃあやりますか」
「うん」
「ああ」
 紗絵の言葉に、頷く彩子と春樹。
「まずは、彩ちゃんからどうぞ」
「え、私?……何か……恥ずかしいな」
 彩子は、少し顔を赤らめた。
「言いだしっぺが、やっぱ一番でしょう」
「うう……」
 彩子は、覚悟を決めると、思い切り口から息を吸い込んで、そして叫んだ。
「エリナさーん! あんまり話せなかったのが、残念で仕方ありませーん! バーケさーん! あなたの厳しい一言が、いつも胸に突き刺さって、とても痛かったでーす! でも! 今だったら、耐えられるような気がしまーす! そしてジンさーん! あなたのおかげで、私は変われましたー! ありがとうございまーす!」
「……何だよそれは」
 春樹が、少し不満そうに呟く。
「何って、一人一人にメッセージでしょうが」
 すかさず、紗絵のフォローが入る。
「それは分かるけど、もっとマシなメッセージは無いのか。特にエリナへのメッセージ。ホントのことだろうけど、もうちょっと何か言えよ」
「勝手に言ってろ」
 紗絵はそう言って、切り捨てた。
「良いよ、続けて。もっと一杯、言いたいことあるでしょ」
 紗絵の言葉に、彩子は頷く。
 そしてもう一度、大きく息を吸った。
「私ー! 皆のおかげでー! 強くなれたー! 本当の自分になれたー! 勇気をくれた皆が居てー! 今まで孤独だった私をー! 一人じゃないって思わせてくれた! 私は! 私は、これからも、前向きに! 生きていこうと思います! 本当に……っ本当に……っありがとう……ございました!」
 突然、勢いが途切れてしまった彩子を、紗絵は見た。
 彩子の目尻から、涙が流れていた。
「つ……辛かったの……ホントに……あの頃は……。皆が……皆が、天使みたいに思えた」
「良し良し……」
 紗絵はそう言いながら、泣いている彩子の頭を、優しく撫でた。
「うわぁんっ。紗絵ちゃーんっ大好き、ありがとうっ」
 彩子が、紗絵に抱きつく。
 そんな彩子を、紗絵は優しく受け止める。
「じゃ次ー! 天枷春樹行きまーす!」
「え!? ちょっと、次あたし!」
 春樹の突然の発言に、紗絵は慌てて、止めようとしたが、彩子に抱きつかれているので、紗絵は、身動きが取れない。
「お前は、最後の方が良いだろ。言いたいこと、俺らよりも有りそうだし」
「天枷君……」
 春樹は、大きく息を吸い、海に向かって叫ぶ。
「エリナー! 好きだー! 愛してるー!」
「……って、何、愛の告白してんの」
 紗絵と彩子が、同時に顔を赤らめる。
「うるせー! 俺はー! あん時言えなかったけどー! 最初はすっげーうざかったけどー! 本当の俺を分かってー! ホントは優しい奴だって言ってくれてー! すっげぇ嬉しかったー! いつの間にか惹かれてたー! 大っ好きだー! 以上!」
 春樹は言い終わると、砂浜に腰を下ろした。
「すっげー恥ずい」
 そして、顔を紗絵と彩子以上に赤らめて、その顔を、両手で覆い隠す。
「なら言うなよ」
「うるせー! 言っておきたかったんだよ、俺の気持ち。それより、最後お前だろ、さっさと言えって」
「え、ジンさんとバーケさんには?」
「言うことねぇよ」
「……そっか」
 紗絵は納得すると、海に向いた。彩子は、紗絵から、一歩離れる。
 紗絵は、息を大きく吸い込んだ。
「エリナさーん! あたしー! いつも一生懸命なエリナさんをー! 見習いたいと思いまーす! ありがとうございましたー! バーケさーん! あなたはとても、強い人かと思ってたけどー! 本当はとても弱い人でー! でもー! あなたも真っ直ぐな人だった! その真っ直ぐさは! 素晴らしいと思いまーす! 最後にジンさーん! あたしー! あたし……っ」
 紗絵は、そこで言葉を失った。
「紗絵ちゃん……?」
「矢野……?」
「あたし……っ。そんな……そこまで……強く……ないから……」
 紗絵の目尻から、涙が溢れ出ていた。
 彩子が心配して、紗絵の右手を握る。
「泣かないって! 決めたのに! それでも、悲しくて! 泣いちゃうけど! 許してくださいね! ホント! ジンさん! 良い歌でしたー! すごく、ジンさんの気持ちが、一杯詰まった歌でしたー! ありがとう……っございました! キバも……っありがとう!」
 紗絵は、最後の力を振り絞って、紗絵は叫んだ。
「最後だから……もう……ここには、思い出を背負って来るのは……最後にする。また……夏になったら……きっと、たくさんここに人が来る。だから……あたし達も、海水浴に来るよ……そんで……そんで、楽しそうな笑顔を、見せびらかしに来るよ……」
「うん」
 紗絵の言葉に、彩子は頷いた。
 春樹は、空を見上げる。
「青いな……空も、海も」
 春樹は、そう呟いて、目を閉じた。
 波の音だけが聞こえる……。
「未来へ歩こうか。ゆっくりでいいから、確実に」
 そう、春樹は呟いた。
「そうだね」
「うん」
 紗絵と彩子は同意すると、春樹と同じように、空を見上げた。
「本当だ……。青い」
 紗絵はそう呟いて、空に向かって、笑顔を見せた。
 それはまるで、ジンへと向けた笑顔のように……。

 天界での、その後の話だ。
「え、あの津波とか、火事とか、竜巻とか、お前らが起こしてたのか?」
 ジンは宴会中に、衝撃の事実を告げられていた。
「うん。あの津波、あたしが起こしてたの」
「火事……良い火が出てたろ……」
 ジーナが、天界でのご馳走、神木の赤い実を、貪り食う。
 カイルは神酒を、ゆっくりと口に入れた。
恐らく竜巻を起こしていたであろう風の神の弟子は、無言で頷いていた。
「実は……あたし達の試験内容はね、あんたを成長させる手助け。だったのよ」
「成長……?」
「別名……お前にやる気を出させる試験」
 ジンはそれを聞くと、瞬きをした。
「何……俺って、試されてたの……?」
(似たようなもん。だな)
 ジンの呟きに、テーブルの上の、小さい姿のキバが、答える。キバもまた、ジーナと同じ神木の実を、両手で持って、少しずつかじっていた。
「な……っ何だよそれ!」
 ジンが、少し怒ったように叫ぶと、テーブルの一番端にいた天の神が、答える。
「汝を成長させるには……致しかたないことだったのだよ」
 天の神は、その美貌を弄ぶかのように、そこに座っていた。
「その二人は、汝と特に仲が良く、一番長く一緒に居た時間があったのだ。影響力も、強いはずだろう。友として、共に歩む仲間として、二人にはわざわざ、悪役に回ってもらったのだ。その心の強さを見込んでな」
「そ! 流石天の神様! 良く分かってらっしゃるっ」
(おいこらっ! お前、天の神様に、何て口の利き方しやがる!)
 キバがジーナにそう言うと、天の神は寛大な心で、
「良いのだよ、キバ。それが彼女の個性なのだから。そうであろう? 水の神よ」
 と言って、水の神の方を見た。
「ええ。この、神世界に革命をもたらしてくれる、素晴らしい娘だと、私は思いますわ」
 水の神は、おっとりとした様子で言った。
 とうのジーナは、少し照れ笑いをしていた。
「す……すみません。ありがとうございます」
 キバは、少し拗ねた様子で、ひたすら神木の実を、貪り食った。
「ジン……どうした、食わないのか?」
 目の前のご馳走に、なかなか手を出さないジンに、天の神が気付いて、そう聞いた。
 するとジンは、天の神に、こう聞いた。
「紗絵ちゃんは……紗絵ちゃんは……あの子は、これからどうなるんですか?」
 ジンは、紗絵のことが、ずっと気がかりがったのだ。
「それに……?消滅?してしまった神見習い……彼らは……っ」
 ジンは、天の神を、真っ直ぐに見た。
 天の神は、言った。
「あの娘は、これからも生きてゆかなければならぬ。それは例え、この先どんなに辛い目に遭おうとも。それを乗り越えるのは、彼女であって、私達にはどうすることも出来ぬ。私達は、ただの監視者だからだ。だが、少なくとも今回のことで……彼女もお前のおかげで、一つ大人になれた。あの娘は、強い。心配は要らない。私達はただ、これからも彼女を、見守っていくしかないのだ。それはもちろん、他の人間達にも言えることだ」
 天の神は、天を見上げ、指を差した。
 そこに居た神や、その弟子達が、一斉に天を見上げる。
「わぁっ」
 ジーナが思わず、声を上げる。
 ジン達が見たものは、天を颯爽と舞う、天使たちの姿だった。
 天使の大群が、どこかへ向かっていた。
「あ……っ」
 その中に、エリナとバーケを見つけたジンは、思わず立ち上がり、右手を上げて、その名を叫び、呼びかけた。
「おーい! エリナ! バーケ! 俺は、俺はここだ! ここに居るぞー!」
 しかし、その呼びかけも空しく、天使たちはその場から離れていく。
「無駄だ、ジン。彼らはもう、汝のことなど、覚えてはおらん」
「……っそんな!」
 天の神の言葉に、ジンは眉をひそめる。
「そんな……二人とも……。俺のせいで……っ」
「ジン……」
 ジーナが、すっかり肩を落としてしまったジンを見て、気持ちを察する。
 だがジーナには、どう声をかけていいか、分からなかった。
 天の神が、ジンに向かって言う。
「……そんなに気を落とすな。汝のせいではない。これは、輪廻転生の、人間としての定めなのだよ。命は移り変わり、そして成長していく。汝がそうであったように。彼らもまた、さらなる高みへ登るため、再びスタートラインに立つのだ。……今度は悪魔に落ちてしまうかも知れない、だが、強い心さえ持っていれば、いつかまた、違う形で、また彼らに出会える。ジン、答えが一つだとは思わぬことだ。未来への可能性は、いくつもあるのだから」
 天の神は、ジンを、真っ直ぐに見つめた。
 ジンは、天の神の、その一つ一つの言葉を噛み締めて、再び天を見上げた。
「はい!」
 ジンは、そう大きく返事をすると、人間界の空と同じく、先の見えない天を見上げたまま、固めた決意を胸に秘めた。
「またいつか……絶対に会えるよな。バーケ、エリナ。俺は信じる。そして、お前らがずっげえ驚くくらい、良い天の神様に、なってやる!」
 天の神は、そう言ったジンの顔を、優しく見つめて、微笑んだ。
 いつかの未来にそれが叶うことを、確信して。
 天は、いつまでもいつまでも、金色に輝いていた。

08/9/18